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[転載]下関事件(しものせきじけん)1863年(文久3年)5月に長州藩が馬関海峡(現関門海峡)を航行する米仏蘭商船を砲撃した事件。→「下関戦争」

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下関事件(しものせきじけん)
 下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末長州藩と、イギリスフランスオランダアメリカの列強四国との間に起きた、文久3年(1863年)と同4年(1864年)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。
 歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)と呼び、1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い。今日では1863年のことを下関事件、1864年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している。また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われているが、その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。ただ、1863年のことを下関事件、1864年のことを下関戦争と呼んで区別している教科書もある。
 
 
下関戦争・馬関戦争・下関攘夷戦争・馬関攘夷戦争
Shimonoseki.JPG
フランス海軍陸戦隊によって占拠された長府の前田砲台。フェリーチェ・ベアト撮影。
戦争
年月日:1863年、1864年
場所Mon-Tokugawa.png江戸幕府長門国馬関海峡(現・関門海峡)
結果:連合国側の勝利。
 

概要

 孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束した。幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。
 戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、米英仏蘭に対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。
  • 前段: 文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた。約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。
 
  • 後段: 元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。仏蘭米の三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
 馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化してゆくことに積極的になる。
 さらに坂本龍馬中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。
 
『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵

背景

 
ペリー一行の上陸
 
 嘉永6年(1853年ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し幕府に開国を迫り、翌安政元年(1854年)幕府は日米和親条約を締結した(ペリー来航)。安政3年(1856年)アメリカの強い要求により、幕府は朝廷の勅許を得ることなく日米通商修好条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結び(安政五カ国条約)、幕府の鎖国体制は完全に崩れた。
 
 開港により、特に生糸が大量に輸出され、品不足・価格高騰が生じ、さらに金銀交換比率の内外差のため大量の金が流出し、経済は混乱した(五品江戸廻送令幕末の通貨問題)。
 これに伴って政情も不安となり、幕府の開港政策を批判する攘夷の機運は安政5年(1858年)以後、全国的に高まっていった。孝明天皇は和親条約はともかく通商条約には反対であり、安政条約に対する勅許を与えなかった。また、幕府に不満を持つ攘夷派は尊皇思想から朝廷の攘夷派公卿たちと結び付くようになっていた。
 
 これらの動きに対して、幕府大老井伊直弼は弾圧政策(安政の大獄)で応じたが、万延元年(1860年水戸・薩摩脱藩浪士によって暗殺された(桜田門外の変)。この事件により幕府の威信は大きく揺らぎ始めた。
 
 
 
 だが幕府は他方で、生麦事件と第二次東禅寺事件の損害賠償にも追われていたため、攘夷決行は諸外国と勝ち目のない戦争をすることになり、その損害は計り知れないという趣旨の通達も諸藩に伝えていた。同時に英仏米蘭の公使らに、攘夷を行う意思のないことを伝えている。幕府は賠償金44万ドルを攘夷期日の前日の5月9日にイギリスに支払っている。

長州藩の攘夷決行

 
 攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。
 
 攘夷期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)を発見。総奉行の毛利元周長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。
 翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は周防灘へ逃走した。外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。
 
フランスの通報艦キャンシャン号の被害
 
 5月23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見。長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。
 
 
 5月26日、オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があるので攻撃はされまいと油断していたところ、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。
 メデューサ号は1時間ほど交戦したが死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。

米仏軍艦による報復

 
長州奇兵隊の隊士
高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)と三谷国松(左)
 
 この時期のアメリカは南北戦争の最中で、軍艦ワイオミング号は南軍の襲撃艦アラバマ号の追跡のためにアジアに派遣されていたところ、アメリカ公使ロバート・プルインの要請を受けたため横浜に入港していた。
 アメリカ商船ペンブローク号が攻撃を受けたことを知らされたデビッド・マクドゥーガル艦長はただちに報復攻撃を決意して横浜を出港した。
米艦ワイオミング号の下関攻撃
 
 
 6月1日、ワイオミング号は下関海峡に入った。不意を打たれた先の船と異なり、ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見し、壬戌丸に狙いを定めて砲撃を加えた。
 壬戊丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈する。庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。この戦闘での米側の死者は6人、負傷者4人、長州藩は死者8人・負傷者7人であった。
 
もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態になり、ワイオミング号の砲撃で砲台も甚大な被害を受けた。
 
 
フランス艦隊による報復攻撃
 
 6月5日、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号とタンクレード号が報復攻撃のため海峡に入った。セミラミス号は砲35門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。
 
 米仏艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。このため、長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決める。これにより高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。また、膺懲隊八幡隊遊撃隊などの諸隊も結成された。長州藩は砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。
 
 

四国連合艦隊の攻撃

下関攻撃作戦地図.
四国連合艦隊による下関砲撃
イギリス陸戦隊の上陸戦闘
 
 7月27日、28日にキューパー中将(英)を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港した。艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員約5000の兵力であった。また横浜にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港から移駐してきた陸軍分遣隊1350人が待機していた。
 
 8月4日、四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁はようやく海峡通航を保障する止戦方針を決め、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせるが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。
 
 下関を守る長州藩の兵力は奇兵隊(高杉は前年に解任されており総管は赤根武人)など2000人、砲約120門であり、禁門の変のため主力部隊を京都へ派遣していたこともあって弱体であった。大砲の数が足りず、木製の砲をつくってダミーとすることもしていた。
 
 5日午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始した。長州藩兵も応戦するが火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられた。艦隊は前田浜で砲撃支援の下で陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊した。
 
 6日、壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監山縣狂介は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時混乱に陥れる。だが、艦隊はすぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊するとともに、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦した。
 
 7日、艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ砲60門を鹵獲した。8日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。長州藩死者18人・負傷者29人、連合軍は死者12人・負傷者50人だった。
 
 なお、英軍にはカメラマンのフェリーチェ・ベアトが従軍し、戦闘の様子を撮影している。ベアトにとっては、クリミア戦争インド大反乱アロー戦争に続く4度目の従軍撮影であった。
 
 
 

転載元: 水.土壌.心の汚染や、アジア太平洋の利権を現場で考え真実を伝える


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