ネアンデルタール人
ネアンデルタール人の頭骨 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
更新世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Homo neanderthalensis | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ネアンデルタール人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Neandertal |
ネアンデルタール人(ネアンデルタールじん、ホモ・ネアンデルターレンシス、Homo neanderthalensis)は、約35万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したヒト属の一種である。シベリアのアルタイ地方で発見されたデニソワ人はネアンデルタール人の兄弟種である可能性が高い。なお、インドネシアのフローレス島で発見されたフローレス人はホモ・エレクトスである可能性が高い。
ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの一亜種であるホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス (Homo sapiens neanderthalensis) と分類する場合もある[1]。この場合ネアンデルタール人と現世人類との分岐直前(約47万年前)の共通祖先もまたホモ・サピエンスということになる。本項ではいずれの学名でも通用する「ネアンデルタール人」を用いる。
かつて、ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先とする説があった。しかし、遺骨(化石)から得られたミトコンドリアDNAの解析結果に基づき、現在ではネアンデルタール人は我々の直系先祖ではなく別系統の人類であるとする見方が有力である。
両者の遺伝子差異は他の動物種ならば当然別種と認定されるレベルであり、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは混血できなかったとする考え方が有力であった[2]。しかし、2010年5月7日のサイエンスに、われわれホモ・サピエンスのゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数%混入しているとの説が発表された[3]。
概要
現生人類であるホモ・サピエンス誕生は約25万年前であるが、ホモ・サピエンスの直接の祖先のうち、25万年前以上前に活動・生息していた人類祖先も旧人段階にあったと考えられるため、ネアンデルタール人だけが「旧人」に該当するわけではない。ホモ・ヘルメイ、ホモ・ローデシエンシス、そしてホモ・サピエンス・イダルトゥ発生以前の古代型サピエンスも旧人段階に該当する人類であると考えられる。
また、上記の通りネアンデルタール人は広い地域に分布して多数の化石が発見されており、それらは発見地名を冠した名称で呼ばれる。例として、ラ・シャペル・オ・サン人(La Chapelle-aux-Saints、以後は「ラ・シャペローサン人」とする)、スピー人、アムッド人などが挙げられる。
本稿では、以後それらの人類の総称として「ネアンデルタール人類」の用語を用いる。ネアンデルタール人から最も拡張した学術用語として旧人段階の人類全てをネアンデルターロイドと呼ぶこともあり、ホモ・ローデシエンシスまでをも含むこともある(世界大百科事典[要文献特定詳細情報])が、命名の経緯はどうであれ実質は進化段階を示す用語であり、ネアンデルターロイドは生物学的単一種を意味しない。本項ではネアンデルタール人類について記述する。
研究史
発見
最初に発見されたネアンデルタール人類の化石は、1829年にベルギーのアンジスで発見された子供の頭骨である[5]。1848年にはスペイン南端のジブラルタルからも[6]女性頭骨が見つかっている。しかしこれらの古人骨が発見された当時は、その正体はわからないままであった。
最初に科学的研究の対象となったネアンデルタール人類の化石が見つかったのは1856年で、場所はドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷 (Neanderthal) にあったフェルトホッファー洞窟であった。これは石灰岩の採掘作業中に作業員によって取り出されたもので、作業員たちはクマの骨かと考えたが念のため、地元のギムナジウムで教員を務めていたヨハン・カール・フールロットの元に届けられた。フールロットは母校であるボン大学で解剖学を教えていたヘルマン・シャーフハウゼンと連絡を取り、共同でこの骨を研究。1857年に両者はこの骨を、ケルト人以前のヨーロッパの住人のものとする研究結果を公表した[7]:217-219。
ウィルヒョーらによる批判と進化論の登場
フールロットとシャーフハウゼンによる研究は多くの批判に晒された。ボン大学のオーギュスト・マイヤーはカルシウム不足のコサック兵の骨ではないかと主張し、病理学の世界的権威であったベルリン大学のルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョーもくる病や痛風にかかって変形した現代人の老人の骨格と主張した。
しかし1858年から1859年にかけて、アルフレッド・ラッセル・ウォレスとチャールズ・ダーウィンが進化論を発表すると、問題の古人骨も進化論の視点から再検討された。1861年にはフールロットとシャーフハウゼンによる論文が英訳され、1863年にはトマス・ヘンリー・ハクスリーが自著においてこの古人骨を類人猿とホモ・サピエンスの中間に位置づける議論を行った。1864年にはゴールウェイのクイーンズカレッジ(現在のアイルランド国立大学ゴールウェイ校)で地質学を教えていたウィリアム・キングがこの古人骨に「ホモ・ネアンデルターレンシス (Homo neanderthalensis)」 の学名を与えた。
1901年から1902年にかけては、当時シュトラスブルク大学で教鞭を執っていたグスタフ・アルベルト・シュワルベ (Gustav Albert Schwalbe, M.D.) がジャワ原人とネアンデルタール人との比較研究を行い、ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先とする論文を発表した[7]:218-220。
研究の進展
20世紀前半には、ネアンデルタール人類の完全に近い骨格化石がフランスのラ・シャペローサン、ラ・フェラシー、ラ・キーナその他ヨーロッパ各地から幾つも発見されて彼らの形質が明らかになった。それとともに、彼らとホモ・サピエンスとの関係が議論されるようになった。
ラ・シャペローサン出土の完全骨格を調査したフランスのマルセラン・ブールは1911年から1913年にかけての論文で、ネアンデルタール人類は現生人類と類人猿との中間の特徴を持ち、曲がった下肢と前かがみの姿勢で歩く原始的な人類(原始人)とした。ブールはシュワルベとは異なり、ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先とは考えない立場を採った。また、脳は大きいが上下につぶれたように低いので知能も低く、野蛮で獣的であるとの説も広まった[8]。
1929年から1933年にはイスラエルのカルメル山にあるナハル・メアロットの洞窟群でネアンデルタール人類とホモ・サピエンスの中間的な形質のある化石人骨が次々に発見された。第二次大戦後にはラ・シャペローサン人の化石が再検討され、類人猿的とされた特徴は老年性の病変もしくは先入観による誤認であることが明らかとなった[7]:214-215。
1951年から調査が始まったイラクのシャニダールでは、発掘されたネアンデルタール人類の第4号骨格の周辺の土をラルフ・ソレッキが調査したところ、少なくとも8種類の花の花粉や花弁が含まれるとの結果が出た。ソレッキはこの結果を、遺体に献花されたものであると解釈した。しかしながら、この解釈に対しては異論も提出されており、ネアンデルタール人が仲間の遺体に花を添えて埋葬したのかどうか、はっきりとした結論は出されていない[7]:224-225。
単一起源説の登場と分子生物学における研究
ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先と見る立場の場合、ネアンデルタール人からホモ・サピエンスへの進化は世界各地で行われたと考える(多地域進化説)。これに対し、ウィリアム・ハウエルズ (William White Howells) は1967年の著書Mankind in the makingにおいて、単一起源説を主張し、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスの祖先ではないとした[7]:228。
1997年にはマックス・プランク進化人類学研究所のスヴァンテ・ペーボらがフェルトホッファー洞窟で見つかった最初のネアンデルタール人の古人骨からDNAを抽出し、ホモ・サピエンスとの関係を検討した研究を発表。ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先とする立場は否定された[9]。