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豊臣秀吉の九州平定

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豊臣秀吉の九州平定

  豊臣秀吉の九州平定戦は、戦役としては「九州の役」「九州の陣」「九州攻め」「島津攻め」「(秀吉の)九州征討」「(秀吉の)九州征伐」「(秀吉の)九州出兵」などの名称で称されることも多い。島津氏の立場からは「(秀吉による)九州侵攻」などの表現もなされ、結果や状態をあらわす語としては「(秀吉の)九州制圧」「(秀吉の)九州征服」などの語も用いられ、一定していない。
  しかし、「平定」には「秩序を回復する」の意もあり[13]、したがってそれは、戦後の知行割りである「九州国分」の実施、惣無事令刀狩令などの法令の発布、「太閤検地」など諸大名の領地を横断する広域政策の実施、および、それを差配するための石田三成細川藤孝九州取次任命など、一連の秩序回復行為全体を含意して用いられる。

 天正13年10月の九州停戦命令は、従来とは異なり、天皇の意向であることを前面に押し出したものであり、「国郡の境相論は秀吉が双方の言い分を聞いて裁定するから即座に停戦せよ、停戦しない場合は天皇に代わって成敗する」というものであった。
 これほど秀吉が「武家関白」であることを端的に示す言葉はなく、また、信長の時点では用いることのできなかった論理を展開しえたところに「武家関白」の意義があった[10]土地人民の支配は天皇より委任されているという「公儀」の論理をみずからの平定事業に用いたのである。

 天正15年3月、秀吉は九州全土をほぼ平定する勢いであった島津軍に対し、「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」(黒田孝高あて朱印状)として、みずから九州に出陣した[14]。秀吉の大軍に対し、島津氏は日向高城宮崎県木城町)を前線として抗戦したが、日向根白坂の戦いの敗北により、5月6日には島津義久が「龍伯」と号して剃髪し、5月8日、秀吉の滞留していた薩摩川内の泰平寺において正式に降伏の意を表明した。
 義久の弟島津歳久、同じく日向飯野城の城主島津義弘、家臣の新納忠元らは義久降伏後も抵抗をつづけたが、豊臣方の石田三成と島津側の伊集院忠棟のあいだで調停がすすみ、義久の働きかけもあって講和が成立した。

 5月25日、秀吉は臣従した義久を「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」[12]として、義久には薩摩、義弘には大隅を安堵し、義弘の子島津久保には日向諸県郡のうち真幸院をあたえた。
 5月30日には佐々成政に肥後一国をあたえた。
 秀吉は同年6月7日、筑前箱崎(現在の福岡市東区)に陣を構え、博多(福岡市博多区)を直轄都市としたうえで、小早川隆景に筑前・筑後および肥前のうち1郡半の約37万石、黒田孝高(如水)には豊前のうち6郡の約12万5,000石、立花統虎(宗茂)には筑後柳川城(福岡県柳川市)13万2,000石、毛利勝信には豊前小倉約6万石をそれぞれあたえた。
 宗麟の子大友義統には豊後一国、肥前の龍造寺政家、大村喜前松浦鎮信対馬宗義智には、それぞれ所領を安堵した。これが、「九州国分」とよばれる、九州平定事業にともなう知行割りの概略である。

 九州への停戦命令には「惣無事」の語はなかったが、翌年末に関東奥羽の諸大名に向けて発せられた同趣旨の停戦命令にはその語が用いられるので、しばしば総称して「惣無事令」と呼称される。藤木久志によれば、秀吉の天下統一は、「惣無事令」と領土裁定権にもとづく「国分令」を基本として進められ、それに違反した場合に限って武力討伐が行われたのであり、従来語られてきたように、必ずしも専制権力による「征伐」一辺倒によって進められたものではないとしている[15]

 また、刀狩令、海賊停止令喧嘩停止令まで含めて「豊臣平和令」として把握した場合、一連の平和令は、もっぱら武力によって問題解決をはかることで生活のあらゆる場面が私闘に満ちていた中世の「自力救済社会」の惨禍から、むしろ人びとを救ったものであるとして、積極的な意味づけがあたえられている[15]

 なお、瀬戸内海の制海権が完全に豊臣政権に服したため、経済的には水上交通における流通掌握が各大名にとって以前に比較して格段に重要度を増した。毛利輝元もまた、九州平定後、本拠地を山間地に立地する安芸国吉田郡山城より太田川河口の広島に遷している[16]広島城は、天正19年(1591年)に完成している。

秀吉死後の九州の平定


 秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、肥後熊本城加藤清正、豊前中津城黒田長政らが東軍、島津氏や小西行長らは西軍として戦った。
 九州内では、加藤清正や長政の父黒田孝高らが西軍諸将の領地に対する侵攻戦もおこっている。戦後、東軍諸将はいずれも徳川家康によって軍功を認められ、封土が下賜された。西軍諸将の多くは領地を没収、削減されたが、島津氏については減封はなかった。


豊臣秀吉の九州平定

  豊臣秀吉の九州平定戦は、戦役としては「九州の役」「九州の陣」「九州攻め」「島津攻め」「(秀吉の)九州征討」「(秀吉の)九州征伐」「(秀吉の)九州出兵」などの名称で称されることも多い。島津氏の立場からは「(秀吉による)九州侵攻」などの表現もなされ、結果や状態をあらわす語としては「(秀吉の)九州制圧」「(秀吉の)九州征服」などの語も用いられ、一定していない。
  しかし、「平定」には「秩序を回復する」の意もあり[13]、したがってそれは、戦後の知行割りである「九州国分」の実施、惣無事令刀狩令などの法令の発布、「太閤検地」など諸大名の領地を横断する広域政策の実施、および、それを差配するための石田三成細川藤孝九州取次任命など、一連の秩序回復行為全体を含意して用いられる。

 天正13年10月の九州停戦命令は、従来とは異なり、天皇の意向であることを前面に押し出したものであり、「国郡の境相論は秀吉が双方の言い分を聞いて裁定するから即座に停戦せよ、停戦しない場合は天皇に代わって成敗する」というものであった。
 これほど秀吉が「武家関白」であることを端的に示す言葉はなく、また、信長の時点では用いることのできなかった論理を展開しえたところに「武家関白」の意義があった[10]土地人民の支配は天皇より委任されているという「公儀」の論理をみずからの平定事業に用いたのである。

 天正15年3月、秀吉は九州全土をほぼ平定する勢いであった島津軍に対し、「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」(黒田孝高あて朱印状)として、みずから九州に出陣した[14]。秀吉の大軍に対し、島津氏は日向高城宮崎県木城町)を前線として抗戦したが、日向根白坂の戦いの敗北により、5月6日には島津義久が「龍伯」と号して剃髪し、5月8日、秀吉の滞留していた薩摩川内の泰平寺において正式に降伏の意を表明した。
 義久の弟島津歳久、同じく日向飯野城の城主島津義弘、家臣の新納忠元らは義久降伏後も抵抗をつづけたが、豊臣方の石田三成と島津側の伊集院忠棟のあいだで調停がすすみ、義久の働きかけもあって講和が成立した。

 5月25日、秀吉は臣従した義久を「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」[12]として、義久には薩摩、義弘には大隅を安堵し、義弘の子島津久保には日向諸県郡のうち真幸院をあたえた。
 5月30日には佐々成政に肥後一国をあたえた。
 秀吉は同年6月7日、筑前箱崎(現在の福岡市東区)に陣を構え、博多(福岡市博多区)を直轄都市としたうえで、小早川隆景に筑前・筑後および肥前のうち1郡半の約37万石、黒田孝高(如水)には豊前のうち6郡の約12万5,000石、立花統虎(宗茂)には筑後柳川城(福岡県柳川市)13万2,000石、毛利勝信には豊前小倉約6万石をそれぞれあたえた。
 宗麟の子大友義統には豊後一国、肥前の龍造寺政家、大村喜前松浦鎮信対馬宗義智には、それぞれ所領を安堵した。これが、「九州国分」とよばれる、九州平定事業にともなう知行割りの概略である。

 九州への停戦命令には「惣無事」の語はなかったが、翌年末に関東奥羽の諸大名に向けて発せられた同趣旨の停戦命令にはその語が用いられるので、しばしば総称して「惣無事令」と呼称される。藤木久志によれば、秀吉の天下統一は、「惣無事令」と領土裁定権にもとづく「国分令」を基本として進められ、それに違反した場合に限って武力討伐が行われたのであり、従来語られてきたように、必ずしも専制権力による「征伐」一辺倒によって進められたものではないとしている[15]

 また、刀狩令、海賊停止令喧嘩停止令まで含めて「豊臣平和令」として把握した場合、一連の平和令は、もっぱら武力によって問題解決をはかることで生活のあらゆる場面が私闘に満ちていた中世の「自力救済社会」の惨禍から、むしろ人びとを救ったものであるとして、積極的な意味づけがあたえられている[15]

 なお、瀬戸内海の制海権が完全に豊臣政権に服したため、経済的には水上交通における流通掌握が各大名にとって以前に比較して格段に重要度を増した。毛利輝元もまた、九州平定後、本拠地を山間地に立地する安芸国吉田郡山城より太田川河口の広島に遷している[16]広島城は、天正19年(1591年)に完成している。

秀吉死後の九州の平定


 秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、肥後熊本城加藤清正、豊前中津城黒田長政らが東軍、島津氏や小西行長らは西軍として戦った。
 九州内では、加藤清正や長政の父黒田孝高らが西軍諸将の領地に対する侵攻戦もおこっている。戦後、東軍諸将はいずれも徳川家康によって軍功を認められ、封土が下賜された。西軍諸将の多くは領地を没収、削減されたが、島津氏については減封はなかった。

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