遺跡名 | 西ノ股遺跡(にしのまたいせき) | ||
所在地 | 南松浦群新上五島町浦桑郷西ノ股・宮ノ脇 | ||
緯度 | 北緯32°59′12″ | 経度 | 東経129°4′58″ |
標高 | 1m~2m | 地形 | 干潟 |
種別 | 遺物包含地 | 時代 | 縄文時代・弥生時代 |
資料所在地 | 長崎県教育委員会・上五島高等学校 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 「西ノ股遺跡」 新魚目町文化財調査報告書 第 2集 1987 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
海岸埋立工事に伴い1985年県教育委員会によって調査された。縄文土器は前期から後期にかけての資料があり、前期と中期が中心である。石器は多種にわたり、特に漁労に関係する石器が多く、遺跡の立地と併せて興味深い。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺跡名 | 頭ケ島白浜遺跡(かしらがじましらはまいせき) | ||
所在地 | 南松浦郡新上五島町有川郷友住頭ケ島白浜 | ||
緯度 | 北緯33°0′50″ | 経度 | 東経129°10′58″ |
標高 | 5m | 地形 | 砂丘 |
種別 | その他の遺跡・遺物包含地 | 時代 | 縄文時代・近世 |
資料所在地 | 新上五島町教育委員会 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 「頭ケ島白浜遺跡」 有川町文化財調査報告書 第 1集 1996 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は頭ケ島北西部有川湾に面する砂丘に位置する。1995年町営アワビ養殖場建設に伴い、有川町教育委員会が主体となり県教育委員会が緊急調査を行った。基本的な層序は 7層あり、何れも砂層であるが、この内 5層が縄文前期海進後に堆積した風成砂で包含層として確認された。縄文土器は前期から後期初頭を中心とし、1954点が出土した。また、前期轟B系土器に伴い韓国系隆起文土器が出土したことは日韓新石器時代の土器を比較出来る上で重要である。近世人骨は保存状態が極めて良好で、西北九州地区の貴重な近世の標準人骨となりうる資料である。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺跡名 | 浜郷遺跡(はまごういせき) | ||
所在地 | 南松浦郡新上五島町有川郷浜 | ||
緯度 | 北緯32°59′4″ | 経度 | 東経129°7′4″ |
標高 | 2m~ 5m | 地形 | 砂丘 |
種別 | 墳墓 | 時代 | 弥生時代 |
資料所在地 | 長崎大学解剖学第 2教室 | 指定状況 | 町指定 |
参考文献等 | 小田富士雄「五島列島の弥生文化-総説編-」 人類学考古学研究報告第 2号別冊 1970 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
1951年、地下貯水工事の際、人骨と共にベンケイ貝製貝輪と貝製垂飾品が出土したのを始め、1966年には道路工事中に弥生時代の甕棺や箱式石棺が出土した。このような状況を受けて、1967年には長崎大学医学部と別府大学・九州大学の合同調査が実施され、甕棺や箱式石棺などから人骨61体が出土した。結果的に甕棺 6基、壺棺12基、箱式石棺 8基、石蓋土坑 1基、土坑13基が検出されている。特筆すべきは石棺構造が南九州の古墳時代に見られる地下式板石積石室の形態ものがあり、九州西側海岸域に共通な墳墓が築かれていることが判った。副葬品としては南海産のイモガイやゴホウラガイ製の貝輪が多く、南方との供給ルートが確立していた事が判明した。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||
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遺跡名 | 頭ケ島浜泊遺跡(かしらがじまはまどまりいせき) | ||
所在地 | 南松浦郡新上五島町有川郷友住頭ケ島浜泊 | ||
緯度 | 北緯33°0′32″ | 経度 | 東経129°10′40″ |
標高 | 地形 | 砂丘 | |
種別 | 遺物包含地 | 時代 | 縄文時代・弥生時代 |
資料所在地 | 新上五島町教育委員会 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 「浜泊遺跡」『長崎県埋蔵文化財調査集報II』 長崎県文化財調査報告書 第45集 1979 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
遺跡は頭ケ島南部砂地海岸に位置する。1976年上五島空港建設に先立つ架橋工事に際し、遺跡の範囲確認のため、県教育委員会が試掘調査を実施した。堆積層は 4層あり、この内3、4層が縄文時代の包含層である。縄文土器は前期・中期の資料が最も多く、遺跡はこの時代が中心である。石器もこの時期に属する資料が大部分である。石鋸や鋸歯状の石鏃、あるいは尖頭状礫器など、漁労や貝類捕獲道具が多く、海浜部に立地する遺跡の性格を良く示している。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺跡名 | 滝河原遺跡(たきごうらいせき) | ||
所在地 | 南松浦郡新上五島町有川郷若松町間伏滝河原 | ||
緯度 | 北緯32°52′19″ | 経度 | 東経129°58′50″ |
標高 | 5m | 地形 | 砂丘 |
種別 | 墳墓 | 時代 | 弥生時代 |
資料所在地 | 新上五島町教育委員会 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 桑山龍進「一般調査」『五島遺跡調査報告』 長崎県文化財調査報告書 第 2集 1964 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
1963年に行われた五島列島分布調査の際砂丘に箱式石棺群が発見された。その後1967年に道路建設によって石棺群は破壊された。その折、数点の弥生土器片が発見された。この時発見された小壺は弥生時代の初期にあたる特徴を持っていたことから、五島列島における弥生文化初頭の状況を知る上で重要な遺跡と言える。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺跡名 | 桐古里遺跡(きりふるさといせき) | ||
所在地 | 南松浦郡新上五島町若松郷桐古里 | ||
緯度 | 北緯32°52′11″ | 経度 | 東経129°0′29″ |
標高 | 5m前後 | 地形 | 沖積地 |
種別 | 遺物包含地 | 時代 | 弥生時代 |
資料所在地 | 長崎県教育委員会 | 指定状況 | 未指定 |
参考文献等 | 「県内主要遺跡内容確認調査報告書Ⅳ」 長崎県文化財調査報告書 第159集 2001 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
県内主要遺跡の内容確認調査の一環として2000年に県によって調査された。遺跡の基本土層は 2層で表土下が地山となる。土坑は長軸50cm、深さ23cmの不定形の遺構で、中から炭化物、獣骨、土器片、黒曜石片、磨製石斧などが出土している。時期的には弥生中期と判断されるが性格は不明である。小穴は直径15cm程のもので中から弥生土器片が出土している。石器は、石鏃などの狩猟具に加え、石錘や石斧が出土している。海や山に近い自然条件を生かした生産形態を反映したものと考えられている。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺跡名 | 日島の石塔群(ひのしまのせきとうぐん) | ||
所在地 | 南松浦群新上五島町日島郷字曲 12番地及び字釜崎281番地 | ||
緯度 | 北緯32°54′54″ | 経度 | 東経128°57′25″ |
標高 | 6m~8m | 地形 | 礫丘 |
種別 | 墳墓 | 時代 | 中世(14世紀~15世紀) |
資料所在地 | 新上五島町教育委員会 | 指定状況 | 県指定 |
参考文献等 | 「曲古墓群」 若松町文化財調査報告書 第 1集 1996 | ||
遺跡・史跡の概略 | |||
15世紀の朝鮮の書『海東諸国紀』には、日島の太守である藤原盛(ふじわらさかり)という人物が対馬宗家宗貞国の斡旋で1469年に朝鮮国に来朝したとある。朝鮮貿易を行っていたものであろう。石塔群はリアス式の海岸が連なる若松瀬戸の奥部に築かれている。復元した石塔の数は宝篋印塔 2基五輪塔18、板碑15基であるが、本来の数は不明である。 石塔は14世紀頃関西で製作されたものをであるが、その運搬したのはいわゆる倭寇である可能性が高い。また、石塔は花崗岩(かこうがん)と安山岩系凝灰岩(ぎょうかいがん)で何れも島外産である。 |
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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