今日は久しぶりにスッキリ晴れた!絶好の廃墟探訪日和。
仕事で関門海峡を渡ったので、下関の“火の山”に寄り道。
ここには先に紹介した、高蔵山保塁・手向山砲台・古城山砲台・笹尾砲台等と同様の弾薬庫等、
明治時代に構築された陸軍の砲台跡が残っているらしい。
仕事で関門海峡を渡ったので、下関の“火の山”に寄り道。
ここには先に紹介した、高蔵山保塁・手向山砲台・古城山砲台・笹尾砲台等と同様の弾薬庫等、
明治時代に構築された陸軍の砲台跡が残っているらしい。
そこで、機会があれば是非訪れてみたいと、事前にネットや書物で調べてみたが、
HPでここの訪問記はあるものの、残念ながら成り立ちや具体的な当時の配置などは判らなかった。
当時は軍事機密として公表されず、それ故資料が少なく、
今となっては不明な点が多いと言うことだろうか。
HPでここの訪問記はあるものの、残念ながら成り立ちや具体的な当時の配置などは判らなかった。
当時は軍事機密として公表されず、それ故資料が少なく、
今となっては不明な点が多いと言うことだろうか。
ただ、デザイン的に見ても史実的に見ても、
他の砲台・保塁の類と同年代(明治30年前後)に造られたものに違い無い。
つまり、日清戦争の経験から巨大戦艦を有する清国北洋艦隊に脅威を感じ、
その後勃発することになる日露戦争のような、国益を左右する戦争に備えて関門海峡防護が急務となり、
或いは関門海峡に程近い軍都小倉や造船の拠点となっていた下関を護るため、
この沿岸に数々の砲台・保塁を築いたようだ。
当時の軍部では、この関門海峡両岸を“下関要塞地帯”と呼んで総轄している。
ただし、これらの“下関要塞地帯”は実践では使われること無く役目を終えることになった。
他の砲台・保塁の類と同年代(明治30年前後)に造られたものに違い無い。
つまり、日清戦争の経験から巨大戦艦を有する清国北洋艦隊に脅威を感じ、
その後勃発することになる日露戦争のような、国益を左右する戦争に備えて関門海峡防護が急務となり、
或いは関門海峡に程近い軍都小倉や造船の拠点となっていた下関を護るため、
この沿岸に数々の砲台・保塁を築いたようだ。
当時の軍部では、この関門海峡両岸を“下関要塞地帯”と呼んで総轄している。
ただし、これらの“下関要塞地帯”は実践では使われること無く役目を終えることになった。
前置きが長くなったが、ここ“火の山砲台跡”はかなり数多くの施設が残っているので、
ここでは、現在でも公園として使用されている部分を紹介することにした。
ここでは、現在でも公園として使用されている部分を紹介することにした。
展望台から火の山頂上付近一帯は公園として美しく整備されているのだが、
ここにもシッカリと砲台があったことを示す倉庫が残っていた。
最も展望台寄りにあるものは、半分以上埋まってはいるが、原形は留めている。
後に紹介する工作物と同じく、当初は半地下状になっていたと思われるので、
周囲の土砂が崩れてしまったのであろう。
下の写真は、換気筒と思われる。
先端部は崩壊しているが、内部は空洞となっており、下の部屋へと続いている。
この脇に置かれていた戦艦“大和”の砲弾。
銘板には、全長:1.95m・重量:1,740kg・最大射程距離42,000mとあった。
先の倉庫も、元々はこのような状態であったのだろう。
ここには2棟あり、こちらは現役。中には椅子とテーブルが置かれ、格好の休憩所になっている。
ここまでは、雑草生い茂る北九州の砲台跡とは全く異なり、とても幸せな余生を過ごしている。
この“火の山”自体が関門海峡の展望スポットなので、それも整備された一因だとは思うのだが。
しかし、この奥に更に要塞らしい姿があるとは思ってもみなかった・・・
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