Quantcast
Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

古代山城(こだいさんじょう)は、飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設の総称である

$
0
0


古代山城

   
古代山城の分布
緑色は文献に見える山城(狭義の朝鮮式山城)、青色は見えない山城(神籠石式山城)。
古代山城(こだいさんじょう)は、九州地方北部・瀬戸内海周辺にあった古代日本の山城の総称。



概要[編集]

飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設の総称である。従来、文献に見える山城は「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ(さんじょう))」、見えない山城は「神籠石式山城(こうごいししき-、神籠石系山城)」と呼び分けられてきたが、近年の発掘調査により両者の違いが必ずしも明確でなくなりつつあり、これらをして「古代山城」と総称される傾向にある[1]
文献に見える城は12ヶ所(狭義の朝鮮式山城11ヶ所と中国式山城1ヶ所)、見えない城は16ヶ所(神籠石式山城)あり、合計28ヶ所を数える[2]。これらは基本的に山1つを防御施設としたもので、山の頂上付近を土塁・石塁で区画しており、大規模なもので区画の外郭線は数キロメートルを測る[1]。これらの山城は古代に役目を終え、一部の城跡では中世に山城や寺社などが設置され現在に至っている[2]

イメージ 1

分類

狭義の朝鮮式山城

「朝鮮式山城」の名称は、天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いでの倭軍敗北後に、これらの城が百済将軍の指導の下で築城されたことに基づく[2]。『日本書紀』によれば、天智天皇4年(665年)8月に百済将軍の答ホン春初[3]が長門に城を、憶礼福留・四比福夫らが筑紫に大野城椽城を築城したという[2]近江大津宮遷都や水城築城と同様に、新羅からの侵攻を意識した施設になる[2]
文献では高安城茨城常城長門城屋島城・大野城・基肄城(椽城)・鞠智城金田城・三野城・稲積城の計11ヶ所が記され、これらが狭義の朝鮮式山城とされているが、うち長門・茨・常・三野・稲積の5ヶ所は所在地が明らかでない[2]。所在の明らかな城の遺構としては、石塁・土塁・建物跡などがある[2]
なお、『日本書紀』の壬申の乱の記事では三尾城(滋賀県高島市付近か)の存在が見えるが、これも近江大津宮の北方守備として築かれていた朝鮮式山城の1つとする説がある[4]

中国式山城

怡土城跡(福岡県糸島市
「中国式山城」または「大陸系山城」の名称は、文献に見えるも朝鮮式山城には属さない怡土城福岡県糸島市)を指す[2]。築城時期は朝鮮式山城(7世紀後半頃)から下る8世紀中頃で、その背景としては唐の安禄山の乱の影響に備えたとする説や、藤原仲麻呂による新羅征討計画の拠点とする説などがある[5]。ただし、後者の新羅征討計画は実行に移されることはなかった[2]。この怡土城の築城には、吉備真備が入唐時の知識を活かしたと見られている[2]。遺構としては土塁・望楼跡・城門跡などがある[2]
朝鮮式山城が攻撃相手に城内を見せない構造を採るのに対して、怡土城では山の斜面にたすき状に築き城内を見通される構造を採るなどの特徴があり、攻撃的性格の強い城とされる[6][7]

神籠石式山城

御所ヶ谷神籠石
(福岡県行橋市ほか)
神籠石式山城」の名称は、初めて発見された高良山の遺跡の呼称に由来する[2]。その後各地で高良山に似た列石や石塁の遺構が見つかり、これらを巡り霊域説・山城説に分かれて議論(神籠石論争)が展開されたが、現在では山城跡が定説となっている[1][2]。百済の技術を基にした山城と見られる点では、この神籠石式山城も「広義の朝鮮式山城」の範疇に入る[2]。現在見つかっているものは16ヶ所[2]。遺構の特徴としては、切石を並べた列石を土塁の土留め石とする点や、列石区画の内側には特に建物跡が見られないという点が挙げられる[2]
これらの山城では年代を示す遺物の出土が少ないため、その存続年代が明らかでない[2]。上記の朝鮮式山城と同様の7世紀後半頃と推測する説などがあるが定かではなく、朝鮮式山城・神籠石式山城の年代の前後関係が注目されている[1][2](詳細は「神籠石」を参照)。



イメージ 2
イメージ 3




イメージ 4



イメージ 5



イメージ 6




イメージ 7




イメージ 8

一覧

[表示]全ての座標を示した地図 - OSM
全ての座標を示した地図 - Google
200地点までの座標を示した地図 - Bing国 名称 所在地 座標 主な遺構 史跡指定 文献 備考 文化庁
古代山城の一覧[2][8]
文献に見える城(狭義の朝鮮式山城)
大和国高安城奈良県生駒郡平群町
ほか
位置倉庫建物跡なし天智天皇6年(667年)11月条(築城)
天智天皇8年(669年)是冬条(修造)
天智天皇9年(670年)2月条(修造)
文武天皇2年(698年)8月20日条(修造)
文武天皇3年(699年)9月15日条(修造)
大宝元年(701年)8月26日条(廃城)
備後国茨城(推定)広島県福山市(未判明)なし養老3年(719年)12月15日条(廃城)
常城(推定)広島県福山市・府中市(未判明)なし養老3年(719年)12月15日条(廃城)
長門国長門城(推定)山口県下関市(未判明)なし天智天皇4年(665年)8月条(築城)
天智天皇9年(670年)2月条(築城)
讃岐国屋島城香川県高松市位置石塁・土塁・水門跡・貯水池跡国の史跡天智天皇6年(667年)11月条(築城)[1]
筑前国大野城福岡県糟屋郡宇美町太宰府市
大野城市
位置石塁・土塁・城門跡・倉庫建物跡国の特別史跡天智天皇4年(665年)8月条(築城)
文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
[2]
基肄城(椽城)佐賀県三養基郡基山町
福岡県筑紫野市
位置石塁・土塁・水門跡・倉庫建物跡国の特別史跡天智天皇4年(665年)8月条(築城)
文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
[3]
肥後国鞠智城熊本県山鹿市菊池市位置土塁・城門跡・倉庫等建物跡国の史跡文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)[4]
対馬国金田城長崎県対馬市位置石塁・水門跡・城門跡国の特別史跡天智天皇6年(667年)11月条(築城)[5]
不明
(筑前国?)
三野城(推定)福岡県福岡市(未判明)なし文武天皇3年(699年)12月4日条(修理)
不明
(筑前国?)
稲積城(推定)福岡県糸島市(未判明)なし文武天皇3年(699年)12月4日条(修理)
近江国(三尾城:参考)(推定)滋賀県高島市(未判明)なし天武天皇元年(

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

Trending Articles