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宮崎県に人々が住み始めたのは、中期旧石器時代の終わり頃の約5万年前頃からである。

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歴史

  宮崎県に人々が住み始めたのは、中期旧石器時代の終わり頃の約5万年前頃からである。遺跡としては、西臼杵郡日之影町の出羽(いずるは)洞窟と児湯郡川南町の後牟田(うしろむた)遺跡が発掘されており、前者からは片刃・両刃の礫器、後者からは集石遺構・斜軸尖頭器・鋸歯縁(きょしえん)石器(約5万年前と推定)が出土している[2]

神話

  『古事記』に「竺紫(つくし)の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき」とあり、天照大神の孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が降り立った国(天孫降臨神話)。この神の孫である山幸彦海幸彦の争い(山幸彦と海幸彦神話)、さらに、山幸彦の孫であるカムヤマトイワレヒコが、東征して大和橿原宮にて、天皇に即位し初代天皇神武天皇となった(神武東征神話)等の神話(日向神話)がある。

「日向」の由来

 『日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇日本武尊の征西説話において、「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている[1]
 「日向」の読みについては、『日本書紀』に「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とあり[2]、古くは「ひむか」と呼ばれたと考えられている[3]。ただし、この「譬武伽」を日向国とするには検討が必要と指摘される[3]

沿革

 日向国は7世紀中期以降、律令制の成立に伴って成立した[3]。成立当初は現在の宮崎県鹿児島県九州本土部分を含む広域に渡っていた[3]
 大宝2年(702年)頃に鹿児島県部分の西部が唱更国(後の薩摩国)として分立した。和銅6年(713年)4月3日に肝杯郡贈於郡大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が、移管し大隅国として分立した。以後、明治初期まで日向国の領域(臼杵郡児湯郡宮崎郡那珂郡諸県郡の5郡)に変化はなかった。ただし、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧であった等、領域の変化はあった[3]

 また日向国について「五郡八院」という呼称があり、上記の5郡による行政区画と、真幸院三俣院穆佐院新納院飫肥院土持院櫛間院救仁院の8院による租税区画に分けられ統治されていた。
 1883年(明治16年)宮崎県再置の際、諸県郡が新設宮崎県に属する北諸県郡と鹿児島県に残った南諸県郡(志布志郷、大崎郷、松山郷の3郷)に分割され、さらに翌年、北諸県郡が北諸県郡・西諸県郡東諸県郡、那珂郡が北那珂郡南那珂郡、臼杵郡が東臼杵郡西臼杵郡にそれぞれ分割された。

歴史

伝承

神話

 『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国豊国肥国熊曽国が見えるが、日向の記載はない[4][注 2]。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国豊国肥国、日向国の4面を挙げている[5]
 続いて日向地域は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった[6]。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。

 現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される[6]。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている[6]。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている[7]

征西説話

 『古事記』景行天皇段では、天皇の子・小碓命が熊曽討伐を命じられるという征西説話が記述されている。この中で小碓命は熊曽建を討ち、以後「倭建命」を名乗った。
 『日本書紀』では景行天皇自ら熊襲の平定に赴いており、高屋宮を拠点として襲国を平定し、子・豊国別皇子が初代日向国造に任じられている。のちに再び熊襲が反乱を起こした際、天皇の子・日本童男が川上梟帥を討ち「日本武尊」を名乗った。
 なお『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)では、豊国別皇子の三世孫・老男が応神天皇期に日向国造に任じられたと記しており、『天皇本紀』(『先代旧事本紀』第7巻)では、豊国別皇子は日向諸県君らの祖と記している。
現在の考古学では実在天皇の可能性は応神天皇以降に求められており、上記の記述は歴史的事実とはされていない[3]。むしろ応神・仁徳の記述の伏線と捉えるのが妥当とする考えがなされている[6]

律令制以前

 日向地域では、弥生時代には青銅器の欠如と抉り入り方形石包丁の存在という特色が見られていたが[8]4世紀以降は新田原・茶臼原・西都原・本庄・六野原・生目といった畿内型古墳群が展開した[9]。こうした古墳群の存在は、その首長と近畿地方の政治勢力とが政治的関係にあったことを示している[3]
 『古事記』『日本書紀』の応神天皇・仁徳天皇の記述には諸県君を巡る説話があるが、こうした政治関係を背景として成立したと見られ、5世紀代に豪族が出仕したものと推測されている[10]
 6世紀から7世紀中期にかけては、史書では推古天皇期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく、中央と日向との関係の実態は明らかでない[10]

飛鳥・奈良・平安時代

 「日向国」の文献上の初見は、『続日本紀』文武天皇2年(698年)9月28日条である。成立時期は明らかでないが、律令制成立に伴い7世紀中期以降に設けられたと見られている[3]。当初は薩摩国・大隅国を含む領域を有しており、7世紀末の段階では日向国は対隼人の最前線に位置づけられていた[10]大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)、和銅6年 (713年)に大隅国が分立した。
 令制では大上中下のうちの中国とされ、中央から四等官とそれを補佐する史生が派遣された。中国では通常欠員とされる介が正式におかれ四等官がそろっている。なお、史書に残るものは左遷人事が多い。遠国であったため、掾以下の人事や四度使の監査など、大宰府の強い管理下に置かれた。
 弘仁6年(815年)には軍団1団500人の兵士を持っていた。この年以前には軍毅1人が指揮したが、以降は補佐に1人を加えて大毅1人、少毅1人になった。

鎌倉時代

 1185年文治元年)惟宗忠久が主筋である近衛家島津荘(南九州にあった大荘園 万寿年間(1024年1027年)、日向国島津院を大宰府大監平季基が開拓し、関白藤原頼道に寄進したことに始まる)の下司職に補任され、島津忠久と称した。島津氏の始まりである。
 島津氏は1197年建久8年)に薩摩大隅にあわせ日向の初代守護職に任じられた。また、忠久は島津荘の地頭職も兼任した。しかし、忠久が、1203年建仁2年)、比企能員の変連座し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪されると、日向国守護職及び日向島津荘の地頭職は、北条氏赤橋家に伝えられることとなった。

 日向国北部一帯を有した宇佐神宮の宇佐宮荘においては、東部の縣(読み:あがた、現在の延岡市周辺。市内には安賀多の地名が残っている)一帯を土持氏が、西部山間部(現在の高千穂町周辺)を大神氏の流れをくむ三田井氏が地頭として勢力を有していたが、鎌倉御家人伊東氏が地頭職を得、既存在地勢力と対立しつつ、支配を定着させていった。

室町時代

 南北朝時代においては、北朝方より南九州の大将として畠山直顕が日向国に派遣され、南朝方の勢力と対立したが、島津氏など在地勢力は北朝と南朝との間を転々することにより、畠山直顕の支配に抵抗した。直顕は観応の擾乱において足利直義に味方し、足利尊氏方に味方した島津氏と争い敗れた。その後も九州探題が南九州に影響を伸ばそうとするも失敗し、やがて日向国の守護職は島津氏が世襲するようになる。
 ただし、全国の例に違わず、日向国も群雄割拠の状況となり、南北朝から室町時代中期にかけては、北部は土持氏、中央部は伊東氏、南西部は北原氏、南東部は豊州島津氏北郷氏新納氏といった島津一族を中心として、各地の国人領主を吸収しながらの勢力争いが展開された。

 そのうち、土持氏が伊東氏に攻められ勢力を縮小、伊東氏に糾合されたり豊後大友氏に臣従するようになる。戦国時代になると、新納氏が薩州島津氏により領地を追われ、北原氏は姻戚関係にあった伊東義祐により、禅宗真宗で家中が二分している中での家督問題に附け込まれて、大隅国にまで拡がっていた全領地を乗っ取られる。
 更に義祐により豊州島津氏が飫肥から追い出されたため、伊東氏が日向国の主要部分を支配するに至ったが、1572年木崎原の戦いにより伊東氏の主要な臣下が多数失われ、また義祐の奢侈により領内に隙が生じており、そこを突くように薩摩大隅の統一を果たした島津氏が北上してきた。滅亡の危機に立った義祐は豊後の大友義鎮を頼ったが、島津氏が1578年耳川の戦いにおいて大友氏に大勝し、日向国一円を支配することとなった。
 しかし、1587年秀吉九州征伐を受け、島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知された。


  九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」[注釈 1]、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある。

開始時期


開始時期について、小和田哲男は、年表などではこの戦役が天正15年(1587年)に入っているのが一般的であり、実際の秀吉の九州出馬が同年3月1日島津義久の降伏が4月21日なので、そのこと自体は誤りではないと前置きしたうえで、「しかし、秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げといった趣があり、本当の意味での九州攻めは、その前年、すなわち1586年からはじまっていた」と述べている[2]。そして、前年(1586年)段階における秀吉側の立役者は黒田孝高であったとしている(後述)[2]

背景

秀吉に助けを求めた
大友宗麟

 戦国時代後半の九州は、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある[3]。そのなかから、薩摩の島津氏が日向伊東氏肥後相良氏阿蘇氏肥前有馬氏龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後国人衆も傘下に収め、北九州への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にしていた[4]豊後大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避するため、当時畿内近国北陸山陽山陰四国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。

 これを受け、関白となった秀吉は、天正13年(1585年)10月島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。しかし、大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、島津氏側は家中で激しい議論となった末に停戦令受諾の方針を決定するとともに家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、島津は従前織田信長近衛前久調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦したものであると弁明させた[5]。この論理については大友側も同じ根拠で島津側が命じられた豊薩和平を破ったと主張している[6]

 さらに島津氏の当主島津義久は天正14年(1586年)1月、源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明した[5]。3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、島津側は「神意」としてこれを拒否[7]、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った[注釈 3]

 島津氏側としては、すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった[7][注釈 4]。天正14年4月5日、大友宗麟は大坂城に秀吉を直接たずね、島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう懇願している[8]

 秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた毛利輝元吉川元春小早川隆景などの中国の大名、あるいは長宗我部元親十河存保などの四国の大名を用いようとした[2]。秀吉が天正14年4月10日付で毛利輝元にあてた覚書には、城郭の補強、豊前・肥前から人質をとること、西海道にいたる道路の修造、および赤間関山口県下関市)への兵糧蔵の建造を命じている[9]

経緯

天正14年の戦い(豊薩合戦)


 天正13年(1585年)2月、毛利輝元の庇護を受けて備後国の鞆(鞆幕府)に滞在していた征夷大将軍足利義昭は島津義久を九州の「太守」に任じて帰洛時の援助と大友攻めを命じており、義久はこれに応じている(当時は毛利と敵対していた大友を島津に牽制させるため)

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