静岡の歴史
先史
1960年(昭和35年)から
1962年(昭和37年)に静岡県西部の
浜北市根堅(現
浜松市浜北区根堅)において人骨が発見されたが、
2002年(平成14年)
9月になって
旧石器時代の約1万4000年前に生息していた
浜北人の人骨であると、科学的な測定法で確認された。浜北人骨は20歳代の女性で身長143センチと考えられている。人骨の発見以来、県内での調査例が増加し、今では200カ所近くに達している。場所は、
天竜川左岸の磐田原台地西端一帯、沼津市の背後の
愛鷹山南麓、
箱根山西麓の3カ所に密集している
[6]。
縄文時代の遺跡総数は約2000カ所を超える。縄文草創期の遺跡は少ないが、
伊豆の国市三福の仲道A遺跡で
土器が出土している。早期になると撚糸文(よりいともん)や押型文(おしがたもん)の土器が集落跡から出土している。その後(約7000〜8000年前)愛鷹山南麓から箱根山西麓・伊豆半島にかけて集落が急増し、県中部にかけても広がっていく。縄文前期には、遺跡数が減少するが、前期末から中期・後期前半までになると、遺跡数も増加し、県内の縄文最盛期を迎える。
東部では集落遺跡・住居の形と構造・土器・
土偶・石棒・石斧などの様相が類似・発達した文化が伊豆半島から掛川市付近まで広がっている。それに対して、西部の遠江平野では、近畿・瀬戸内地域の土器が流入し、伊那谷系の土器なども分布し、東部とは様相を異にしている。
また、矢尻として多く使用された
石鏃の原料の石材も県内西部の天竜川付近までは、畿内の
二上山産出の
サヌカイトや下呂石などが大量に使用されているのに対し、東部では八ヶ岳や神津島の
黒曜石が主流である。遠隔地との交易・交流が盛んに行われていたことが分かる。縄文後期後半になると遺跡数が、東部では激減し、中・西部では緩減する。一方では儀式用の石器が普及し出す
[7]。
また、約4000〜6000年前のものとされる全国的に見ても大規模な集落跡である
千居遺跡が静岡県東部の上条地区(現
富士宮市)で確認されている。
古代
中央から派遣された
国司が政務を司る政庁は、国府に置かれ、
国衙と呼ばれた。まず、遠江国府は磐田市御殿二宮遺跡が、駿河国府が静岡市駿府城東南地区が候補地としてあがっているが、伊豆国府は三島市内に候補地を見出していない。その土地の国造や新興の有力者が就任した郡司の
郡衙は郡家とも呼ばれた。官衙遺跡では、浜松市の
伊場遺跡・城山遺跡・梶子遺跡・梶子北遺跡が発掘されている。
これらの遺跡は敷智郡家および関連官衙(館・厨)や栗原馬家など地方官衙が複合する遺跡と考えられている。また、これらの遺跡は、出土する木簡から天武朝に溯る事が分かり、柱立建物が13〜14棟、絵馬・墨書土器が検出されている。このほか、藤枝市
御子ヶ谷遺跡(国指定遺跡)と秋合遺跡は駿河国志太郡家遺跡と考えられ、袋井市坂尻遺跡(佐野郡家ヵ)、藤枝市郡(こおり)遺跡(益頭(さしず)郡家ヵ)などの郡衙遺跡の存在が明らかになってきている
[8]。
『絹本着色富士曼荼羅図』(
重文、
富士山本宮浅間大社蔵)
富士山の他、浅間大社・村山浅間神社(村山修験者)・三保の松原、駿河湾、東海道、富士川などが描かれている[9]- 遠江国
- 次の3つの国造を統合
- 遠淡海国:磐田市に比定
- 久努国:袋井市久能に比定
- 素賀国:掛川市大須賀に比定
- 駿河国
- 次の2つの国造を統合
- 珠流河国:伊豆を含む富士川以東に比定。
- 廬原国:大井川と富士川の間に比定。
- 伊豆国
- 駿河国成立から程なく分立した。伊豆諸島を含む。
- 国造国の比定地については異説が多い
記紀においては、
ヤマトタケルが蝦夷征伐に赴いた時、
駿河国でだまし討ちに遭う。その時に
草薙剣で草を薙ぎ払って難を逃れたというヤマトタケル伝承が記されており、その地を「
草薙」と呼んだ。また、賊を焼き払った野原を「
焼津」と呼んだという。
律令制で中央集権国家が形成されるに従って、現在の静岡県内に有った国造は、伊豆国、駿河国、遠江国という3つの
令制国に合併・再編された。
律令制下には、遠江国には白輪官牧(しろわのかんまき)があり、その後
荘園化し白羽荘と称した。故地は
御前崎西方の砂丘地帯から北方の
牧之原台地におよぶと推定される。駿河国には岡野(大野)・蘇弥奈の2官牧がある。前者は愛鷹山の東南麓、現沼津市の大岡・金岡・愛鷹を中心とする地域に存在し、後に大岡牧、あるいは大岡荘と呼ばれる荘園になった。後者の位置は明確でないが、現静岡市街地の西北、
安倍川と
藁科川とに囲まれた牧ヶ谷から美和の内牧に至る一帯の山地と思われる。伊豆国では、官牧の存在が明確ではないが、現伊豆市
修善寺町に牧之郷という地名がある。後にこれらの地域に武士団が簇生した
[10]。
伊豆国は
畿内から遠いために、
流刑地の一つとされていた。一方で、駿河国には
藤原南家の末裔(まつえい)の多くが住み着き、土着したようである。
遠江国の国分僧寺は磐田市中央町に、国分尼寺はその北にあったことが確かめられている。駿河国分僧寺は静岡市大谷の片山廃寺がその有力候補とされており、国分尼寺は不明である。伊豆国分僧寺は三島市泉町に、国分尼寺は三島市南町にあった。
中世
平治元年(1159年)、平清盛に敗退した
源義朝は東国に敗退する最中に謀殺され、義朝三男の
源頼朝は平家方に捕らえられるが助命され、伊豆国韮山(
韮山町)に流刑された。豆駿伊豆三国はいずれも平家の勢力圏であったが、頼朝は伊豆において在庁官人
北条氏の庶流
北条時政の娘
政子を室として婿になり、伊豆の反平家方の武士たちから支持を受けると治承4年(1180年)には
以仁王の平家討伐令旨に応じて挙兵する(
治承・寿永の乱)。
治承・寿永の乱は豆駿遠三国のみならず相模国や
甲斐国など東国圏から西国にかけて展開するが、三国内における平家勢は治承4年8月23日に相模
石橋山合戦(小田原市)において頼朝勢を撃退するが、8月25日には駿河目代
橘遠茂の軍勢が富士山麓において
甲斐源氏の勢力に敗退し(
波志田山合戦)、甲斐源氏の勢力と安房へ逃れた頼朝が
三浦氏の後援を得て勢力を挽回すると反平家勢は再び三国方面へ侵攻し、平家勢は10月14日には富士山麓における
鉢田の戦いにおいて敗退し、さらに10月20日の
富士川の戦いにおいて大敗し、三国は頼朝や甲斐源氏の勢力圏となった。
頼朝が鎌倉幕府を開府すると三国の所領も恩賞として御家人に安堵された。伊豆は北条氏が守護となったが、治承・寿永の乱においては特に甲斐源氏の功績が大きく、駿河は
武田信義、遠江は
安田義定が守護となったが、頼朝は甲斐源氏の粛清を行い、三国は北条氏の影響下に置かれた。『
曽我物語』に拠れば建久4年(1193年)5月15日には
富士の巻狩が行われ、5月28日には曽我の敵討が発生する。
鎌倉幕府において源氏将軍が途絶すると北条氏は
執権として幕政を主導する執権政治を開始し、三国は北条氏の所領における中心となる。承久3年の承久の乱において三国の武士は幕府勢の主力である東海道軍に加わり活躍し、乱の平定後に三国の御家人は西国にも恩賞を獲得し、勢力を拡大した。
頼朝や北条氏は寺社を振興し、三国においても頼朝の信仰した
伊豆山神社や北条氏の氏寺である
願成就院など幕府にゆかりのある寺院が分布している。三国においては天台宗・真言宗の旧仏教の影響が強かったが、鎌倉新仏教においても臨済宗の高僧である
円爾(聖一国師)や
南浦紹明(大応国師)は駿河の出身で三国でも臨済寺院が分布しており、日蓮宗の宗祖である日蓮は伊豆において布教を行っており、
日蓮が甲斐国南部の身延(
身延町)に草庵を構え信仰の拠点となると駿河・伊豆においても門徒が拡大し、
日興は
大石寺(富士宮市)・
北山本門寺(富士市)など岳南地方において日蓮宗の拠点寺院を建立した。
戦国期には
今川氏親は伊勢宗瑞(
北条早雲)らの力によって一族の抗争を終わらせ、
戦国大名への道を歩んだ。また、
応仁の乱の後に、散逸した貴族達が多く逗留した。一方の北条早雲は、伊豆国の
堀越公方を攻め滅ぼし、それを足がかりに
関東の支配へ乗り出す。
駿府は今川領国の中心として繁栄し、
今川義元は相模国の後北条氏との争い(
河東の乱)を収束させると、甲斐の武田氏、相模後北条氏と三国同盟を形成し駿河国、遠江国、
三河国の3国を支配した。永禄3年(1560年)、
尾張国の
織田信長との
桶狭間の戦いにおいて当主義元が敗死し
今川氏真に当主交代すると三河においては松平元康(
徳川家康)が独立するなど今川領国は動揺する。外交関係においても武田氏と手切となり、永禄11年(1568年)に
武田信玄と徳川家康が協調して今川領国へ侵攻し、今川氏は相模後北条氏の支援を得るが領国は崩壊した。
その後は武田信玄と徳川家康は今川領国の割譲を巡り対立し、さらに徳川氏と協調し武田氏に敵対する後北条氏や越後上杉氏、徳川氏と同盟関係にありつつ武田氏とも友好的関係を持ち将軍義昭を擁する尾張の織田信長など旧今川領国を巡る情勢は複雑に推移するが、元亀年間に武田氏は駿河を確保すると、後北条氏との同盟も回復する。その後、武田氏は矛先を遠江・三河方面に向け家康や信長と対決し畿内情勢にも影響を及ぼしたが(
西上作戦)、元亀4年には信玄が死去し事態はいったん収束する。
信玄の死後、信長は畿内において政権を確立し家康も
岡崎から
浜松に拠を移し勢力を回復し、武田氏では
勝頼に当主交代すると再侵攻を繰り返すが、天正3年の三河において織田・徳川勢が武田勢に致命的打撃を与えた
長篠の戦いと、天正9年の高天神城陥落を契機に駿遠二国における武田氏の勢力は後退し、天正10年(1582年)に武田氏は織田・徳川勢により滅ぼされた。
同年、
本能寺の変において信長が横死し旧武田領国が空域化すると家康は本国の三河・遠江のみならず武田遺領である甲斐・
信濃国・駿河を確保し(
天正壬午の乱)、5国を支配し東国における一大勢力に成長した。
近世
豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと、1590年には家康は駿府から
江戸に移され、代わって駿府には
中村一氏が入り、遠江国には掛川に
山内一豊や
堀尾吉晴が入り、それぞれ織田家の家臣が入った。
1603年、徳川家康が
江戸幕府を開くと後継者の
徳川秀忠に
将軍職を譲り、家康は駿府において大御所政治を敷いた。
江戸時代の伊豆国、駿河国、遠江国の3国(以下「豆駿遠三国」と略称)には、
幕府直轄領や譜代大名の藩領、旗本領が入り組んでおり、伊豆国には韮山の代官江川太郎左衛門、駿河国には沼津藩の水野出羽守、田中藩の本田紀伊守、小島藩の瀧脇丹後守、遠江国には相良藩の田沼玄蕃頭、横須賀藩の西尾主計頭、浜松藩の井上河内守、掛川藩の太田惣次郎、堀江藩の大澤右京太夫といった具合に領主支配は複雑に変遷している。
近世には江戸日本橋から京都に至る
東海道の
宿場が整備されるが、豆駿遠三国には53の宿場のうち22宿が存在し、各地に
宿場町が成立した。東海道は西国諸大名の
参勤交代や
朝鮮通信使・
琉球使節も通行し、
新居関所(今切関所)は箱根関所と並ぶ重要な関所として知られ、大井川では川越制度が整えられ、大井川徒歩が行われた。
近世には
新田開発が行われ米麦や畑作物の生産が増大したほか、
茶や
椎茸、
山葵などの特産物の生産も行われる。また、伊豆や駿河では金銀山での採掘が行われたほか、豆駿遠三国では林業が行われ幕府の
御林も設置されていた。
近世後期には
天命の大飢饉、
天保の大飢饉などに際して豆駿遠三国でも凶作や飢饉の被害を受け、強訴や打ちこわし、百姓一揆が発生しており、明和元年(1764年)の駿河小島藩の惣百姓一揆、天明3年(1783年)の駿河
御厨一揆、天明6年の遠江
笠井・二俣騒動、文化13年の
蓑着騒動などが発生している。
文化面では
国学を創始した確立した
荷田春満の弟子に浜松諏訪神社大祝
杉浦国頭がおり、国頭は江戸において春満に学び、春満の姪を妻に迎え浜松で私塾を開き多くの門弟を育てた。そのなかには伊庭村の賀茂明神神職の
賀茂真淵がおり、真淵は春満に国学の学問的手法を確立し、地元出身者を含む多くの門弟を育て、豆駿遠三国では春満・真淵との関わりから
遠州国学が発達する。
幕末には嘉永6年(1853年)にアメリカ艦隊司令長官
ペリーが日本との通商を求めて来航し、翌嘉永7年1月には下田・函館両港が開港する。下田にはアメリカ領事
タウンゼント・ハリスが駐在し、安政5年に
日米修好通商条約が締結されるまで、
玉泉寺はアメリカ総領事館として機能した。また、嘉永6年にはロシアの
プチャーチン艦隊も日本との通商を求めて来航し、同年11月1日には下田において幕府側全権と交渉を行っている。嘉永7年11月4日には
安政東海地震が発生しプチャーチン艦隊のディアナ号は沈没し、日本側では
韮山代官江川英龍が主導し、
戸田港において代船
ヘダ号の造船を行っている。
近代
1871年8月29日の
廃藩置県では、静岡藩は静岡県に置き換わり、堀江藩が堀江県に置き換わった。同年
12月31日には、当時の静岡県は分割され、駿河国部分が静岡県となり、遠江国部分は
浜松県となった。堀江県は浜松県に編入された。韮山県は、荻野山中県や小田原県と合併して、
足柄県となった。
このように、伊豆国、駿河国、遠江国の3国が、
1876年(明治9年)に行われた県の合併によって、現在の静岡県となった。
転載元: 環境・歴史・観光・防災・家族を想う、さすらいカメラマン