$ 0 0 歴史由来「えひめ」の地名は、古くは古事記上巻のイザナギとイザナミによる国生みの段に、「伊予国は愛比売と謂ひ」と見える。のちに「愛比売」が「愛媛」へと転化した。先史県内では2万2000年以上も前から人々が生活していた。それは、1995年(平成7年)伊予市の旧双海町の東峰遺跡・高見Ⅰ遺跡[3]でAT火山灰(姶良・胆沢火山灰)の下から石器が出土したことで分かった。古代現在の愛媛県は令制国での伊予国に当たる。松山市の久米地域は、久米国造の支配地域であり、その中心地でもあった。久米地域の堀越川と小野川にはさまれた来住(きし)台地上とその周辺に7 - 8世紀代の諸官衙遺構が集中して分布しており、発掘調査が進められている。7世紀後半の「久米評衙」遺構が、南南東部に「回廊状遺構」、その南東外部に来住廃寺塔基壇、西には「久米郡衙正倉院」がある[4]。中世 河野氏の居城であった湯築城藤原純友河野通有(元寇と対峙した水軍大将)脇屋義助(南朝)村上通康(村上水軍)河野通宣(河野氏)河野通直金子元宅宇都宮豊綱(伊予宇都宮氏)西園寺公広(伊予西園寺氏)戸田勝隆(織豊大名)加藤嘉明(織豊大名)藤堂高虎(織豊大名)