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鞠智城は、文武天皇時代の修築記事(698年)で初めてその名が正史に登場する

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鞠智城

       
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鞠智城
熊本県城郭構造 築城主 築城年 廃城年 遺構 指定文化財 再建造物 位置
歴史公園・鞠智城
古代山城(朝鮮式山城)
(推定)大和朝廷
建物基礎
国の史跡「鞠智城跡」
米倉・板倉・兵舎・鼓楼

鞠智城(くくちじょう/くくちのき[1])は、現在の熊本県山鹿市菊池市にあった日本の古代山城(朝鮮式山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
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概要

文武天皇時代の修築記事(698年)で初めてその名が正史に登場するが、築城年は記載がなく現在も確定されていない。しかし、7世紀後半、軍が朝鮮半島の白村江新羅の連合軍に敗れたため、その来寇に備える軍事拠点と位置づけられて築城されたものと考えられている。古代史の資料『六国史』の記述や百済系の出土例などから、鞠智城は百済の亡命貴族の指導で築城されたと考えられており、遺跡からは百済貴族が持ち込んだと推定される青銅製の菩薩立像も出土している。
大宰府管轄下にあった6城の中でもっとも南に位置しており、前線の大野城基肄城に物資を供給する兵站基地として築かれた城と考えられている。城の面積は内城55ha、外縁地区65haに及ぶ。



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1959年昭和34年)に「(伝)鞠智城跡」として県指定遺跡に指定。1967年(昭和42年)より発掘調査が行われ、当時としては珍しい八角形建物(韓国の二聖山城跡に類似の遺構がある)をはじめ72棟の建物基礎が現在までに確認されている。
平成6年(1994年)より「歴史公園鞠智城・温故創生館」として整備が開始された。校倉造り米倉や兵舎が1997年(平成9年)に、八角形鼓楼が1999年(平成11年)に復元され公開されている。2004年(平成16年)に国の史跡に指定された。


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関連文献

続日本紀』文武天皇二年(698年)五月二十五日条
「大宰府をして、大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城を繕治(ぜんち)せしむ」
三代実録』元慶三年(879年)三月十六日条
「肥後国菊池郡城院の兵庫の戸が自ら鳴る」


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白村江の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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白村江の戦い 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
戦争:白村江の戦い
年月日
旧暦天智天皇2年8月27日 - 同年8月28日
グレゴリオ暦663年10月4日 - 10月5日
場所:朝鮮半島、白村江(現在の錦江近郊)
結果新羅連合軍の勝利

新羅
倭国
百済遺民勢力
劉仁軌
文武王
上毛野君稚子
阿倍比羅夫
扶余豊璋
不明
唐軍:130,000?[1]
唐船舶:170余以上
新羅軍:50,000?[1]
倭国軍:42,000
倭国船舶:800余
百済軍:5,000
不明船舶:400
兵:10,000
馬:1,000
(中国)白江口の戦い 各種表記繁体字簡体字拼音注音符号英文
白江口之戰
白江口之战
Báijiāngkǒu zhī zhàn
ㄅㄞˊ ㄐㄧㄤ ㄎㄡˇ ㄓ ㄓㄢˋ
Battle of Baijiangkou
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(朝鮮)白江の戦い 各種表記ハングル漢字発音日本語読み:2000年式
MR式
英語表記:
백강 전투
白江戰鬪
ペッガンチョントゥ
はっこうせんとう
Baekgang jeontu
Paekkang chŏnt'u
Battle of Baekgang
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白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国百済遺民の連合軍と、新羅連合軍との戦争のことである。

名称

 日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と読まれることが多い。「白村江」という川があったわけではなく、白江(現錦江)が黄海に流れ込む海辺を白村江と呼んだ[2]。「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」で城や柵を指す[2]。白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった[2]。ただし、大槻文彦の『大言海』では「村主:スクリ(帰化人の郷長)」の「村」を百済語として「スキ」としている。
漢語では白江之口と書く(旧唐書[2]



背景

朝鮮半島と中国大陸の情勢

6世紀から7世紀朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。
倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録から知られている。大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那」の記述が初出である。『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示している。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされた。
475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津(くまなり)への遷都によって復興し、538年には泗沘(しび)へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている[3]
一方、581年に建国されたは、中国大陸を統一し文帝煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行ったもののいずれも失敗した。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国されたは、628年に国内を統一した。唐は二代太宗高宗の時に高句麗へ3度(644年,661年,667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになる。

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唐による新羅冊封

新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年~647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(~661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた[4]649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。

百済の情勢

百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた[5]。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している[6]。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる[7]。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた[7]
659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した[7]



倭国の情勢

この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。
新羅征討進言
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。
遣唐使
白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。
蝦夷・粛慎討伐
斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。

百済の役

660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という[8]

百済滅亡

 660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた[9][10]。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した[10]。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった[1]
百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった[10]。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した[10]。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭ケンと白江を超えて侵入していた[10]
黄山の戦い
百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、階伯(かいはく)将軍の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた。新羅側は太子法敏(のちの文武王)、欽純(きんじゅん)将軍、品日(ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて黄山を突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。7月9日の激戦黄山の戦いで階伯ら百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した[10]。この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになったが、蘇定方の部下が取り成し罪を許された[11][12]
唐軍は白江を越え、ぬかるみがひどく手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸し、熊津口の防衛線を破り王都に迫った[13]。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した[13]
7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否[13]。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した[13]
660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置いた。唐は劉仁願将軍に王都泗沘(しび、サビ)城を守備させ、王文度(おうぶんたく)を熊津都督として派遣した[14]熊津都督府)。唐はまた戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた[7]。大唐平百済国碑銘は、現在も扶餘郡の定林寺の五重石塔に残っている[2]

百済復興運動

唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かう[15]と、百済遺民鬼室福信黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。現在の忠南礼山郡大興面)を防衛した[16]。9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した[16]。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4,5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた[16]。熊津都督王文度も着任後に急死している[16]
唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した[17]。10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した[17]
しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信、僧侶道琛(どうちん)、黒歯常之らの任存城や、達率余自信周留城(スルじょう)などが抵抗拠点であった[17]

倭国による百済救援

百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。
中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。
661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり[要追加記述])。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。

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