<泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった4杯で 夜も寝られず>―――。ペリー来航で右往左往する<幕府の役人>を<揶揄>した有名な<落首>。<上喜撰>とは最高級のお茶。「飲むと興奮して眠れなくなる」というが、もちろん<蒸気船>=<黒船>の意味だ。NHK[その時歴史が動いた」続編です。
嘉永6年(1853年)6月3日、ペリー提督率いるアメリカの艦隊が浦賀沖に現われた。幕府に対し米国大統領の<親書>を提出。
(1) 友好・通商。
(2) 石炭と食料の提供。米国難破民の救助―――の2項目を要求した。
<産業革命>で急速に発展する米国の工業を支える<鯨油>を求め、日本近海まで来ていた米国の<捕鯨船>が遭難した時、救助してほしいとの申し出だ。
ジョン万次郎は米国の捕鯨船に命を救われた。船長のホィットフィールドからは家族の一員として暖かく迎えられ、教育まで受けさせてもらった。その恩人の仲間が<遭難>時の救助を求めている。万次郎が<鎖国>の日本に命がけで<帰国>したのも<攘夷><鎖国>の無謀を説くためだった。
長崎の奉行所で<鎖国の禁>を破った嫌疑で厳しい尋問を受け、郷里の土佐に謹慎していた万次郎。だがペリー対応に途方に暮れた幕府。米国事情に通じた万次郎をペリー来航の8日後に召し出した。万次郎は嘉永6年8月、生まれて初めて江戸の土を踏んだ。<日米和親条約>締結の8ヶ月前だった。
幕府の老中、阿部正弘は37歳。開港と通商を求める米国の真意を計りかねていた。19世紀を迎えた西欧の資本主義は地球上のあらゆる土地を、植民地・市場にしようという帝国主義の段階を迎えていた。抵抗するものは武力で打ち破る。
既にイギリスはじめ欧米列強は清国に侵入、アヘン戦争が起こり、清国が敗戦を続けていることは天保11年(1840年)オランダ船や清国船によって長崎奉行に伝えられ、幕府にも報告されていた。日本の支配層には清国の敗戦は深刻なショックだった。<通商>というが<開国>すれば<侵略>されてしまうのではないか。
万次郎は捕鯨基地として賑わうニューベッドフォードの街を見ていた。捕鯨が米国の生命線であることも知っていた。日本を<開港>させる。恩人との約束を果たす時が来た。万次郎は<万感の思い>を込め、老中・阿部正弘に説いた。
「米国が求めているのは<開港>です。<通商>を求めているとは米国で聞いたことがない」。幕府の腹は決まった。<開港>する。しかし<通商>は拒否する。帰国して3年、万次郎は勇みたった。一方のペリー。もし幕府が<開港>を認めなければ<武力>で琉球と小笠原諸島を占領するつもりだった。
交渉開始直前、異変が起きた。万次郎に米国の<スパイ>という嫌疑がかかった。言い出したのは御三家水戸の徳川斉昭。万次郎は米国に不利な情報は出さない。<利敵>行為をとるに違いないという。事実無根。万次郎は自分を推薦してくれた幕府の江川太郎左衛門(英龍)に食い下がった。
「自分はあくまでも日本人です。米国に10年もいた。いろいろな人間と付き合った。どんな英語でも通訳できる。きっとお役に立つ…」と訴えた。江川と万次郎は幕府の高級幹部・斉昭の意向に背き、密かに横浜に向かう。
いったん帰国したペリーは嘉永7年(1854年)2月8日、今度は7隻の軍艦で伊豆沖に現われたのだ。万次郎は幕府側首席の林大学頭と夜を徹して語り明かした。
ペリーが<兵站>をも辞さない覚悟と知って<開国>だけでなく<通商>も受け入れる覚悟だったという。だが万次郎は断言した。米国には<通商>の意志はない…と。
嘉永7年2月10日。最初の日米交渉が始まった。昼過ぎ、日本側の林大学頭の第一声が響いた。「開港はします。通商には応じられません」―――。毅然とした林の言葉。ペリーはじっと考え込んだ。やがて言った。「通商の話はこれで終わりにしましょう」―――。
会議は日本側が主導権を握って進めた。万次郎は密かに交渉の行われる隣室に潜み、米国人に知られることなく、すべての文章に目を通し、訂正・確認をしたという。
嘉永7年3月3日。日米和親条約(神奈川条約)は締結された。日本は200年続いた<鎖国>の重い扉を開いた。万次郎の情報力がものを言った。万次郎はペリーが<通商は時期尚早>と考えていたことを見抜いた。そして恩人ホィットフィールドとの約束も果たした。
国難に際しては<身分>は問題ではない。その思いが日本を動かした。同じ思いで外国渡航を試みた人間がいた。吉田松陰だ。彼は死罪となったが、彼の教え子たちが<明治維新>を成功させる。維新の大業は、まさにペリー来航と開港が引き金となった。
万次郎は咸臨丸が米国へ幕府の使節を運ぶ際、正式に通訳を務めた。また捕鯨船の船長になって鯨を追うという夢も36歳で果たしたという。
―――明治20年、品川沖で静かに釣り糸を垂れる万次郎(61歳)を新聞記者が目撃したと記録にある。(NHK[その時歴史が動いた」・完)
<ジョン万次郎>漂流民の挑戦(上)も本日投稿しています。
嘉永6年(1853年)6月3日、ペリー提督率いるアメリカの艦隊が浦賀沖に現われた。幕府に対し米国大統領の<親書>を提出。
(1) 友好・通商。
(2) 石炭と食料の提供。米国難破民の救助―――の2項目を要求した。
<産業革命>で急速に発展する米国の工業を支える<鯨油>を求め、日本近海まで来ていた米国の<捕鯨船>が遭難した時、救助してほしいとの申し出だ。
ジョン万次郎は米国の捕鯨船に命を救われた。船長のホィットフィールドからは家族の一員として暖かく迎えられ、教育まで受けさせてもらった。その恩人の仲間が<遭難>時の救助を求めている。万次郎が<鎖国>の日本に命がけで<帰国>したのも<攘夷><鎖国>の無謀を説くためだった。
長崎の奉行所で<鎖国の禁>を破った嫌疑で厳しい尋問を受け、郷里の土佐に謹慎していた万次郎。だがペリー対応に途方に暮れた幕府。米国事情に通じた万次郎をペリー来航の8日後に召し出した。万次郎は嘉永6年8月、生まれて初めて江戸の土を踏んだ。<日米和親条約>締結の8ヶ月前だった。
幕府の老中、阿部正弘は37歳。開港と通商を求める米国の真意を計りかねていた。19世紀を迎えた西欧の資本主義は地球上のあらゆる土地を、植民地・市場にしようという帝国主義の段階を迎えていた。抵抗するものは武力で打ち破る。
既にイギリスはじめ欧米列強は清国に侵入、アヘン戦争が起こり、清国が敗戦を続けていることは天保11年(1840年)オランダ船や清国船によって長崎奉行に伝えられ、幕府にも報告されていた。日本の支配層には清国の敗戦は深刻なショックだった。<通商>というが<開国>すれば<侵略>されてしまうのではないか。
万次郎は捕鯨基地として賑わうニューベッドフォードの街を見ていた。捕鯨が米国の生命線であることも知っていた。日本を<開港>させる。恩人との約束を果たす時が来た。万次郎は<万感の思い>を込め、老中・阿部正弘に説いた。
「米国が求めているのは<開港>です。<通商>を求めているとは米国で聞いたことがない」。幕府の腹は決まった。<開港>する。しかし<通商>は拒否する。帰国して3年、万次郎は勇みたった。一方のペリー。もし幕府が<開港>を認めなければ<武力>で琉球と小笠原諸島を占領するつもりだった。
交渉開始直前、異変が起きた。万次郎に米国の<スパイ>という嫌疑がかかった。言い出したのは御三家水戸の徳川斉昭。万次郎は米国に不利な情報は出さない。<利敵>行為をとるに違いないという。事実無根。万次郎は自分を推薦してくれた幕府の江川太郎左衛門(英龍)に食い下がった。
「自分はあくまでも日本人です。米国に10年もいた。いろいろな人間と付き合った。どんな英語でも通訳できる。きっとお役に立つ…」と訴えた。江川と万次郎は幕府の高級幹部・斉昭の意向に背き、密かに横浜に向かう。
いったん帰国したペリーは嘉永7年(1854年)2月8日、今度は7隻の軍艦で伊豆沖に現われたのだ。万次郎は幕府側首席の林大学頭と夜を徹して語り明かした。
ペリーが<兵站>をも辞さない覚悟と知って<開国>だけでなく<通商>も受け入れる覚悟だったという。だが万次郎は断言した。米国には<通商>の意志はない…と。
嘉永7年2月10日。最初の日米交渉が始まった。昼過ぎ、日本側の林大学頭の第一声が響いた。「開港はします。通商には応じられません」―――。毅然とした林の言葉。ペリーはじっと考え込んだ。やがて言った。「通商の話はこれで終わりにしましょう」―――。
会議は日本側が主導権を握って進めた。万次郎は密かに交渉の行われる隣室に潜み、米国人に知られることなく、すべての文章に目を通し、訂正・確認をしたという。
嘉永7年3月3日。日米和親条約(神奈川条約)は締結された。日本は200年続いた<鎖国>の重い扉を開いた。万次郎の情報力がものを言った。万次郎はペリーが<通商は時期尚早>と考えていたことを見抜いた。そして恩人ホィットフィールドとの約束も果たした。
国難に際しては<身分>は問題ではない。その思いが日本を動かした。同じ思いで外国渡航を試みた人間がいた。吉田松陰だ。彼は死罪となったが、彼の教え子たちが<明治維新>を成功させる。維新の大業は、まさにペリー来航と開港が引き金となった。
万次郎は咸臨丸が米国へ幕府の使節を運ぶ際、正式に通訳を務めた。また捕鯨船の船長になって鯨を追うという夢も36歳で果たしたという。
―――明治20年、品川沖で静かに釣り糸を垂れる万次郎(61歳)を新聞記者が目撃したと記録にある。(NHK[その時歴史が動いた」・完)
<ジョン万次郎>漂流民の挑戦(上)も本日投稿しています。