小倉南区には第二次大戦中、毒ガス弾を製造していた工場の跡が残っている。
正式には“東京第二陸軍造兵廠曽根製造所”といい、1937(昭和12)年に完成し、
表向きには火薬製造を主務としていたが、
実際には広島県大久野島で作られた毒ガスをこの工場に運び、砲弾に充填していた。
今でもその作業をしていた建物が、廃墟となったまま敷地内に残っている。
ガラスやサッシがなくなり、ポッカリとクチを開けた窓は、なんとも不気味な感じだ。
完成した砲弾は一旦山田弾薬庫に運ばれ、満州へ送られたそうだ。
2000年から2003年にかけて、
隣の苅田町にある苅田港海底で合計550発以上の毒ガス弾が見つかったが、
これもまたここで製造され、終戦後、米軍から発見されるのを恐れて、海中に投棄したものと思われる。
現在でも時折、中国で毒ガス弾が発見されるニュースを耳にするが、
これらは勿論旧日本軍が遺棄したものである。
その中には、この工場から搬出されたものも少なくないのだろう。
戦後60年も経った今でも、このような恐ろしい不発弾が、地中深く、
或いは海底深く眠っているとは、なんとも恐ろしい話である。
正式には“東京第二陸軍造兵廠曽根製造所”といい、1937(昭和12)年に完成し、
表向きには火薬製造を主務としていたが、
実際には広島県大久野島で作られた毒ガスをこの工場に運び、砲弾に充填していた。
今でもその作業をしていた建物が、廃墟となったまま敷地内に残っている。
ガラスやサッシがなくなり、ポッカリとクチを開けた窓は、なんとも不気味な感じだ。
完成した砲弾は一旦山田弾薬庫に運ばれ、満州へ送られたそうだ。
2000年から2003年にかけて、
隣の苅田町にある苅田港海底で合計550発以上の毒ガス弾が見つかったが、
これもまたここで製造され、終戦後、米軍から発見されるのを恐れて、海中に投棄したものと思われる。
現在でも時折、中国で毒ガス弾が発見されるニュースを耳にするが、
これらは勿論旧日本軍が遺棄したものである。
その中には、この工場から搬出されたものも少なくないのだろう。
戦後60年も経った今でも、このような恐ろしい不発弾が、地中深く、
或いは海底深く眠っているとは、なんとも恐ろしい話である。
なお、この毒ガス工場は陸上自衛隊の管轄にあり立入は出来ないので、塀の外からの撮影。