文化財一覧
国宝
(そうふくじだいいっぽうもん)
国宝
指定年月日 昭和28年3月31日
所在地 長崎市鍛冶屋町7番5号
中国寧波(ニンポー)で材を切組み、元禄8年(1695)唐船数隻に分載舶来(ぶんさいはくらい)し再建された。軒下の構造組物(くみもの)に特徴があり、四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)と呼ばれる複雑巧緻な詰組(つめぐみ)は他には例がなく、華南地方にも稀という。垂木(たるき)を平(ひら)に使った二軒の扇垂木(おうぎたるき)・鼻隠板(はなかくしいた)・挿肘木(さしひじき)・柱上部の籘巻(とうまき)等は寺内他の建物にも見られる。軒下軒裏には極彩色の吉祥(きっしょう)模様を施し、雨がかり部分は朱丹一色塗にしてある。当初はここが山門であったが、延宝元年(1673)この下段西向きに、新たに三門が建立されて、ここは二の門となった。別名は唐門(からもん)・海天門・中門(ちゅうもん)など。第一峰と海天の名称は扁額(へんがく)の文字による。
備考
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- 路面電車「正覚寺下」下車徒歩3分
- バス「崇福寺入口」下車徒歩3分
(そうふくじだいゆうほうでん)
国宝
指定年月日 昭和28年3月31日
所在地 長崎市鍛冶屋町7番5号
福州出身の在留唐人が中心となって、福州から僧超然を招き創立した寺。釈迦(大雄)を本尊とする大雄宝殿は、大檀越(有力な財物施与者)何高材の寄進により、中国で切組み唐船で運び正保3年(1646)上梁建立された。
当初は単層屋根(たんそうやね)。35~6年後の延宝天和の頃、外観重層を付加し現在の姿となった。下層部分は軒回りの逆凝宝珠束(ぎゃくぎぼしづか)の持送りや、前廊部分が俗に黄檗(おうばく)天井と呼ばれるアーチ型の天井であるなど、中国建築様式であるのに対して、上層部の建築細部様式は和様を基調とし、しかも両者は違和感なく調和している。この上層部の意匠は福済寺大雄宝殿(原爆焼失)のそれに類似する。
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国指定重要文化財
(きゅうとうじんやしきもん)
国指定重要文化財
指定年月日 昭和36年6月7日
所在地 長崎市寺町4番32号 興福寺境内
寛永13年(1636)の出島埋築に遅れること54年、 元禄2年(1689)十善寺郷御薬園跡に唐人屋敷が完成。来舶唐人の民宿を禁じて、皆ここに居住させることとした。
約3万平方メートルの敷地には住宅・店舗・祠堂その他が軒を連ね一市街地を形成した。その後数度の火災があったが、天明4年(1784)の大火で関帝堂を残し他は悉く焼失、以後唐人自前の建築も許された。この門の用材は中国特産の広葉杉(こうようざん)で、 建築様式も中国式特有のものであり、天明大火以後の唐人住宅門と思われる。 旧唐人屋敷内に遺存していたのを、保存のため、 昭和35年(1960)現位置に移築された。扉は二重で、内門は貴人来臨専用。
約3万平方メートルの敷地には住宅・店舗・祠堂その他が軒を連ね一市街地を形成した。その後数度の火災があったが、天明4年(1784)の大火で関帝堂を残し他は悉く焼失、以後唐人自前の建築も許された。この門の用材は中国特産の広葉杉(こうようざん)で、 建築様式も中国式特有のものであり、天明大火以後の唐人住宅門と思われる。 旧唐人屋敷内に遺存していたのを、保存のため、 昭和35年(1960)現位置に移築された。扉は二重で、内門は貴人来臨専用。
備考
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路面電車・バス「公会堂前」下車徒歩5分
- 旧長崎英国領事館
- 旧長崎税関下り松派出所
- 旧香港上海銀行長崎支店
- 旧本田家住宅
- 旧羅典神学校
- 旧リンガー(弟)住宅
- 清水寺本堂
- 絹本著色仏涅槃図
- 絹本著色不動明王三童子像
- 興福寺本堂(大雄宝殿)
- 出津教会堂
- 紙本著色泰西王候図六曲屏風
- 珠冠のまぬある(吉利支丹版長崎刊 慶長十二年)
- 聖福寺4棟(大雄宝殿 天王殿 鐘楼 山門)
- 崇福寺護法堂(関帝堂又観音堂)
- 崇福寺三門(楼門)
- 崇福寺鐘鼓楼
- 崇福寺媽姐門
崇福寺媽姐門
(そうふくじまそもん)
国指定重要文化財
指定年月日 昭和47年5月15日
所在地 長崎市鍛冶屋町7番5号
媽祖堂の前にあり、大雄宝殿と方丈(ほうじょう)玄関をつなぐ渡廊下を兼ねた巧みな配置になっている。現在の媽祖門(媽祖堂門)は文政10年(1827)再建されたもの。媽祖は、ぼさ(菩薩)ともいい、ぼさ門とも呼ばれる。
八脚門(はきゃくもん)3間3戸形式で、扉の前面は黄檗(おうばく)天井、背面は山形天井。木割が大きく、外観は雄大。細部に僅かの塗料を用いるほかすべて素木(しらき)のままとし、建築様式は大体和様が基調である。
興福寺媽祖堂には門がなく、福済寺では観音堂が媽祖堂にあたるが、これには門があった。聖福寺及び宇治の黄檗山萬福寺(まんぷくじ)には媽祖堂がない。媽祖堂の門というのは、その意味でも数少ない遺例である。
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- 路面電車「正覚寺下」下車徒歩3分
- バス「崇福寺入口」下車徒歩3分
国指定重要無形民俗文化財
国指定史跡
曲崎古墳群
(まがりざきこふんぐん)
国指定史跡
指定年月日 昭和53年12月21日
所在地 長崎市牧島町
この古墳群は、5世紀末から7世紀初めにかけて、つくられた古墳群である。平成16年度末現在で、101基の積石塚(つみいしづか)と性格不明の遺構約500か所が確認された。 又ガラス製の玉類や、 当時の人々が使用した壺や、甕が発見された。古墳は、一般的に遺体を入れる室を石で築き、その上に土を盛りあげているが、ここのものは、土ではなく丸い石ころを積みあげているところに特徴があり、このようなものを積石塚と呼んでいる。
石室構造には竪穴系横口式石室の特徴をもつものが見られ、 北部九州に分布する同種の石室構造をもつ古墳群と同様で、このことからこの地域が北部九州の文化圏に属していたことが判明した。
石室構造には竪穴系横口式石室の特徴をもつものが見られ、 北部九州に分布する同種の石室構造をもつ古墳群と同様で、このことからこの地域が北部九州の文化圏に属していたことが判明した。
備考
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バス「臼の浦」下車徒歩20分
国指定天然記念物
国認定旧重要美術品
国選定重要文化的景観
国選定重要伝統的建造物群保存地区
県指定有形文化財
- 青方文書
- 伊王島灯台旧吏員退息所
- 刀・対州住長幸
- 刀・肥前国忠吉
- 旧長崎大司教館
- 景華園遺跡出土の一括遺物18点
- 晧臺寺 山門・仁王門・大仏殿
- 興福寺三江会所門
- 興福寺山門
- 興福寺鐘鼓楼
- 興福寺媽姐堂
- 出津のプラケット「無原罪の聖母」
- 春徳寺の涅槃図
- 聖福寺の涅槃図
- 職人尽
- 芒塚句碑(三基)
- 西勝寺文書「キリシタンころび証文」
- 崇福寺の梵鐘
- 崇福寺の聯額
- 崇福寺本堂の仏像群
- 天井絵
- 東海の墓
- 銅造弥勒菩薩半跏思惟像
- 銅版画「聖家族」
- 銅版画「セビリアの聖母」
- 長崎晧台寺の大仏(毘盧舎那仏坐像及び基台)
- 永島キク刀自絵像
- 中島聖堂遺構大学門
- プラケット「ピエタ」
- 菩提寺の木造薬師如来坐像
- 木彫「聖母子」ほかキリシタン遺物57点
- 木版画筆彩「煉獄の霊魂の救い」
- 冷泉為恭筆法然上人行状絵
県指定有形民俗文化財
県指定無形文化財
県指定無形民俗文化財
県指定史跡
- 現川焼陶窯跡田中宗悦の墓石1基・窯観音1基(堂を含む)
- 鉅鹿家魏之琰兄弟の墓
- 花月
- ケンペル、ツュンベリー記念碑
- 興福寺寺域
- 国際海底電線小ヶ倉陸揚庫
- 崇福寺媽姐門
- トードス・オス・サントス跡(セミナリヨコレジヨを含む)
- 戸町番所跡四 ・五・六・七番石標柱
- ド・ロ神父遺跡(救助院跡・いわし網工場跡)
- 長崎金星観測碑・観測台
- 日本二十六聖人殉教地
- 烽火山のかま跡
県指定名勝
県指定天然記念物
- 川原大池樹林
- 琴海のカネコシダ群落
- 琴海のヒイラギ
- 大徳寺の大クス
- デジマノキ
- 長崎市小ヶ倉の褶曲地層
- 野母崎の変はんれい岩露出地
- 弁天山樹叢
- 三重海岸変成鉱物の産地
- 茂木植物化石層
- 脇岬ノアサガオ群落
- 脇岬のビーチロック
市指定有形文化財
- 一の瀬無縁塔
- 魚の町の傘鉾飾
- 円成寺の梵鐘
- 圓福寺の梵鐘
- 大波止の鉄玉(別名 鉄砲玉)
- 黄檗開祖国師三幅対
- 黄檗三禅師次韻
- 桶屋町傘鉾飾及び十二支刺繍
- 青銅塔
- 観音寺の梵鐘
- 喜多元規筆慈岳和尚法像
- 喜多元規筆東瀾和尚法像
- 晧臺寺の梵鐘
- 興福寺の瑠璃燈
- 式見乙宮神社の絵馬
- 俊寛僧都墓碑
- 春徳寺の梵鐘
- 正瑞寺地蔵銅像
- 聖福寺石門
- 聖福寺惜字亭
- 聖福寺の梵鐘
- 末次船絵馬
- 諏訪町傘鉾垂及び下絵
- 清水寺の梵鐘
- 石版「キリシタン暦」
- 崇福寺大釜
- 崇福寺蔵仏舎利塔並びに舎利殿
- 即非禅師書憩香山岩謁
- 即非禅師書雲連分紫山
- 即非禅師書火化の偈
- 即非禅師書規条六則
- 即非禅師書中天紅日麗
- 即非禅師書落成の偈
- 中国製キリスト教木版画
- 中島川石橋群(4橋)
- 野母村絵踏帳
- 東山手洋風住宅群 (7棟)
- 深堀家系図・深堀系図証文記
- 深堀神社の鳥居(旧幸天宮石神門)
- 福建会館(正門・天后堂)
- 古川町天満宮の鳥居
- 古橋(中川橋)
- 発心寺の梵鐘
- 本河内高部貯水池内石橋
- 本河内宝篋印塔
- メダイ「サルバトル・ムンディ(世の救い主)」
- 茂木道無縁塔
- 木庵禅師書三幅対
- 養国寺の梵鐘
- 万屋町傘鉾垂一式
- 羅漢渡海図及び同図賛寄書
- 渡鳥塚(句碑)
市指定有形民俗文化財
市指定無形民俗文化財
市指定史跡
- 荒木宗太郎墓地
- 一の瀬口
- 上野(彦馬)家墓地
- 浦上村渕庄屋志賀家墓地
- 阿蘭陀通詞加福家墓地
- 阿蘭陀通詞中山家墓地
- 枯松神社
- 旧唐人屋敷内土神堂・観音堂・天后堂
- グラバー家墓地
- 晧臺寺の唐通事呉家墓地
- 晧臺寺の向井家墓地
- 神浦氏墓地
- 興福寺の唐僧墓地
(ふくさいじのとうそうぼち)
市指定史跡
指定年月日 昭和53年8月1日
所在地 長崎市筑後町2番56号 福済寺墓地内
石壁にはめ込み型式の墓碑が三基並んでいる。向かって右の墓が、寛永5年(1628) 長崎に渡来して福済寺を開基した唐僧覺悔(かくかい)の墓碑で、弟子の了然(りょうねん)と覺意(かくい)も併せて祀られている。 この人の代には未だ福済寺はお寺らしい体裁は整っていなかった。中央の墓が、 福済寺の重興開山唐僧蘊謙(うんけん、おんけん)禅師の墓である。この人の代に、観音堂・仏殿・庫裡(くり)・大門などすべて完成した。寛文13年(1673)64歳で示寂した。 向かって左の墓が、 二代住持唐僧慈岳(じがく)禅師の墓である。天和元年(1681)の大飢饉にあたっては、 率先して施粥(せじゅく)を行った。 元禄2年(1689)58歳で示寂した。
備考
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(とうじんかいなんしゃかいそうくようとう)
市指定史跡
指定年月日 平成17年1月4日
所在地 長崎市香焼町1034番地 圓福寺境内
延享(えんきょう)元年(1744)長崎に入港した唐船が、同3年(1746)帰国の途中、香焼と深堀の間で暴風のため遭難し、船主馬奉天(ばほうてん)以下54名が犠牲になった。そこで、以前、溺死した中国人1名とともに遭難場所に近い海岸に埋葬されたが、後に風雨により荒廃したため、宝暦(ほうれき)2年(1752)長崎在住の高山輝(こうさんき)ら15名の中国人によって現在地に改葬された。本供養塔は、合葬塔であるだけに、長崎に所在する唐人墓碑の中でも規模が大きく、装飾なども当時の形態をよく残している。また、遭難者名はもとより、建立した中国人商人の氏名・出身地なども刻まれており、日中交易史に関する資料としても価値が高い。
備考
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バス「香焼行政センター前」下車徒歩10分
- 唐人墓地祭場所石壇
- 唐僧玉岡の墓
- 唐通事潁川家初代墓地
- 唐通事林・官梅家墓地
- 東望山砲台跡
- ド・ロ神父 大平作業場跡
- 中の茶屋
- 西川如見の墓
- 深堀鍋島家墓地
- 福済寺の唐僧墓地
- 福済寺の唐通事潁川(陳)家墓地
- 仏師范道生の墓
- 北渓井坑跡
- 松平図書頭墓地
- 本木昌造の墓