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村上水軍。 厳島の戦い。 木津川口の戦い。

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 村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世瀬戸内海[1]で活動した水軍海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれた。
 
 彼らの多くは真言宗徒であり、信濃町などに子孫が多いとされる。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は航行船の広宣流布・祈伏を通じた平和構築である。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている。
 代表的な表紋は「 丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。
 

起源

 これら三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。平安時代に活躍した村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の永暦元年(1160)に越智大島[3]に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。
 
 越智大島を始め伊予各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。
また能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。
 
 この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。

村上水軍の活動

 文献史料上、最も古い記録は1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたという。南北朝時代には、因島弓削島などを中心に瀬戸内海の制海権を握っており、海上に関を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていた。
 
 戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。来島村上氏は河野氏に臣従し、村上通康は越智姓を名乗ることを許された。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。
 その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555年(弘治元年)の厳島の戦い1561年(永禄4年)の豊前簑島合戦1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られている。

村上水軍の解体

 来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となった。
 1588年(天正16年)年に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。
 因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩船手組となって周防国三田尻を根拠地とした。
 能島村上氏は毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。
 来島村上氏は江戸期に豊後国玖珠郡に転封され、完全に海から遠ざけられた(森藩)。

村上水軍の一族

 

日本の水軍

 島国日本では隣国の朝鮮と同様に、古代から沿海部に居住する海民が水上兵力として活躍した。古代ヤマト政権の時代には、日本の水軍を支えたのは安曇部(あずみべ)や海人部(あまべ)、津守氏といった海の氏族たちであった。
 古代の日本においては国家の背骨は大阪湾瀬戸内海にあり、紀ノ川流域の紀氏のように瀬戸内海に対する天然の良港を持ち、後背に木材産地を確保した大豪族も独自の水軍をもって活躍した。

中世の水軍

 平安時代に入ると、水上輸送する官物を強奪する「海賊」の存在が歴史に現れる。貞観年間には瀬戸内海の海賊鎮圧の命令が出されている。彼らは当初は海賊行為を主体とした小規模な集団に過ぎなかったが、平安後期に入ると、各地で在地の有力者が力を持ちはじめた。
 陸上の荘園では開発領主が武芸をもって世業とするようになり、武士階層の成立が進んでいく。一方、海上でも同じように海上の武力をもって世業とする海の武士たちが登場するようになった。
 
 瀬戸内方面に於いては、摂津国渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠地とし、瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁だった渡辺党、その一族で13世紀元寇に奮戦したことで知られる九州松浦党10世紀藤原純友追討に伊予の水軍を率いて活躍した橘遠保や、保元の乱後から戦国時代まで東は塩飽諸島から西は防州上関まで瀬戸内を勢力圏とした村上氏村上水軍)はその代表的なものであった。
 
 紀州方面に於いては別当氏に代表される熊野水軍が代表格であり、治承・寿永の乱に於いては湛増などが壇ノ浦などで活躍している。これらは後に、九鬼水軍へと引き継がれていく。
 
 また、安芸小早川氏伊予越智氏河野氏三浦半島三浦氏津軽安東氏などは、陸の武士であると同時に支配下の沿海土豪からなる水軍を擁した海賊衆でもあった。
 
 中世の海辺の小土豪が結合して軍事力をもつようになった海上勢力を海賊衆といい、九州や瀬戸内海、紀伊半島伊勢湾江戸湾など日本各地で見られた。海賊衆は陸の悪党と同様に徒党を組んでの略奪行為を行った他、海上関を設けて帆別銭などの通行料の徴収や金銭を代償に取った船舶航行の警護を行い、幕府などの公権力の統制を無視して海上で独立した軍事力として活動した。
 
 彼ら海賊衆は14世紀には活動を活発化させ、南北朝の動乱には南北それぞれの側に分かれて戦った。その後、室町時代になると陸の権力が海にも次第に及ぶようになり、守護大名は周辺の海賊衆を、領内の田畑を警固料の名目で所領として給する代償に警固衆に編成、海上軍事力に利用した。
 
 続く戦国時代においては、軍事力・兵站輸送力の観点より戦国大名の側から積極的に水軍の編成に対する働きかけを行い、警固衆を陸上の土豪や国人と同じように家臣団に組み入れていった。また、農村に対する動員とともに漁村に対する水軍への動員も行われた。後北条氏では、相模田浦や武蔵本牧の漁民に対して、葛船と呼ばれる大型漁船での操業を許可すると言う漁業上の特権を与える代わりに有事に際して水軍としての動員が行われた。
 彼らは平時には漁業に従事していたが、その際にも彼らは後北条氏の必要に応じて水産物を上納する義務を負うなど、平時の漁業と有事の水軍は表裏一体の関係にあった。当時、大量の海産物を新鮮な状態で調達することは困難であり、後北条氏は家臣団や他国からの使者・客人に対して上納された水産物を用いて饗応したり、その加工品を外交上の贈呈品とすることによって自らの政治力を誇示することに努めたのである。
 
 このようにして、中世末期から近世の初頭にかけて日本の海上勢力は自立した海賊衆から大名の統制に服して公権力の海上における軍事力である水軍に転化させられてゆく。
 
 
 
厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は、天文24年10月1日1555年10月16日)に、安芸国厳島毛利元就陶晴賢との間で行なわれた合戦である。
 

厳島の戦い交戦勢力指揮官戦力損害
厳島神社 大鳥居
戦争戦国時代 (日本)
年月日1555年10月16日天文24年10月1日
場所安芸国厳島
結果毛利家の勝利、陶家大内家の弱体化
毛利軍Alex K Hiroshima Mori kamon.svg陶軍Japanese Crest Oouchi Hisi.svg
毛利元就Alex K Hiroshima Mori kamon.svg
毛利隆元Alex K Hiroshima Mori kamon.svg
吉川元春Marunouchinimitsuhikiryo.svg
小早川隆景Hidari mitsudomoe.svg
陶晴賢Japanese Crest Oouchi Hisi.svg
弘中隆包
4,000 - 5,00020,000 - 30,000
4,000(諸説有)
 

背景

 これより前の天文20年(1551年)、陶晴賢は大寧寺の変大内義隆を討ち大内氏の実権を握った。対して毛利元就は陶と対立する。
 1554年、毛利元就は厳島を占領すると宮尾城を接収・補修し、襲来してきた陶軍を撃退する。
 同年9月、宮川房長ら陶方の軍が安芸に侵入するも折敷畑の戦いで敗れていたが、当時晴賢は石見津和野城主・吉見正頼を降していたため戦闘が大規模化することはなかった。翌年の4月から6月にかけて両軍の間で小競り合いが発生したが、この時もやはり本格的な戦闘には発展していなかった。

合戦の経緯

宮尾城には陶方から毛利方に寝返った己斐直之坪井元政が約500人の兵力で守りについていた。陶晴賢はこれを攻めるために厳島に向けて出撃した。[1]
晴賢自身が厳島に上陸したのは9月21日10月6日)のことである。岩国付近を出発した時の船団の規模は500艘、兵の数は2万とも3万とも伝えられている。陶軍は厳島の大元浦に上陸し、厳島神社近くの塔の岡(現在の豊国神社付近)に本陣を置き宮尾城を包囲し攻撃を開始した。この時、晴賢は城を包囲したもののすぐには攻撃せず数日間を置いている。これは陰徳太平記によると、でいう悪日を避けたためとされているが、桂元澄が寝返るのを待っていたからだとも言われる。この攻撃の遅延が陶軍の敗因の一つという指摘もある。
宮尾城跡(要害山)
 
 一方の毛利軍も、主力が厳島の対岸に位置する草津城(現在の広島県広島市西区)に集結していたが、兵数は4千から5千程度であったとされている。この兵力差を埋めるために、元就は狭い厳島に実際に陶軍を誘い込み、身動きの取りにくい状況を作り出すことに成功したが、海上での戦いでより確実に勝利を収めるため、厳島により接近したうえで、晴賢が厳島から脱出するのを阻止するため伊予村上武吉村上通康伊予水軍にも援軍を求めた。
 この水軍はなかなか現れず元就も援軍を諦めたほどだったが、厳島に渡る直前になって約300艘が到着し毛利軍に加わった。
 

その後

 この戦いの結果、大内氏は急速に弱体化し、代わって毛利氏がその旧領を併合(防長経略)していく。そして弘治3年(1557年)には晴賢によって擁立されていた大内義長大友宗麟の異母弟で義隆の甥、一時義隆の養子となっていた)が自害し、大名としての大内氏は滅亡に至った。
 その後、北九州での対毛利戦争を有利に運ぶことを目的とした、大友宗麟による大内輝弘擁立が数度画策(大内輝弘の乱)されたが、いずれも失敗に終った。
 
 
 
 第一次木津川口の戦い(だいいちじきづがわぐちのたたかい)は、1576年天正4年)に毛利氏織田氏との間に起こった戦い。
 織田信長軍の攻囲を受ける石山本願寺への兵糧搬入を目的とした毛利水軍小早川水軍村上水軍を中心とする瀬戸内水軍戦力と、それを阻止せんとする織田方の水軍戦力が大阪湾木津川河口で激突した。
 実際の戦闘では毛利方の水軍の使用する焙烙玉雑賀衆の使用する焙烙火矢の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、石山本願寺への兵糧搬入という当初の目的を毛利方が果たす結果となった。
 
 
第二次木津川口の戦い交戦勢力指揮官戦力
Atakebune2.jpg
織田信長軍が使用した安宅船
戦争戦国時代 (日本)
年月日1578年12月4日
場所木津川口
結果:織田水軍の勝利
毛利水軍Alex K Hiroshima Mori kamon.svg
村上水軍
織田水軍Oda emblem.svg
村上武吉九鬼嘉隆Kuyo.svg
600隻鉄甲船6隻
 
 
第二次木津川口の戦い(だいにじきづがわぐちのたたかい)は、天正6年11月6日1578年12月4日)に毛利氏織田氏との間に起こった海戦である。
 

戦闘までの経緯

 織田信長は、石山本願寺と勃発した戦闘(石山合戦)において本願寺を包囲し、兵糧攻めを行った。
 しかし1576年第一次木津川口の戦いで、本願寺付近の海上を封鎖していた織田水軍は、毛利水軍村上水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗し、毛利軍の本願寺への補給を許してしまう。
 
 織田信長は、九鬼嘉隆に命じて、大筒大鉄砲を装備し、焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を伊勢国大湊で建造させた。『多聞院日記』によるとその大きさは縦22メートル・横12メートルあったとされ、当時としては空前の巨大さと防御力を持っていた。
 
 ただ、この船が鉄甲船であったことを確認できる史料が多聞院日記以外に発見されておらず、多聞院日記の記述が伝聞と考えられることから、この船が鉄甲船であることを疑う意見も根強くある。
 
 天正6年(1578年)6月26日、九鬼嘉隆は、完成した6隻の鉄甲船を率い、滝川一益の大船1隻とともに熊野浦を出発し、大坂湾へ向かった。途中、淡輪もしくは雑賀の海上で雑賀衆など多数の小船が攻撃をかけてきたが、九鬼は敵を引きつけて大砲で一斉砲撃するという戦術を使い、これを撃退した。
 
 7月17日には堺に到着。翌日に大坂湾に到着すると、要所に船を配備し、再び大坂湾を封鎖した。
 
 なお、9月30日に信長は堺に行き、これらの船を見物している。この時に九鬼嘉隆と滝川一益、そして彼らの家臣に褒美が出された。

戦闘

 11月6日、毛利水軍が木津川付近に姿を現した。九鬼らが迎え撃つと、毛利水軍は彼らを囲み、南下。
 午前8時頃から戦闘が始まる。九鬼の6隻の鉄甲船は、敵を引きつけて、大将が乗っていると思われる船を大砲・大鉄砲で集中攻撃するという戦術をとった。これを恐れた毛利水軍はそれ以上近づくことはできず、数百隻の船が

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