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Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
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[転載]いもれ(ようこそ)奄美野生生物保護センター

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amami-wcc.net/ - キャッシュ
生命(いのち)にぎわう亜熱帯のシマ ~森と海と島人(しまっちゅ)の暮らし~



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www.vill.yamato.lg.jp/yamato05/yamato04.asp - キャッシュ
奄美野生生物保護センターは、奄美群島の生きものや生態系を保全するために設立 された環境省の施設です。希少な野生生物の生息状況等を把握する調査研究や、生態 系に被害を与える外来生物ジャワマングースの捕獲、野生生物保護に対する理解や 関心 ...



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www.vill.yamato.lg.jp/yamato05/ - キャッシュ
鹿児島県の奄美大島にある大和村のホームページです。「自然と人が溶け合うところ」 大和村。スモモ・タンカン農業が盛んで、マテリヤの滝や徳浜の断崖に代表される雄大な 自然が観覧出来ます。また、希少な野生 ... トップページ > 奄美野生生物保護センター ...



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ja.wikipedia.org/wiki/奄美群島国立公園 - キャッシュ
奄美群島国立公園(あまみぐんとうこくりつこうえん)は、鹿児島県の奄美群島、ならびに その周辺海域を区域とする国立公園である。当国立公園の指定は ... 総指定面積は 75,263ha(陸域:42,181ha 、海域:33,082ha)で、そのうち「特別保護区域」と「第1種 特別地域」は世界自然遺産候補「奄美大島、徳之島、 .... 環境省 奄美野生生物保護センター ...

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転載元: 奄美大島や加計呂麻島は良かったよ! 西郷さんも寅さんもいたよ


めちゃ盛りミステリーツアーに行こう!良かったヨ!(種明かし)

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めちゃ盛りミステリーツアー日帰り
カサイサービスエリア


旅行パンフレットを楽しむ

砂の美術館

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謎解きミステリークイズ

企画担当者のあだ名が難問

岡山と山陰の間の粟倉道の駅で
非地元野菜の詰め放題

白兎海岸
台風の影響がある男性的な海、
海水面上昇と荒波で侵食される海岸

白兔神を主祭神とし、保食神を配祀する。白兔神は日本神話に登場する因幡の白兎のことである。その説話の内容から、皮膚病に霊験のある神として信仰される。また、大国主と八上姫神との婚姻を取り持ったことから、特定の人との縁結びの神としてかなわぬ恋をかなえ、特定の人との親交をより深める神として信仰される。さらに、遠国の人もこの兎に願えば早く国に帰れるという。また、医療の神でもある。

日本初のラブストーリーの発祥地「白兎」として、2010年に「恋人の聖地」に認定された。




浜下商店
素人セリ市体験は、100円からのスタートで、観光バス7台から🚌降りた客が集まっていた。
結構、安く買えたみたいだった。

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砂丘会館
7種の海鮮どんぶりとスキヤキでズボンのボタンがちぎれて・・・

多鯰ケ池

昔、因幡国法美郡宮ノ下に長者があり、大勢の使用人が働いていた。
ある時長者は、福部の細川というところからお種という名の美しい少女を雇い入れた。この長者の家では、一日の仕事が終わると使用人たちが集まってあれこれと話し合いをするのが常だった。
その日も使用人たちが集まって話をしているうち、「腹が減った」「なんぞ食うもんはないかいや」と言い出した。
すると、お種がどこからかとても甘い柿をもいできて、使用人に振る舞った。それからも時々、お種は客人や使用人に柿を振る舞うことがあった。お種がどこから柿をもいでくるのか不思議に思った使用人たちは、ある夜お種をつけてみた。
お種は屋敷から4里ほど離れた大きな池の畔に着くと、着物を脱ぎ捨て、見る間に白蛇に姿を変えた。白蛇に姿を変えたお種は池をすると泳いで行くと、池の中程にある島へと渡っていった。その島にはたわわに実った柿の大樹があった。
お種は蛇に変身して、その島にある柿をもいできていたのである。驚いた使用人たちは屋敷に戻って一部始終を話した。しかし、それ以後、正体を見られたお種が長者の屋敷に現れることはなく、それとともに長者の権勢も次第に衰えていったということである。

お種に変身していた白蛇は、池の北岸の大島にある弁財天に祀られている。
お種が働いていた長者の屋敷は、摩尼寺のふもとにあったとの伝承もある。
正体を見られたお種が長者の屋敷まで使用人たちを追いかけてきて、固く閉ざされた屋敷の門に鱗を貼って去っていったという結末も伝えられている。

[転載]オノゴロ島と大八島神話とヤマト王権

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 『古事記』や『日本書紀』にイザナキとイザナミが国産みを行う話とこの神話を作成したヤマト王権について検証してみたいと思います。この検証で、ある仮定のもとにお話しますので、実際のところは不明。「ヤマト王権が九州からやって来て、奈良県桜井市の纒向に政権基盤を置いた。」と仮定します。
 纒向遺跡から4km程離れた奈良県磯城郡田原本町に唐古・鍵遺跡があり、この遺跡から弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物跡が出土され、南方6kmにある耳成山からの流紋岩で作られた石包丁で多数の鍬や鋤の農耕具、斧の柄などの工具、高杯や鉢などの容器類の木製品も発見されたことから、弥生時代(紀元前3世紀頃)から水田による稲作が行われ、そのための集イメージ落が存在していました。中国・四川省の古墳(1世紀頃)で出土した神仙世界の天門を表す図柄とよく似ている土器の破片が発見されて話題になった唐古・鍵遺跡で、この絵をもとに現在、この地に復元された楼閣が立てられています。以前から稲作を生活の糧にしていた集団のところに中国出身の帰化人がやって来ているのでしょうかね。それとも、この地には各地の搬入土器が多く出土していることから市がすでに存在し、帰化人の海人族の技術者もいたようで、南イメージ部では木器の未成品や青銅器鋳造関連遺物や炉跡も発見され、農工商の機能をもった集落に成長していた。この地で近畿を中心に発見されている銅鐸を製造していたようですね。銅鐸が製造された時期は、弥生時代後期ですから、ヤマト王権が九州から纒向に移住してきた時期、2世紀頃にあたります。倭国大乱の時期ですね。その頃から後に、纒向に垂仁天皇が纒向珠城宮を、景行天皇が纒向日代宮を築いています。唐古・鍵遺跡を支配していたのは。『日本書紀』によると「崇神天皇に大水口宿禰が、箸墓古墳の主とされている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)とともに同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられた旨を天皇に奏上した。」という記事があります。この大水口宿禰は、ニギハヤヒの後裔であり、穂積氏の遠祖と言われ、穂積氏が物部氏の本流であり、この奈良県磯城郡田原本町にある唐古・鍵遺跡を本拠地にしていました。
 穂積氏或いは物部氏が本拠地にしていた唐古・鍵遺跡の弥生時代中期末から後期の推定人口は、2,000人と推定されています。その頃、倭国大乱が起こる直前、九州の吉野ケ里遺跡では、5,400人も。でも、近畿でも唐古・鍵遺跡イメージほどの人口ではないものの、大阪府和泉市の池上・曽根遺跡では、1,000人が生活し、大阪平野には池上・曽根遺跡以外に40近くの集落が存在していました。この集落のすべてがヤマト王権の支配下にあったと言っていいでしょう。また、吉野ケ里遺跡が倭国大乱の後、完全に消滅していることを思うと、吉野ケ里遺跡の残党が近畿圏に流れて来たとも考えられ、吉野ケ里遺跡から銅鐸がはっけんされていることも考慮して、吉野ケ里遺跡にいた青銅器や鉄器の技術者も。池上・曽根遺跡にも青銅イメージ器の工房跡が発見されています。
 鉄器の工房と言いますと池上・曽根遺跡から大阪湾沿岸に出て、海を隔てて西に薄らと淡路島が望めます。池上・曽根遺跡の真西に。弥生時代後期・1世紀ごろのおよそ100年間にわたり存在した、鉄器製造施設跡、鉄を加工した炉跡の遺構がある五斗長垣内遺跡や舟木遺跡が存在したことが確認されています。
 このように国産みの神話は、考古学的な観点から生まれてきた。すなわち、イザナキとイザナミという架空の神が天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜ、生まれたのがオノゴロ島。これは、一説には友が島の地ノ島や沖ノ島だと言われていますが、私は大阪平野の集落や唐古・鍵遺跡の集落或いは、纒向遺跡の集落ではないかと。まイメージた、『古事記』に仁徳天皇が吉備の国に幸行するときに詠んだ歌として、『押してるや、難波の崎から出で立ちて、我が国見をすると、アハ島オノゴロ島アジマサの島も見える、サケツ(先つ)島も見える。』とあり、そのころからオノゴロ島があったようです。オノゴロ島はどこであったかわからないけれど。その後、イザナキとイザナミは大八島(淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州)を生み出していきます。これって、ヤマト王権がこの地に侵略して勝ち取った順番ではないかと思われます。安土桃山時代の戦国時代に戦いが行われたとき、足軽などの兵士として農民が引っ張り出してきたように、ヤマト王権が武器を大和国や河内国の集落で作らせ、稲作をしている農民を戦場に。また、洪水を防いだり、灌漑を整備して、農地を増やすための土木工事にも大和国や河内国の集落の人々を使ったようにも思えます。

転載元: いにしえララバイのブログ

但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する

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但馬国

但馬国 別称所属相当領域 諸元国力距離数 国内主要施設但馬国府但馬国分寺但馬国分尼寺一宮
地図 令制国 但馬国.svg
-但馬国
-山陰道
但州(たんしゅう)
山陰道
兵庫県北部
上国
近国
8郡59郷
1. 未詳
2. 兵庫県豊岡市
兵庫県豊岡市(但馬国分寺跡
兵庫県豊岡市
出石神社(兵庫県豊岡市)
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但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。

沿革

のちに但馬国となる地域には以下の2つの国造が置かれていた。
こののち、のちの丹波国丹後国・但馬国の3国にあたる地域は丹波国造の支配地域である丹波国となった。但馬国は7世紀後半に丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。

国内の施設
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国府

祢布ヶ森遺跡
兵庫県豊岡市
和名抄』および『拾芥抄』によると、国府は気多郡にあった。
初期の国府の所在地には、豊岡市出石町の袴狭(はかざ)遺跡とする説、気多郡(現在の豊岡市日高町)内とする説があるが、明らかでない。『日本後紀』によると、延暦23年(804年)に気多郡高田郷に国府が移されたという[5]。豊岡市役所日高振興局(旧日高町役場)の付近で発掘された祢布ヶ森遺跡(豊岡市日高町祢布)がこれに比定される(位置)。




国分寺・国分尼寺

但馬国分寺跡石碑
(兵庫県豊岡市)
但馬国分尼寺跡石碑
(兵庫県豊岡市)
  • 但馬国分寺跡(豊岡市日高町国分寺、位置
    国の史跡。寺域は1町半(約160メートル)四方。伽藍遺構として金堂・回廊・塔・中門、また寺域を示す築地の雨落溝の一部が確認され、その溝からは36点の木簡が出土している。跡地付近にある護国山国分寺(豊岡市日高町国分寺、位置)が法燈を伝承する。
  • 但馬国分尼寺跡(豊岡市日高町水上・山本、位置
    国分寺跡から北方の豊岡市立日高東中学校付近。礎石が伝世され、尼寺の遺構とされる。北方の天台山法華寺(豊岡市日高町山本、位置)が後継を称する。

神社

延喜式神名帳』には、大社18座10社・小社113座106社の計131座116社が記載されている(「但馬国の式内社一覧」参照)。大社10社は以下に示すもので、全て名神大社である。
  • 朝来郡粟鹿神社
  • 養父郡夜夫坐神社二座(五座のうち)
  • 養父郡 水谷神社
  • 出石郡伊豆志坐神社八座
  • 出石郡 御出石神社
  • 気多郡山神社
    • 比定社:山神社(豊岡市日高町山宮、位置
  • 気多郡 戸神社
    • 比定社:戸神社(豊岡市日高町十戸、位置
  • 気多郡 雷神社
    • 比定社:雷神社(豊岡市佐野、位置
  • 気多郡 椒神社
    • 比定社:椒神社(豊岡市竹野町椒、位置
  • 城崎郡海神社
出石神社(兵庫県豊岡市)
総社一宮以下
『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[6]

[転載]ツツジに名残の桜や新緑のなかを走る~。

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18日の但東チューリップまつり~

カーナビのルート最短距離 約92キロ、有料道路使用を。
舞鶴若狭自動車道→福知山ICまでは 約30分
あと国道9号線などの下道を走ること
約1時間30分(途中でお花休憩あり) 

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一つ山越えの途中 
新緑の目立つ中、八重桜もまだ見られました~。

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馬酔木も~。
お花はアセビもドウダンツツシも よく似ています。
見分け方を調べますと 
こうして房状のお花で 常緑樹が馬酔木。
木の幹から 4~5個のお花が出ていて
寒くなると紅葉するのがドウダンツツシだとか。
今更ですが なーるほど~。


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山越えの道は このように広くなっている所が 沢山。
この辺りだけ 桜やアセビなど お花がありましたので 
いっぷく(^。^)y-.。o○。

カーナビには薬王峠と出ていましたが 
地図ではそんな峠は見当たりません(笑)。
気の合う仲間アクアさん。


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お花見の前にランチを・・・でも満席の上に
20人近くお待ち。
お席待ちのところから 大きなガラス窓越しに
おそばを打っておられるのが見られます。

帰りの時間を考えますと 長く待つのを諦めて・・・退散!


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よもぎ餅 3個入り とコーヒー。
チューリップを満喫して~の ランチです。
会場の奥に 大きなテントが何張りもあって 
おうどんやラーメンお飲み物 
いろいろ売られています。

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バナナも買いました~。
この日のランチは
よもぎ餅2個、バナナ1本、爽健美茶とコーヒー1杯~。
テントの中に 真っ白なテーブルクロス
そのお席で 
目の前のチューリップを眺めながらのランチでした~。


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最後に 少しお散歩で 蓮華畑も

帰りは北近畿豊岡道の氷上ICに向けて
帰りの距離も ほぼ同じく100キロ未満
こちらのコースの方が山超えも低く、
殆ど出石川沿いに走れラクチン

もしかして北近畿豊岡道の青垣IC経由の方が近道?

距離はそこそこありますが 山の木々に囲まれて
お花見ドライヴでした~~。






転載元: アンベルスのノート

登呂遺跡(とろいせき)は、静岡県静岡市駿河区登呂五丁目にある、弥生時代の集落。静岡市にある日本平動物園と登呂遺跡は、学べて遊べる楽しい施設です。静岡市プロモーションレディの坂元愛実さんがご案内します

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登呂遺跡

登呂遺跡(2012年7月)
登呂遺跡(とろいせき)は、静岡県静岡市駿河区登呂五丁目にある、弥生時代の集落・水田遺跡。国の特別史跡に指定されている。
弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落と推定される。「登呂」はこの地域の小字1973年住居表示実施により町名にも採用)。


概要

発見当初の様子。(1943年)
遺跡は、戦時中1943年(昭和18年)、軍事工場建設の際発見された。戦後間もない1947年(昭和22年)には考古学人類学地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行われ、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居(正確には竪穴系平地式住居)・高床式倉庫の遺構が検出された。この他にも、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土した。 また、1999年平成11年)から5カ年計画で再発掘調査が行われ、新たに銅釧や漆が塗られた槽づくりの琴、祭殿跡などが出土している。
現在遺跡は、登呂公園として整備され、住居などが復元されているほか、遺跡についての資料がある静岡市立登呂博物館が隣接して建てられている。

登呂遺跡は、安倍川の分流の洪水時に押し流された土砂が堆積し、自然に形成された堤防の上に造られている。村は、北東から南西の方向に広がる微高地を利用して住居12棟、高床倉庫2棟が建っており、水田は、その南につくられている。

ギャラリー





[転載]魅力あるまち静岡市 歴史

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静岡の歴史

※各地域ごとの歴史は「伊豆国」「駿河国」「遠江国」を参照すること。

先史

1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)に静岡県西部の浜北市根堅(現浜松市浜北区根堅)において人骨が発見されたが、2002年(平成14年)9月になって旧石器時代の約1万4000年前に生息していた浜北人の人骨であると、科学的な測定法で確認された。浜北人骨は20歳代の女性で身長143センチと考えられている。人骨の発見以来、県内での調査例が増加し、今では200カ所近くに達している。場所は、天竜川左岸の磐田原台地西端一帯、沼津市の背後の愛鷹山南麓、箱根山西麓の3カ所に密集している[6]

縄文時代の遺跡総数は約2000カ所を超える。縄文草創期の遺跡は少ないが、伊豆の国市三福の仲道A遺跡で土器が出土している。早期になると撚糸文(よりいともん)や押型文(おしがたもん)の土器が集落跡から出土している。その後(約7000〜8000年前)愛鷹山南麓から箱根山西麓・伊豆半島にかけて集落が急増し、県中部にかけても広がっていく。縄文前期には、遺跡数が減少するが、前期末から中期・後期前半までになると、遺跡数も増加し、県内の縄文最盛期を迎える。

東部では集落遺跡・住居の形と構造・土器・土偶・石棒・石斧などの様相が類似・発達した文化が伊豆半島から掛川市付近まで広がっている。それに対して、西部の遠江平野では、近畿・瀬戸内地域の土器が流入し、伊那谷系の土器なども分布し、東部とは様相を異にしている。

また、矢尻として多く使用された石鏃の原料の石材も県内西部の天竜川付近までは、畿内の二上山産出のサヌカイトや下呂石などが大量に使用されているのに対し、東部では八ヶ岳や神津島の黒曜石が主流である。遠隔地との交易・交流が盛んに行われていたことが分かる。縄文後期後半になると遺跡数が、東部では激減し、中・西部では緩減する。一方では儀式用の石器が普及し出す[7]

1958年(昭和33年)から1960年(昭和35年)、静岡県西部の三ヶ日町只木(現浜松市北区三ヶ日町只木)で、約7500〜9500年前に生息の三ヶ日人の住んでいた遺跡が発見されている。

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また、約4000〜6000年前のものとされる全国的に見ても大規模な集落跡である千居遺跡が静岡県東部の上条地区(現富士宮市)で確認されている。
弥生時代には、静岡市駿河区登呂で、弥生時代の水田、住居跡などが発見されている(登呂遺跡)。

古代

中央から派遣された国司が政務を司る政庁は、国府に置かれ、国衙と呼ばれた。まず、遠江国府は磐田市御殿二宮遺跡が、駿河国府が静岡市駿府城東南地区が候補地としてあがっているが、伊豆国府は三島市内に候補地を見出していない。その土地の国造や新興の有力者が就任した郡司の郡衙は郡家とも呼ばれた。官衙遺跡では、浜松市の伊場遺跡・城山遺跡・梶子遺跡・梶子北遺跡が発掘されている。

これらの遺跡は敷智郡家および関連官衙(館・厨)や栗原馬家など地方官衙が複合する遺跡と考えられている。また、これらの遺跡は、出土する木簡から天武朝に溯る事が分かり、柱立建物が13〜14棟、絵馬・墨書土器が検出されている。このほか、藤枝市御子ヶ谷遺跡(国指定遺跡)と秋合遺跡は駿河国志太郡家遺跡と考えられ、袋井市坂尻遺跡(佐野郡家ヵ)、藤枝市郡(こおり)遺跡(益頭(さしず)郡家ヵ)などの郡衙遺跡の存在が明らかになってきている[8]

『絹本着色富士曼荼羅図』(重文富士山本宮浅間大社蔵)
富士山の他、浅間大社・村山浅間神社(村山修験者)・三保の松原、駿河湾、東海道、富士川などが描かれている[9]
遠江国
次の3つの国造を統合
遠淡海国:磐田市に比定
久努国:袋井市久能に比定
素賀国:掛川市大須賀に比定
駿河国
次の2つの国造を統合
珠流河国:伊豆を含む富士川以東に比定。
廬原国:大井川と富士川の間に比定。
伊豆国
駿河国成立から程なく分立した。伊豆諸島を含む。
国造国の比定地については異説が多い
記紀においては、ヤマトタケルが蝦夷征伐に赴いた時、駿河国でだまし討ちに遭う。その時に草薙剣で草を薙ぎ払って難を逃れたというヤマトタケル伝承が記されており、その地を「草薙」と呼んだ。また、賊を焼き払った野原を「焼津」と呼んだという。
律令制で中央集権国家が形成されるに従って、現在の静岡県内に有った国造は、伊豆国、駿河国、遠江国という3つの令制国に合併・再編された。
律令制下には、遠江国には白輪官牧(しろわのかんまき)があり、その後荘園化し白羽荘と称した。故地は御前崎西方の砂丘地帯から北方の牧之原台地におよぶと推定される。駿河国には岡野(大野)・蘇弥奈の2官牧がある。前者は愛鷹山の東南麓、現沼津市の大岡・金岡・愛鷹を中心とする地域に存在し、後に大岡牧、あるいは大岡荘と呼ばれる荘園になった。後者の位置は明確でないが、現静岡市街地の西北、安倍川藁科川とに囲まれた牧ヶ谷から美和の内牧に至る一帯の山地と思われる。伊豆国では、官牧の存在が明確ではないが、現伊豆市修善寺町に牧之郷という地名がある。後にこれらの地域に武士団が簇生した[10]
伊豆国は畿内から遠いために、流刑地の一つとされていた。一方で、駿河国には藤原南家の末裔(まつえい)の多くが住み着き、土着したようである。

遠江国の国分僧寺は磐田市中央町に、国分尼寺はその北にあったことが確かめられている。駿河国分僧寺は静岡市大谷の片山廃寺がその有力候補とされており、国分尼寺は不明である。伊豆国分僧寺は三島市泉町に、国分尼寺は三島市南町にあった。

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中世

伝源頼朝像(神護寺三像

平治元年(1159年)、平清盛に敗退した源義朝は東国に敗退する最中に謀殺され、義朝三男の源頼朝は平家方に捕らえられるが助命され、伊豆国韮山(韮山町)に流刑された。豆駿伊豆三国はいずれも平家の勢力圏であったが、頼朝は伊豆において在庁官人北条氏の庶流北条時政の娘政子を室として婿になり、伊豆の反平家方の武士たちから支持を受けると治承4年(1180年)には以仁王の平家討伐令旨に応じて挙兵する(治承・寿永の乱)。

治承・寿永の乱は豆駿遠三国のみならず相模国や甲斐国など東国圏から西国にかけて展開するが、三国内における平家勢は治承4年8月23日に相模石橋山合戦(小田原市)において頼朝勢を撃退するが、8月25日には駿河目代橘遠茂の軍勢が富士山麓において甲斐源氏の勢力に敗退し(波志田山合戦)、甲斐源氏の勢力と安房へ逃れた頼朝が三浦氏の後援を得て勢力を挽回すると反平家勢は再び三国方面へ侵攻し、平家勢は10月14日には富士山麓における鉢田の戦いにおいて敗退し、さらに10月20日の富士川の戦いにおいて大敗し、三国は頼朝や甲斐源氏の勢力圏となった。

頼朝が鎌倉幕府を開府すると三国の所領も恩賞として御家人に安堵された。伊豆は北条氏が守護となったが、治承・寿永の乱においては特に甲斐源氏の功績が大きく、駿河は武田信義、遠江は安田義定が守護となったが、頼朝は甲斐源氏の粛清を行い、三国は北条氏の影響下に置かれた。『曽我物語』に拠れば建久4年(1193年)5月15日には富士の巻狩が行われ、5月28日には曽我の敵討が発生する。

鎌倉幕府において源氏将軍が途絶すると北条氏は執権として幕政を主導する執権政治を開始し、三国は北条氏の所領における中心となる。承久3年の承久の乱において三国の武士は幕府勢の主力である東海道軍に加わり活躍し、乱の平定後に三国の御家人は西国にも恩賞を獲得し、勢力を拡大した。

頼朝や北条氏は寺社を振興し、三国においても頼朝の信仰した伊豆山神社や北条氏の氏寺である願成就院など幕府にゆかりのある寺院が分布している。三国においては天台宗・真言宗の旧仏教の影響が強かったが、鎌倉新仏教においても臨済宗の高僧である円爾(聖一国師)や南浦紹明(大応国師)は駿河の出身で三国でも臨済寺院が分布しており、日蓮宗の宗祖である日蓮は伊豆において布教を行っており、日蓮が甲斐国南部の身延(身延町)に草庵を構え信仰の拠点となると駿河・伊豆においても門徒が拡大し、日興大石寺(富士宮市)・北山本門寺(富士市)など岳南地方において日蓮宗の拠点寺院を建立した。

南北朝時代に入ると、今川氏守護大名として駿河国府中(駿府)に入った。14世紀後半に入ると今川氏は遠江国の守護職も兼ねて勢力を伸長する。

戦国期には今川氏親は伊勢宗瑞(北条早雲)らの力によって一族の抗争を終わらせ、戦国大名への道を歩んだ。また、応仁の乱の後に、散逸した貴族達が多く逗留した。一方の北条早雲は、伊豆国の堀越公方を攻め滅ぼし、それを足がかりに関東の支配へ乗り出す。

駿府は今川領国の中心として繁栄し、今川義元は相模国の後北条氏との争い(河東の乱)を収束させると、甲斐の武田氏、相模後北条氏と三国同盟を形成し駿河国、遠江国、三河国の3国を支配した。永禄3年(1560年)、尾張国織田信長との桶狭間の戦いにおいて当主義元が敗死し今川氏真に当主交代すると三河においては松平元康(徳川家康)が独立するなど今川領国は動揺する。外交関係においても武田氏と手切となり、永禄11年(1568年)に武田信玄と徳川家康が協調して今川領国へ侵攻し、今川氏は相模後北条氏の支援を得るが領国は崩壊した。

その後は武田信玄と徳川家康は今川領国の割譲を巡り対立し、さらに徳川氏と協調し武田氏に敵対する後北条氏や越後上杉氏、徳川氏と同盟関係にありつつ武田氏とも友好的関係を持ち将軍義昭を擁する尾張の織田信長など旧今川領国を巡る情勢は複雑に推移するが、元亀年間に武田氏は駿河を確保すると、後北条氏との同盟も回復する。その後、武田氏は矛先を遠江・三河方面に向け家康や信長と対決し畿内情勢にも影響を及ぼしたが(西上作戦)、元亀4年には信玄が死去し事態はいったん収束する。

信玄の死後、信長は畿内において政権を確立し家康も岡崎から浜松に拠を移し勢力を回復し、武田氏では勝頼に当主交代すると再侵攻を繰り返すが、天正3年の三河において織田・徳川勢が武田勢に致命的打撃を与えた長篠の戦いと、天正9年の高天神城陥落を契機に駿遠二国における武田氏の勢力は後退し、天正10年(1582年)に武田氏は織田・徳川勢により滅ぼされた。

同年、本能寺の変において信長が横死し旧武田領国が空域化すると家康は本国の三河・遠江のみならず武田遺領である甲斐・信濃国・駿河を確保し(天正壬午の乱)、5国を支配し東国における一大勢力に成長した。


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近世

駿府城

臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと、1590年には家康は駿府から江戸に移され、代わって駿府には中村一氏が入り、遠江国には掛川に山内一豊堀尾吉晴が入り、それぞれ織田家の家臣が入った。

1603年、徳川家康が江戸幕府を開くと後継者の徳川秀忠将軍職を譲り、家康は駿府において大御所政治を敷いた。江戸時代の伊豆国、駿河国、遠江国の3国(以下「豆駿遠三国」と略称)には、幕府直轄領や譜代大名の藩領、旗本領が入り組んでおり、伊豆国には韮山の代官江川太郎左衛門、駿河国には沼津藩の水野出羽守、田中藩の本田紀伊守、小島藩の瀧脇丹後守、遠江国には相良藩の田沼玄蕃頭、横須賀藩の西尾主計頭、浜松藩の井上河内守、掛川藩の太田惣次郎、堀江藩の大澤右京太夫といった具合に領主支配は複雑に変遷している。

近世には江戸日本橋から京都に至る東海道宿場が整備されるが、豆駿遠三国には53の宿場のうち22宿が存在し、各地に宿場町が成立した。東海道は西国諸大名の参勤交代朝鮮通信使琉球使節も通行し、新居関所(今切関所)は箱根関所と並ぶ重要な関所として知られ、大井川では川越制度が整えられ、大井川徒歩が行われた。


新居関所


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近世には新田開発が行われ米麦や畑作物の生産が増大したほか、椎茸山葵などの特産物の生産も行われる。また、伊豆や駿河では金銀山での採掘が行われたほか、豆駿遠三国では林業が行われ幕府の御林も設置されていた。

近世後期には天命の大飢饉天保の大飢饉などに際して豆駿遠三国でも凶作や飢饉の被害を受け、強訴や打ちこわし、百姓一揆が発生しており、明和元年(1764年)の駿河小島藩の惣百姓一揆、天明3年(1783年)の駿河御厨一揆、天明6年の遠江笠井・二俣騒動、文化13年の蓑着騒動などが発生している。
文化面では国学を創始した確立した荷田春満の弟子に浜松諏訪神社大祝杉浦国頭がおり、国頭は江戸において春満に学び、春満の姪を妻に迎え浜松で私塾を開き多くの門弟を育てた。そのなかには伊庭村の賀茂明神神職の賀茂真淵がおり、真淵は春満に国学の学問的手法を確立し、地元出身者を含む多くの門弟を育て、豆駿遠三国では春満・真淵との関わりから遠州国学が発達する。

韮山反射炉
幕末には嘉永6年(1853年)にアメリカ艦隊司令長官ペリーが日本との通商を求めて来航し、翌嘉永7年1月には下田・函館両港が開港する。下田にはアメリカ領事タウンゼント・ハリスが駐在し、安政5年に日米修好通商条約が締結されるまで、玉泉寺はアメリカ総領事館として機能した。また、嘉永6年にはロシアのプチャーチン艦隊も日本との通商を求めて来航し、同年11月1日には下田において幕府側全権と交渉を行っている。嘉永7年11月4日には安政東海地震が発生しプチャーチン艦隊のディアナ号は沈没し、日本側では韮山代官江川英龍が主導し、戸田港において代船ヘダ号の造船を行っている。

近代

江戸幕府が倒されて明治維新が起こると、1868年5月には、駿河国の天領沼津藩田中藩小島藩・交代寄合の榊原家の久能陣屋、諸旗本領、遠江国の相良藩横須賀藩掛川藩浜松藩・交代寄合の近藤家の気賀陣屋、諸旗本領が合併されて、静岡藩(70万石)が設置され、徳川将軍家徳川家達が入った。同年6月、伊豆国(旧韮山代官領)の地域に韮山県が成立した。同年9月、旧堀江陣屋(5600石、申告1万6石。今の浜松市舘山寺地区)が堀江藩に昇格した。そして、1869年には、駿府は静岡に改名された。

1871年8月29日廃藩置県では、静岡藩は静岡県に置き換わり、堀江藩が堀江県に置き換わった。同年12月31日には、当時の静岡県は分割され、駿河国部分が静岡県となり、遠江国部分は浜松県となった。堀江県は浜松県に編入された。韮山県は、荻野山中県や小田原県と合併して、足柄県となった。
しかし、1876年(明治9年)4月18日には足柄県が分割され、相模国部分は神奈川県に編入され、伊豆国部分は静岡県に編入された。そして、同年8月21日になると、浜松県が廃止されて静岡県に編入された。1878年(明治11年)には、伊豆諸島東京府(現在の東京都)に編入された。

このように、伊豆国、駿河国、遠江国の3国が、1876年(明治9年)に行われた県の合併によって、現在の静岡県となった。

転載元: 環境・歴史・観光・防災・家族を想う、さすらいカメラマン

[転載]登呂遺跡の名はトロイヤ人の居住記録

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『猶本光サポーターズサイト』http://hikaru-naomoto.net/

☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪

《登呂遺跡の名はトロイヤ人の居住記録》

加治木義博
大学院講義録35:10

 その伊豆半島の西の対岸にある
 静岡市の、
 JR静岡駅の南2キロほどの一帯に
 弥生時代の広大な特別史跡・
 登呂遺跡(約160平方キロ)がある。

 その地名は
 トロイ戦争という名で知られてきた
 ギリシャ史に名高い国名と
 同じ地名なのである。

 トロイというのは英語読みの略称で、
 正しくはトロイヤだったのであり、
 語尾のイヤはギリシャ語の
 「国・地域」という名詞だから、
 本来の国名は「トロ」だからである。

 取手市だけがギリシャ人の遺跡ではない。

 その登呂遺跡の東北に隣接して
 清水市の草薙がある。

 ここは
 倭建命の革薙の剣伝承で
 有名な地名である。

 倭建命の物語は
 トロイ戦争最大のヒーロー=
 アキレウスの物語と
 多くの共通点をもっているから、
 ここへ
 ギリシャ系の海人が住んだことは
 間違いない。

 そして
 彼等は倭建命の伝承通りに
 房総半島を北上している。

 『日本書紀』は
 日本武尊=倭建命が
 相模から上総へ行こうと船出して
 「馳(はし)り水」という海域で
 暴風に遭い、
 后の弟橘姫が投身して暴風を鎮め、
 命たちを救ったという一節がある。
 
 これらを
 一人の武尊の歴史だとするのは
 無理だが、
 こうした伝承を生んだ
 史実があったことは、
 これらの地名や遺跡の分布からみて、
 間違いなく真実だったと
 認めるしかない。

 『日本書紀』は
 多くの伝承を混合して
 一事跡としている例が少なくないが、

 個々の伝承は
 事実の記録だからである。

 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908

転載元: 歴史徒然:History Tsuredure


[転載]甲斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

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甲斐国


甲斐国別称所属相当領域諸元国力距離数国内主要施設甲斐国府甲斐国分寺甲斐国分尼寺一宮
地図 令制国 甲斐国.svg
-甲斐国
-東海道
甲州(こうしゅう)
東海道
山梨県
上国
中国
4郡31郷
(推定)山梨県笛吹市内の3ヶ所
山梨県笛吹市(甲斐国分寺跡
山梨県笛吹市(甲斐国分尼寺跡
浅間神社(山梨県笛吹市)
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甲斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

「甲斐」の名称と由来

甲斐銚子塚古墳
甲斐銚子塚古墳
酒折宮
酒折宮
7世紀に成立した。律令制下では東海道に属し、駿河国から甲斐国に通じる支線があった。国名の語源は不明であるが、本居宣長は『古事記伝』において、甲斐国出身の門弟で後に甲斐地誌『甲斐名勝志』を著している萩原元克の説に従い、山の峡(カヒ=間)、つまり山々間に由来するという説をあげている。
近代には橋本進吉が『上代特殊仮名遣』において峡説を否定したことから新たな解釈が求められ、近年は平川南が古代甲斐国が官道である東海道と東山道の連結的に位置することから、行政・交通上の「交ひ」であったことに由来するという新説を提唱している[1]

歴史

日本列島における東西の政権にとって最前線と位置付けられることが多い。考古学的には4世紀後半に甲府盆地南縁に東海地方経由で畿内色の影響を受けた甲斐銚子塚古墳を代表とする大型古墳が立地しており、中央のヤマト王権の東国における進出拠点になっている。古代には支配の中心地が盆地東部の東郡地域へ移る。神護景雲2年(762年)に全国から9人の善行の人が選ばれ孝養を受賞理由にして税を免ぜられた者の中に八代郡小谷直五百依の名が見られる。平安時代には出土文字資料にも甲斐国名が出現し、甲府市横根町の大坪遺跡では「甲斐国山梨郡表門」、南アルプス市百々(旧中巨摩郡白根町)の百々遺跡では「甲斐」の墨書土器が出土している。 平安後期には甲斐源氏が盆地各地へ進出する。中世には京都と関東(鎌倉)の中間に位置することからそれぞれの防衛拠点として位置付けられた。

室町時代には鎌倉府の影響下にあったが、上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏が没落し、争乱状態となる。戦国時代には武田氏が国人勢力を征圧して戦国大名化し、信虎晴信(信玄)・勝頼の三代期には拡大領国における本国となり、信虎期に開創された甲府が城下町として整備され、政治的・経済的中心地となる。
織田・徳川勢力による武田氏滅亡後は領主変遷が激しく、織田信長の家臣河尻秀隆らによる一時的な統治、信長が横死した本能寺の変後の政治的空白では徳川氏北条氏が武田遺領を巡り天正壬午の乱が発生する。豊臣政権時代には関東8か国を領した徳川家康に備えた最前線となり、羽柴加藤浅野氏など豊臣系大名が配置された。

江戸時代には東海道中山道とともに甲州街道が整備された。そして甲斐は江戸幕府の政治的・経済的中心地である江戸防衛の戦略正面と位置付けられ、甲府藩が成立し徳川一族や譜代大名による統治が行われた。享保年間には幕府直轄領化され甲府町方は甲府勤番による支配、在方は三分代官支配となり、幕末に至った。

近世以降の沿革

国内の施設

[表示]全ての座標を示した地図 - OSM

国府

後期国府推定地に建つ石碑と道祖神
(笛吹市御坂町国衙、位置

甲斐国の国府は、『和名類聚抄』には「国衙在八代郡(やつしろ)」とあり、同書の成立した平安時代の後期国府は笛吹市御坂町国衙付近に比定されている。『拾芥抄』では「山代郡(やましろ:八代郡のこと)、府」と記載がある。
一方、山梨郡域にあたる笛吹市春日居町国府(こう、旧東八代郡岡部村)には古代寺院の寺本廃寺があり、付近には正東西南北の条理制地割が認められることなどから初期国府の所在地であったと考えられている。そして江戸時代の萩原元克『甲斐名勝志』以来、笛吹市春日居町国府から御坂町国衙へ移転する二転説が提唱されており、1967年には木下良が方六町の国府域を想定している。
初期国府から後期国府への移転はおおむね支持されているが、国府は国分二寺と同じ郡域に設置される例が多いことから、広瀬広一上野晴朗らの提唱した甲斐国分寺国分尼寺のある笛吹市一宮町国分・東原付近を中間国府に設定する三転説がある。
しかしながら、考古学的には現在に至るまで確証のある官衙施設の発掘には至っておらず、坂本美夫は春日居町初期国府を山梨郡家である可能性を指摘している。

国分寺・国分尼寺

国の史跡。南西に後継の護国山国分寺(笛吹市一宮町国分、位置)が所在。
国の史跡。後継はない。

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神社

笛吹市の浅間神社
延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社1座1社・小19座19社の計20座20社が記載されている(甲斐国の式内社一覧参照)。大社1社は以下に示すもので、名神大社である。
総社一宮以下

守護所

未詳だが、鎌倉末期以降は石和にあったと推定される。現在の甲府市が甲斐の政治的中心になったのは、永正16年(1519年)に武田信虎躑躅ヶ崎館を建造してからである。

地域

甲府盆地の国中地方
東部の郡内地方
管郷は『和名抄』によれば山梨郡に10郷、八代郡に5郷、巨摩郡に9郷の計31郷が存在したという。
東国において国郡制の整備は大化の改新の孝徳朝から7世紀後半代までに行われたと考えられている。甲斐国では甲斐国造が唯一の国造として知られているが、考古学的には6世紀後半代に加牟那塚古墳を盟主とする盆地北西部勢力と姥塚古墳を盟主とする盆地東部の八代勢力が対峙し、7世紀代には新興勢力として盆地北縁に春日居古墳群を築き寺本廃寺などを築いた勢力が出現し、三者の分布する地域がそれぞれ巨麻郡、八代郡、山梨郡に相当することから、古代甲斐では国造に次ぐ有力豪族が立評に携わっていたと考えられている。
国衙所在地である山梨・八代両郡は古代甲斐国における政治的中心地で、巨摩郡は渡来人勢力が携わった立郡事情が想定されている。都留郡は東部を武蔵国相模国と接し、相武国造の支配領域であったが7世紀に甲斐国が東海道に再編され、官道が整備される都留郡は甲斐へ編入されたと考えられている。都留郡は武蔵・相模と国境争論があり郡域の変動が考えられており、信濃国と接する巨麻郡も郡域の変動が考えられている。

人物

国司

奈良時代

奈良時代の甲斐国司は13名が確認され、『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の田辺史広足に関する記事を初見とする。以下、国司不明期間を含み断続的に甲斐国司に関する記事が散見され、天平宝字5年10月1日に任官した山口忌沙弥麻呂以降は最後の橘朝臣安麻呂まで連続的に国司名が確認されている[2]
  • 田辺史広足(天平3年12月21日補任(以下補任日、『続日本紀』)
甲斐国司に関する初見史料は『続日本紀』天平3年(731年)12月21日条の瑞祥記事で、同年2月に甲斐国の黒色で髪と尾の白い神馬が出現し、国司である田辺史広足(たなべのふひとひろたり)がこれを朝廷に貢献し、朝廷では神馬出現の瑞祥により詔を発し、全国的な大赦や販給を行ったという[3]。国司の田辺や馬を捕獲した者への位三進、甲斐国の当年の庸や神馬が出現した郡の調免除、馬を捕獲した者や国司・史生への褒賞が行われたという。『続日本紀』では正六位上より官位の低いものの事蹟が記録されておらず、前任者の存在は不詳。
甲斐守への任官時期は不明であるが、広足は天平3年正月27日に正六位上から外従五位下に加階されており、同年12月には神馬貢献が行われていることから、甲斐守任官は同年5月から11月前後のことあると考えられている[4]。甲斐国では古代に三御牧が設置され朝廷への貢馬が行われており、黒毛の馬は甲斐の黒駒伝承に基づくものであると考えられることから、甲斐で出現した「神馬は野生馬ではなく牧で産出された黒毛馬で、牧を管轄する在地国司が新任の広足に黒毛馬を貢進し広足の政治的意志で朝廷に貢献された、また広足の甲斐守任官も甲斐の馬匹生産を期待した政治的意志が存在していたと考えられている[5]
田辺史氏は馬匹生産に関わる河内国安宿郡資母郷(

転載元: 環境・歴史・観光・防災・家族を想う、さすらいカメラマン

[転載]明治40年の大水害は、1907年(明治40年)に山梨県で発生した水害である。

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明治40年(1907年)現在の山梨県甲州市石和町をはじめ山梨県下を襲った大水害、当時知事だった武田千代三郎氏の追想記。

長田組土木株式会社発行
丸山太一・熊谷喜孝編集
平成十三年三月十日発行非売品
「明治四十年大水害実記-武田千代三郎知事の追想記-」
御賜林 御下賜90周年記念として発行

現代語訳されたp50~p70を読ませていただきました。

p50までは、武田千代三郎知事の漢文による原文、丸山太一氏による書き下し文が記載されています。

2018年、今年も日本各地で大水害が起きました。
被害に遭われた方へこころよりお見舞い申し上げます。
偶然手にとった冊子があまりにも感動的だったので、つっかえつっかえ下手な朗読ですが、読ませていただきました。
山梨県内の図書館で借りることができますので、ご興味のある方はどうぞ読んでみてください。
南アルプス市の図書館では、610425076番で借りることができます。


明治40年の大水害


明治40年の大水害により被災した甲府市緑町(現、甲府市若松町)の惨状。
明治40年の大水害は、1907年(明治40年)に山梨県で発生した水害である。


山梨県における治山・治水

山梨県では甲府盆地の東西に笛吹川釜無川の二大河川が南流し、盆地南部で合流して富士川となる。この三河川やそれに合流する支流河川により古来から水害の多発していた地域で、中世後期から近世初頭には信玄堤甲斐市竜王)や南アルプス市御勅使川治水、笛吹川では万力堤近津堤に代表される大規模な治水工事が継続されていた。
洪水は大雨などの気象条件以外に山林の荒廃などによる社会的条件によっても発生しやすくなるが、山間部である山梨県では林業などの山稼ぎや肥料燃料となる草木採取が盛んで、江戸時代には山林は共同利用地である小物成地(入会地)として入会慣行により管理されていた。一方、江戸後期には甲斐国では養蚕が普及し、笛吹川とその支流が流れる盆地東部の峡東地方では煮繭用の木材需要が高まった。


明治40年水害の発生と被害状況

明治初年から明治20年代に水害が多発した山梨県である、明治20年代から明治30年代にも引き続き大水害が多発し、特に1889年(明治22年)、1892年(明治25年)、1896年(明治29年)、1898年(明治31年)の水害などは多大な被害を及ぼした[13]
明治40年の大水害は、1907年(明治40年)8月21日夜半から8月26日にかけた台風の影響による記録的大雨に発生した。水害の様子は、同年8月23日から10月10日まで被災地を視察した警察官・望月嘉三郎の巡視日記である『明治四十年八月山梨県下水害地巡視日記』(以下『巡視日記』、原本は山梨県立博物館所蔵「古文書雑輯」、全文が『山梨県史資料編14 近現代1政治行政Ⅰ』に収録)に詳述されている。
『巡視日記』によれば山梨県では8月22日から8月28日まで大雨が降り続けたという。降水量は甲府で315.4mm、大月で728mm、山中湖で643mm、南部で469,2mm、鰍沢で305mm[14]。この大雨により河川は乱流し、土砂崩れや堤防の決壊、橋脚の破壊などを引き起こし、家屋の全半壊や集落の孤立、耕地の流出や埋没、交通の寸断など甲府盆地東部の峡東地方中心に多大な被害を出した[15]。死者は233人、流出家屋5757戸、埋没や流出した宅地や田地650ヘクタール、山崩れ3353箇所、堤防の決壊・破損距離約140キロメートル、道路の流出や埋没、破損距離約500キロメートル、倒壊した電柱393箇所とされる[16]。山梨県の近代における最大規模の自然災害となった。また、1910年(明治43年)にも大規模な水害が発生している。
『巡視日記』被災地や避難所の様子のほか行政の救援・医療体制、水害要因の考察などが記されている[17]。『巡視日記』では東山梨郡神金村(甲州市塩山)における山体崩壊や、東山梨郡加納岩村(山梨市)における村落間の暴動など水害を巡る状況を記しており、重川流域における被害に関しては鉄道による石材の輸出で山林が荒廃し、山体崩壊を招いたとする地元住民の見解を記している[18]。また、東山梨郡一宮村(笛吹市一宮町)では明治維新後に古来からの堤防が破壊されたことが水害を及ぼしたとする住民の意識を記している[19]。さらに、『巡視日記』では竹林の重要性なども考察している[20]
『巡視日記』は県長官が災害時においても教育を重視して訓示を行っていることや、御真影を避難させた逸話など、同時代の社会状況を示す史料としても注目されている。
明治40年の大水害は郡内地方においても大きな被害を出し、作家・山本周五郎は幼少期に北都留郡初狩村(大月市初狩町下初狩)に居住しており、一家は被災して一家は東京府北豊島郡王子町豊島(東京都北区豊島)に転居している[21]

転載元: 環境・歴史・観光・防災・家族を想う、さすらいカメラマン

[転載]山梨県立博物館”かいじあむ”は「山梨の自然と人」をメインテーマとした博物館です。山梨に暮らす皆さん、そして山梨を訪れる皆様にぜひご利用頂きたい気持ちを動画に込めました。鑑賞するだけでなく、様々な体験を

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山梨県立博物館”かいじあむ”は「山梨の自然と人」をメインテーマとした博物館です。山梨に暮らす皆さん、そして山梨を訪れる皆様にぜひご利用頂きたい気持ちを動画に込めました。鑑賞するだけでなく、様々な体験を通じて、より深く「やまなし」を知ることができる”かいじあむ”にぜひお出かけください。

山梨県立博物館公式サイトはこちら→http://www.museum.pref.yamanashi.jp/
山梨県立博物館公式FBもあります→https://www.facebook.com/kaiseum.ypm

英語版(English Ver.)PR動画→https://www.youtube.com/watch?v=lcFT-...
中国語版(中國版)PR動画→https://www.youtube.com/watch?v=ha2aZ...


山梨県立博物館


Japanese Map symbol (Museum) w.svg山梨県立博物館
Yamanashi Prefectural Museum
施設情報愛称専門分野館長管理運営延床面積開館所在地
Yamanashi Prefectural Museum.jpg
山梨県立博物館の位置(山梨県内)
山梨県立博物館
山梨県内の位置
かいじあむ
山梨県に関する自然展示、歴史展示
守屋正彦
山梨県
8,760m2
2005年10月15日
406-0801
山梨県笛吹市御坂町成田1501-1
プロジェクト:GLAM
山梨県立博物館(やまなしけんりつはくぶつかん)は、山梨県笛吹市御坂町成田にある総合博物館である。2005年平成17年)10月15日に開館した。愛称は甲斐とミュージアムをかけた「かいじあむ」。2018年現在、館長は守屋正彦である。前館長の平川南は名誉館長に就任した。
基本テーマは「山梨の自然と人」であり、自然系展示と歴史系展示を分けずに展示や資料の収集、調査研究活動、社会教育活動を行っている。常設展示は原始時代から現代という時系列に沿った展示であるが、観覧順序は自由導線であり、「水に取り組む」「信仰の足跡」といったテーマを設定した展示になっている。

調査・研究活動

  • 富士山と人々の歴史」平成17年度 - 継続
富士山をめぐる自然と人の関わりを総合的に解き明かすことを目的とした研究。「富士山の災害史と古環境」を研究テーマに各分野からの研究活動を行っている。
  • 楯無鎧の謎を探る」平成15-17年度
甲州市塩山上於曽の菅田天神社所蔵の国宝「小桜韋威鎧兜・大袖付」(楯無鎧)のレプリカ製作に際して、同鎧各部の甲冑史的な検討や、伝来経緯・意義に関する文献史学的な考察を展開。報告書においては実測データなどを掲載。
  • 古代の交易と道」平成18-平成19年度
古代甲斐国の交通・交易の様相に関して考古学・文献史学の両面から検討を行う。古代甲斐国における交通路の確定や、『山梨県史』において指摘された古代甲斐国が東山道東海道の結節点にあたるとする平川南の指摘を受け各種論考が提言される。また、報告書では古代甲斐国の交通・交易に関する史料を集成している。
  • 歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭」平成19年度
天保12年(1841年)に甲斐を訪れ甲府道祖神祭りの幕絵製作を行った歌川広重が甲州旅行を記録した『甲州日記』に関する共同研究。報告書において『甲州日記』の全文・スケッチの翻刻と考察を含んだ注釈・現代語訳を掲載しているほか、広重の画業や広重の歩いた道中ルートの検証、甲府道祖神祭礼に関する論考を展開しているほか、広重の甲州関係作品や甲府道祖神祭関係資料、『甲州日記』に関係する各種データを集成している。
  • 甲斐の治水・利水と景観の変化」平成19-平成21年度
信玄堤に代表される甲府盆地の治水に関して、河川の流路変遷や耕地開発による景観の変化を検討する共同研究。収蔵する信玄堤絵図・村絵図類や検地帳の分析により調査データを作成し、堤防の形態的変遷や耕地の開発状況について検討した。また、治水技術の変遷や水害による村の移転、井堰の開発状況などについて考察を展開しており、報告書では調査データも掲載。
  • 甲斐金山における金製錬技術に関する自然科学的研究」平成20年度 - 平成23年度
甲斐金山から産出された金について科学的手法により技術的側面を検討する研究。黒川金山勝沼氏館跡から出土した熔融物付着土器のX線調査などを実施。
  • 博徒の活動と近世甲斐国における社会経済の特質」平成21年度 - 平成24年度
甲斐国において活動した甲州博徒の活動を通じて社会経済・文化の特質を解明することを目的とする研究。報告書では甲州博徒に関する史料を集成し、三井卯吉国分三蔵黒駒勝蔵に関する新出史料を見出した。平成25年には企画展「黒駒勝蔵対清水次郎長」を開催し成果を一般に紹介。
  • 河口集落の歴史民俗的研究
  • 日韓内陸地域における雑穀農耕の起源に関する科学的研究
  • 甲斐の治水・利水技術と環境の変化
ほか、学芸員・職員が個別のテーマ研究を展開している。

常設展示

導入展示

  • 山梨の舞台 - 山梨県内全域の衛星写真を模式的に立体化した模型が置かれている。山梨が高峻な山々に囲まれつつも、他地域と結ばれていたことを示す展示。

鑑賞・学習型展示

常設展示は「山梨の風土とくらし」「甲斐を往き交う群像」「共生する社会」の三部構成。
「山梨の風土とくらし」において、「山に生きる」「里に暮らす」「城下町の賑わい」ではジオラマ展示が行われており、古文書や絵図資料、考古資料や民俗資料、聞き取り調査などに基づいて建物の模型や小道具、デフォルメされた人形が作成され配置されている。
「山に生きる」では、黒川金山での粉成の様子や「佐野山小屋見取図」に基づいた山中のそま小屋の様子、『甲斐叢記』に基づいた市川大門の紙漉小屋の様子、奈良田の焼畑農耕の様子などが再現されている。「里に暮らす」では近世のムラの営みと歳時記をテーマに、東部地域の養蚕民家がジオラマで再現されており、ノラのジオラマでは畑や水車小屋などが再現された情景模型で、米麦二毛作や綿花、煙草、果樹、里芋栽培など甲斐国の諸産業や四季の移ろいが表現されている。
「城下町の賑わい」では甲府城下町のジオラマが三台配置されている。甲府八日町(甲府市中央五丁目)札の辻にあった高札場のジオラマは『裏見寒話』や『甲府買物独案内』所載の「甲府繁栄之図」に基き城下町の入り口である高札場の番所木戸、火の見櫓などが再現されており、同じく八日町にあった菓子商である升屋・若松屋前のジオラマでは、『甲斐廻手振』『甲府八日町初売之景』に基いて初売りの様子が再現され、初荷が積み上げられ人々が押し掛ける正月の様子が再現されている。柳町三丁目(甲府市若松町)の甲府道祖神祭りのジオラマでは、軒先に飾られた幕絵や辻に立てられたオヤマなど道祖神飾りが再現され、道祖神祭りの様子が復元されている。また、各ジオラマには甲府城下町の地下を流れていた甲府上水も再現されている。
  • 山梨の風土とくらし - 原始から現代に至る山梨の自然と人との関わりに関する展示。
    • 自然の森の中で
    • 甲斐の誕生
    • 甲斐の黒駒
    • 水に取り組む
    • 戦国からのメッセージ
    • 山に生きる
    • 里に暮らす
    • 城下町の賑わい
    • 変貌する景観
  • 甲斐を往き交う群像 - 山梨が閉じられた山国ではなく周囲に開かれた地域であったことを、甲斐源氏の活躍や甲州街道による江戸文化の往来など、具体的事象を通じて示す展示。



山梨県立博物館は2005(平成17)年10月15日に開館いたしました。以来、山梨の豊かな自然と人々がどのように向き合ってきたのかという歴史を総合的に調査研究し、その成果を地域振興の重要な指針として提示できる博物館へと成長してきました。博物館が地域振興に果たす役割は一層重要なものとなりつつあります。豊かな文化的生活が望まれる社会にあって、今以上に貢献を果たしていくことが期待されています。
 博物館は古代の甲斐の国の都として栄えた笛吹市に位置しています。庭からは、歌枕で知られた「甲斐の白根」をはじめ、盆地を取り囲む高い山々が眺望できます。このような景観を背景に、諸国に分流した甲斐源氏の故郷であることなどを重ねて考えますと、当地域が歴史・文化を学ぶにふさわしい環境にあると思います。
 社会状況の変化、少子高齢化が進む中で、かつての先人が築き、守り、育んできた山梨の歴史・文化資源は、わが国においても貴重で重要な文化財であります。これを継承するために、博物館は展示や事業活動を通じて、皆様方のご高覧をいただき、「われわれの尊厳や誇り」とは、「自然と人間との調和」とは、「真の豊かさ」とは何かについて、来し方をふり返り、我々の未来を共に考える、よき機会を提供したいと願っています。

転載元: 環境・歴史・観光・防災・家族を想う、さすらいカメラマン

[転載]山梨県

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山梨県

やまなしけん


Lake Kawaguchiko Sakura Mount Fuji 3.JPG
山梨県の旗山梨県章
山梨県旗山梨県章
日本の旗日本
中部地方甲信越地方
19000-4
JP-19
4,465.27km2
(境界未定部分あり)
818,455
推計人口、2018年4月1日)
183人/km2
埼玉県東京都神奈川県長野県静岡県
カエデ
フジザクラ
ウグイス
県の獣:カモシカ
県の歌:山梨県の歌
県民の日:11月20日
後藤斎
8000020190004
400-8501
山梨県甲府市丸の内一丁目6番1号

山梨県庁
山梨県
山梨県の位置
山梨県行政区画図
― 市 / ― 町 / ― 村
日本の都道府県/山梨県
 表示 ウィキプロジェクト
山梨県(やまなしけん)は、本州内陸部に位置する日本の一つ。県庁所在地甲府市令制国甲斐国に相当する。


概要

南に富士山、西に赤石山脈南アルプス)、北に八ヶ岳、東に奥秩父山地など、標高2,000 mを超す山々に囲まれる。島国の日本において、に全く面しない数少ない内陸県である[注 1]。山梨県の面積は全国32位であるが、その8割を山岳地が占めるため可住地面積は全国45位である。

周辺地域とは、往来が比較的容易で交通路も整備されている東京都島嶼部を除く)、神奈川県津久井地区長野県南信地方静岡県大井川以東の三方との交流が、古くから盛んである。又、埼玉県秩父地方との境は奥秩父山塊に隔てられているが、1998年平成10年)の国道140号雁坂トンネル開通により、山岳部の踏破だけでなく自動車やバスでの直接往来が可能となった。

「山梨」の県名は律令制下の甲斐四郡の一つである「山梨郡」に由来し、県名は1871年明治4年)7月の廃藩置県に際して旧甲斐国一国が甲府県を経て「山梨県」に改称された[注 2]。山梨郡は県庁所在である甲府が属している郡域であるが県名の改称理由は不明で、明治新政府による幕藩時代との断絶が意図されていた可能性が考えられている[1]。「山梨郡」は本来は甲斐一国を意味する呼称ではないため、明治時代初期には新県名が浸透せず、政治団体やその機関誌等では県域を指す地域呼称として「峡中」が用いられた[2]。現在では「山梨」が県域全体を指す呼称として定着している。


自然公園


歴史

先史時代

甲斐銚子塚古墳
甲斐銚子塚古墳
金生遺跡の配石遺構
金生遺跡の配石遺構

甲府盆地では釜無川笛吹川氾濫原が広がっている。郡内地方では富士山の火山活動による影響も受け、定住が困難な時代が続いていた。

旧石器時代の遺跡は長野県との八ヶ岳山麓や静岡県の愛鷹山箱根山など隣接する文化圏に属する地域や桂川流域を中心に分布する。最古の一杯窪遺跡(都留市)や立石遺跡(甲府市)をはじめ、八ヶ岳山麓の丘の公園内遺跡群(北杜市)や神津島産の黒曜石が出土した横針前久保遺跡(北杜市)長野県産の黒曜石が発見された天神堂遺跡などが代表的で、周辺地域に比べ密度は低いものの、周辺地域との人的移動を示す資料が発掘されている。

縄文時代草創期から前期には引き続き湧水が利用できる山麓部や富士北麓などに遺跡が分布し、後期旧石器から草創期への移行期にあたる神取遺跡(北杜市)や関東文化圏の影響が見られる池之元遺跡(富士吉田市)が出現する。中期には盆地にも進出し、大規模な集落遺跡である釈迦堂遺跡群(笛吹市、甲州市)や重要文化財に指定されている精巧な土器の出土した一の沢遺跡、豊富な生活遺物が出土している花鳥山遺跡などが出現し、縄文農耕論にも一石を投じた有孔鍔付土器など学史上注目されている遺物も出土している。また、盆地西部の西郡地域は釜無川の氾濫原であり考古遺跡は乏しいが、近年では精巧な土器や土偶が出土した鋳物師屋遺跡が発掘され、注目されている。

後晩期には地球的な寒冷化の影響を受けて遺跡数が減少するものの、石組や配石遺構など祭祀施設であると考えられている八ヶ岳南麓の金生遺跡(北杜市)や牛石遺跡(都留市)などが出現する。また、郡内地方の桂川流域では関東地方との交流が見られる遺物が出土している。

弥生時代には身洗沢遺跡金の尾遺跡などの集落遺跡があり、宮の前遺跡(韮崎市)では水田が確認されている。盆地南西部の曽根丘陵では東海地方経由で弥生文化が流入し、方形周溝墓が見られる上の平遺跡など古墳時代に至る遺跡がある。
古墳時代の4世紀後半には畿内で確立したヤマ
ト王権と政治的接触を持っていたと考えられている。曽根丘陵では4世紀前半の前方後方墳である小平沢古墳をはじめ、4世紀後半には最大規模の甲斐銚子塚古墳岡銚子塚古墳などの有力首長クラスの前方後円墳が出現し、三角縁神獣鏡などの副葬品も出土している。5世紀には中道勢力が衰退し、古墳の造営は盆地各地へ拡散する。

古代

酒折宮

古代には律令制下において甲斐国が成立する。『日本後紀延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐって隣接する相模国との間で争論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立。郡郷は『和名類聚抄』に31郷が記載されている。山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日居町に前期国府が存在し、八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。官道は東海道横走宿から分岐して都留郡を経て、甲府盆地に入り甲斐国府に至る甲斐路が存在していた。四郡のうち甲斐西部の巨摩郡は渡来人の入植により成立した郡であると考えられている。

一方、『古事記』『日本書紀』(記紀)に記される日本神話においてはヤマトタケル(倭建命、日本武尊)の東征において足柄山から甲斐へ入り、酒折宮(甲府市酒折)において老人と歌を交わす説話が残されている。記紀に載る日本神話には両書が成立した奈良時代の歴史認識が反映されているものと考えられているが、考古学的にも甲斐においては古墳後期の4世紀後半代から畿内の影響下にあったとみられ、酒折宮伝承にもヤマト王権と甲斐の在地豪族との関係が反映されているものと考えられている。足柄山から甲斐国へ至ったヤマトタケルの遠征ルートは古代の交通体系を明らかにする上でも注目されている。

大善寺

また、『続日本紀』においては甲斐国司の田辺史広足が黒毛の駿馬を朝廷に献上したという「甲斐の黒駒」に関する説話が記されている。『延喜式』によれば東国では甲斐をはじめ信濃・上野武蔵の四国に御牧が設置され馬産が行われていたことが記されている。駿河国正税帳長屋王家木簡などの出土文字資料からも朝廷への貢馬が確認されている。『延喜式』によれば甲斐には穂坂牧、真衣野牧柏前牧の三御牧が設置されていたという[12]

平安時代には市河荘八代荘などの荘園が成立し、国府所在地である甲府盆地東部では在庁官人である三枝氏が八代荘を勢力基盤とした。『長寛勘文』によれば王保2年(1162年)には三枝氏に打撃を与えた八代荘停廃事件が発生している。
平安時代後期には常陸国から源義清源清光が市河荘に配流された。義清、清光の子孫は甲府盆地の各地へ土着し、後に甲斐源氏となる。


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中世

武田信玄像(高野山持明院本)
武田神社 拝殿(2014年5月8日撮影)

平安時代後期の治承4年(1180年)、以仁王令旨が諸国の源氏に下されると甲斐源氏の一族も平氏政権に対して挙兵する。甲斐源氏の一族は伊豆国源頼朝の挙兵と協調し、富士川の戦いなど治承・寿永の乱において活躍する。乱後、甲斐源氏の棟梁となった武田氏甲斐国守護となるが、甲斐源氏の一族は源頼朝の粛清を受け、衰退する。武田氏は中世には必ずしも甲斐守護を歴任していない。鎌倉幕府滅亡後に北条時行ら北条氏の残党が起こした中先代の乱までは北条方に属し、南北朝時代には建武政権から離反した足利尊氏に従った。

室町時代には、室町幕府鎌倉府の対立や、鎌倉府における鎌倉公方関東管領の対立など関東地方の騒乱の影響を受ける。応永23年(1416年)、鎌倉公方の足利持氏に対し、前関東管領の上杉禅秀が挙兵した上杉禅秀の乱では、甲斐守護・武田信満が禅秀方に加担し、滅亡する。これにより甲斐は守護不在状態となり、足利持氏は甲斐国人逸見有直を支持して室町幕府に対抗した。一方、室町幕府は武田信元、続いて武田信重を甲斐守護に任じ、守護代として跡部氏を派遣した。以後、甲斐では守護武田氏と有力国人や跡部氏との抗争が続く。

転載元: 環境・歴史・観光・防災・家族を想う、さすらいカメラマン

[転載]花蝶文そば猪口 (切込焼)

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 花蝶文そば猪口 (切込焼)

  大変珍しい切込焼(きりごめやき)の染付、花蝶文そば猪口です。
  切込焼は江戸末期に陸奥国の宮崎村切込(現在の宮城県加美郡加美町宮崎切込地区)で生産
  されていた磁器です。
  天保初期に民窯として創業され、安政年間には東北の雄・伊達家仙台藩の藩窯となりますが、
  幕末から明治へと時代が変わる混乱期に衰退し、明治12年には廃窯しています。
  切込焼は仙台藩窯でありながら、独特な形状で有名な「らっきょう形徳利」を除けば、その生産品
  の全容がほとんど知られておらず、それゆえ「幻の切込焼」とも称されています。
 
 
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  切込焼 染付 ・ 花蝶文そば猪口
  製作年代:江戸末期 / 寸法(mm):口径82×高さ65×高台径(外)57(内)46
 
  かつて骨董市場において、古伊万里などの肥前系や瀬戸・美濃系でもない正体不明のそば猪口は、
  そのほとんどが切込焼であろうとされていたのですが、現在改めてそれら多くの「伝・切込焼のそば
  猪口」を見直してみると、会津本郷焼や砥部焼、出石焼などである可能性が高く、少なくとも切込焼
  である可能性はほぼゼロであるというのが私個人の実感です。
  これについては、そば猪口研究の先達である小川啓司さんが、昭和49年(1974年)に上梓された
  『そば猪口絵柄事典』(光芸出版)において、「切込焼のそば猪口は、各地にどんどん販売されたと
  は考えられない。意外に生産量は少なかったと見るのが至当ではないか。」と記しておられます。
  また過去に二度実施された切込焼窯跡の発掘調査においても、そば猪口らしき破片などの資料は
  全く出土しなかったそうで、そうした事象から総合的に判断すれば、切込ではそば猪口はほとんど
  作られなかったと考えるのが現実的のようです。
 
  そうした中、今回の花蝶文そば猪口は切込焼のそば猪口と断定されている数少ない作例です。
  おそらく肥前磁器のそば猪口を手本に、牡丹の花と蝶を描いているものと思われますが、呉須調や
  釉調、絵付けなどを見る限り、本歌伊万里の品質とはかなりの開きがあるように感じられます。
 
 
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  口縁には口錆が塗られており、見込みには「壽」の文字が書かれています。
  ピンホールの部分から赤く発色しています。いわゆる「御本(ごほん)」ですね。
  先日、「切込焼に御本はない。」という説をあるところで読んだのですが、このそば猪口にはあちこち
  御本が出ており、「いやいや、ありますよ 」というのが私の見解です。
 
 
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  高台は肥前磁器に倣い、蛇の目凹形高台の仕様となっています。
  しかし底の内側へ折り返すように成形・施釉された幅広の高台の造りは、他所では全く見られない
  ものであり、切込焼そば猪口の大きな特徴であると思います。
 
 
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  口縁内側には「渦巻の連続文」が描かれており、切込焼ではよく見られる文様です。
  そして切込独自といっても良い、特徴的な折り返しのある幅広の高台。。。
 
  この2点は切込焼鑑定の大きな特徴・ポイントではあるのですが・・・
  これが全ての切込焼に当てはまる特徴とまでは言えないというのが現実なんですね。
  かなり特徴的なポイントのひとつであるのは間違いないのですが・・・
  まだまだ謎が多い切込焼であります。。。
 
  切込焼に関して何回かブログに書いています。  お時間が許せばご高覧ください。


転載元: すきずき~やきもの好きの雑感あれこれ~

[転載]池の中に五重塔が

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         鯉の写真を撮ろうとカメラを向けると小さな池の湖面に
         すっぽりとはまり込んだ五重塔が映し出されていました。

         
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-cb-2d/inokasira2000/folder/1524006/08/24778308/img_0?20061209140559

転載元: ENJOY LIFE

[転載]鶴林寺(聖徳太子御創立)

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       お天気の良い日を見て鶴林寺までサイクリングしてきました。
       中にはちらほらしか人はいませんでしたが、
       近くの老人大学生が研修に来たり、スケッチしている人もいました。


       鶴林寺には国宝や重要文化財などが一杯ありました。

     本堂 〔1937年〕国宝 
     
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-cb-2d/inokasira2000/folder/1495670/17/24501617/img_0?20070430210128

     
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-cb-2d/inokasira2000/folder/1495670/17/24501617/img_1?20070430210128


     太子堂〔1112年] 国宝
     宝珠を頂いた桧皮葺のゆうびな兵庫県さいこの建築
     
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-cb-2d/inokasira2000/folder/1495670/17/24501617/img_2?20070430210128


     鐘楼 [1407年] 重要文化財
     袴腰造り
     
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-cb-2d/inokasira2000/folder/1495670/17/24501617/img_3?20070430210128

     薬師三尊 [平安時代]
     
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-cb-2d/inokasira2000/folder/1495670/17/24501617/img_4?20070430210128


    ウインクしている像
    トリビアの泉でウインクしている像として紹介されたそうです。
     
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-cb-2d/inokasira2000/folder/1495670/17/24501617/img_5?20070430210128


    すぐ近くの公園には
    機関車C11が有りました。これは昭和47年まで現役でした。
    
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-cb-2d/inokasira2000/folder/1495670/17/24501617/img_6?20070430210128

転載元: ENJOY LIFE


[転載]蘇鉄の雄花と雌花(ハワイ島にて)

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       ハワイ島に行ったとき蘇鉄の花を見ました。
       始めて見たうえ雄花と雌花を1度に見ることが出来感激でした。
       雌花は20cmくらいの大輪の花でした。

       ついでにハワイ島らしい景色も
       遠くにマウナケアが見える海辺
       キラウエア火山火口〔巨大で溶岩の上を歩く事が出来、今では木も生えている)
       

転載元: ENJOY LIFE

[転載]明石天文科学館と明石公園

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テレビを見ていたら11月18,19日は市民の日で
天文科学館が無料だというので行ってみました。
ここは日本の標準時間で東経135度にあり、ここの時計は日本時子午線標識を兼ねています。
震災後初めて行って見ましたが、随分変わっていました。
先ず第一には呼び名が”明石天文台”から”明石天文科学館”に変わっていました。
中には星と時間に関係有るものや隕石など色々なものが展示してありました。

山陽電車の人丸駅のホームには何種類かのアニメの絵が描かれていました。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-cb-2d/inokasira2000/folder/1524006/86/23929786/img_0?20061128094258

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天文科学館

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地球儀と一緒に世界の時間がわかるのも有りました。

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石の振り子の時計                     水時計     

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         ゼンマイ時計
         
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プラネタリウムでは満天の星と星座の投影をみました。
    
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そしてそのまま明石公園まで歩いていきました。
図書館の周りは紅葉や銀杏は綺麗な金色になっていました。
ここは子供たちが小さい頃良く来て絵本を読んであげていました。

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緑の相談所はツタで覆われていました。

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入り口には可愛らしい菊人形がありました。

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そのあとは何時ものコースで
たこ焼きを食べました。             

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明石の名物たこの干したのが沢山並んでいました。
   
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転載元: ENJOY LIFE

[転載]曽爾高原のすすき

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昨日、伊賀上野と曽爾高原のススキを見に行ってきました。
前日急に冷え込んだので寒さを気にしていましたが、
当日は温かい好天に恵まれ旅を楽しむことが出来ました。

曽爾高原のススキは辺り一面に茂っていて、山は下から見ているとまるで
ベルベットのようでした。
ここには2時間近くいましたが、日の光で光り輝いているススキや、
夕日で赤茶色に見えるススキを見ることが出来ました。
最後は夕日が山のかなたに沈んでいく情景も見られました。

転載元: ENJOY LIFE

[転載]古代の祭り、大中遺跡まつり

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昨日、大中遺跡まつりがありました。

大中遺跡は弥生式住居跡が40年ぐらい前に見つかったので、
年に2,3回古代を省みる行事が行われる。

昨日も古代の生活体験や土器焼き、昔のあそび、古代パレード等色々な事が行われた。

ステージでは
古代の踊り
獅子舞 (400年位前から地元古宮で伝統芸能として受け継がれている)
倉敷天領太鼓 (倉敷から山部兄弟達がたたきに来てくれた。
        色々な種類の太鼓があり、横笛、どらむ、シンバルなどと合奏もされた。
        5人がそれぞれ違った太鼓を一斉に叩いている時や
        一人で大太鼓を叩いた時などは子供の頃に見た映画”無法松の一生”の
        松五郎とダブってしまった。)

この太鼓が始まった時は、小春日和で暖かかったが終わる頃には西からお月さんが出てきて、
すっかり夕闇になっていた。
広々とした屋外での太鼓の迫力に魅了されてしまった。

転載元: ENJOY LIFE

[転載]山崎 定勝

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https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-3e-6c/me468646/folder/1495032/12/63255512/img_1?20100525231608

山崎定勝は伊勢国竹原藩の最初で最後の藩主

【石田三成】挙兵を小山の【徳川家康】に伝えた【山崎家盛】の実弟ですw

生年月日の事は不明ですが…まるこ的仮定で…

永禄11年(1568年)頃に織田氏家臣山崎片家の次男として誕生しますw

元亀元年(1570年)4月織田信長が越前征伐を開始し父片家が従軍し活躍します!!

元亀元年(1570年)6月28日昼頃姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を織田・徳川連合軍が撃破!!!

元亀3年(1572年)7月織田信長が北近江侵攻を開始し父片家が従軍します!!

元亀3年(1572年)9月武田信玄が兵2万7千で上洛を開始します!

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄が上洛途中に享年53歳で死去します…

天正元年(1573年)父片家が槇島城攻めに参陣し活躍しますw

天正5年(1577年)10月10日松永久秀が享年68歳で死去します…

天正6年(1578年)3月13日上杉謙信が享年49歳で死去します…

天正6年(1578年)より羽柴秀吉が毛利征伐を開始します!!

天正10年(1582年)4月武田征伐を終え凱旋途中の織田信長が山崎城を訪れてます!!

天正10年(1582年)6月2日本能寺の変で織田信長が享年49歳で死去します…

この時父片家は安土城下の屋敷を焼き払い山崎城に篭城するんです!!

でも…明智光秀が大軍を率いて山崎城を包囲し圧力を掛けるんです!!

そんでついに父片家は明智光秀に降伏し佐和山城攻略戦に加担するんです…

天正10年(1582年)6月13日羽柴秀吉が明智光秀を山崎の戦いで撃破します!

そんで父片家はすぐに羽柴秀吉に降伏し所領を安堵されるんですw

天正10年(1582年)6月27日清洲会議後父片家は織田信雄の配下となるんです!

天正10年(1582年)11月父片家が摂津国三田2万3千石に移封されますw

天正11年(1583年)3月賤ヶ岳の戦いに織田信雄配下で羽柴方で従軍します!!

天正11年(1583年)弟頼久が羽柴秀吉家臣宮城豊盛の養子になりますw

天正12年(1584年)織田信雄と羽柴秀吉が対立します!!

そんで父片家は織田家を出奔して羽柴秀吉の元で仕え出すんです!!

この頃から豊臣秀吉の元に人質として送られ大坂城ですごします!!

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに父片家は羽柴方として従軍し活躍します!!

天正13年(1585年)7月四国征伐が行われ父片家が従軍し活躍します!!

天正13年(1585年)7月11日豊臣秀吉が関白に就任しますw

天正14年(1586年)7月から九州征伐が行われ父片家が従軍し活躍します!!

この時に豊臣秀吉の馬廻衆として初陣し活躍するんです!

父片家は戦後に石田三成・長束正家・小西行長らと一緒に博多復興奉行に任命されます!

この頃にお姉サンが加藤清正と結婚していますw

天正14年(1586年)12月25日豊臣秀吉が太政大臣に就任しますw

天正15年(1587年)北野大茶会で弟頼久が前田玄以と一緒に奉行を務めます!

天正16年(1588年)2月9日足利義昭が征夷大将軍職を辞任します!

これによって正式に室町幕府は終焉を迎えるんですよ!

天正18年(1590年)小田原征伐が行われ父片家と一緒に従軍し活躍します!

天正19年(1591年)2月28日千利休が享年70歳で自刃します…

天正19年(1591年)3月28日父片家が享年45歳で死去します…

そんで実兄家盛が24歳で家督を継ぐんです!

文禄元年(1592年)8月伏見城普請が始まり参加します!

文禄元年(1592年)からの文禄の役で一時名護屋城に在陣しています!

文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀頼が誕生しますw

文禄3年(1594年)伏見城普請の功績で伊勢国竹原1万石を拝領しますw

文禄4年(1595年)7月15日豊臣秀次が豊臣秀吉の命令で享年28歳で切腹します…

慶長元年(1596年)7月12月深夜に慶長伏見地震が起きます!!

慶長2年(1597年)から慶長の役が起きこの時も一時名護屋城に在陣します!

慶長2年(1597年)8月28日足利義昭が享年61歳で死去します…

慶長3年(1598年)3月15日醍醐の花見が催されますw

慶長3年(1598年)8月18日豊臣秀吉が享年63歳で死去します…

慶長4年(1599年)2月前田利家と徳川家康の対立が一時激化します!!

比較的に兄家盛・弟頼久と一緒に兄弟で石田三成に近い立場にいたんです…

慶長4年(1599年)閏3月3日前田利家が享年61歳で死去します…

慶長4年(1599年)閏3月4日石田三成襲撃事件が勃発します!

慶長5年(1600年)7月17日石田三成が毛利輝元を擁して挙兵します!!

そんで西軍に加担して兵400で挙兵し人質が逃げないよう大坂福島口を警護します!

ちなみに…石田三成挙兵を徳川家康に報せたのは…兄家盛だったんです!!

慶長5年(1600年)8月毛利秀元配下で安濃津城を攻めに従軍します!

慶長5年(1600年)9月14日毛利秀元配下で関ヶ原に布陣します!!

でも…戦闘が始まっても全く毛利軍に動く気配がなかったんで傍観します…

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で西軍が大敗し壊滅します!!

そんで早々に竹原城に戻るけど…すぐに東軍に包囲され降伏するんです…

西軍加担を理由に【改易】され…助命されたんで大坂城入りし豊臣秀頼に仕えます!

ちなみに…兄家盛は西軍挙兵通報の功績で所領を安堵され…弟頼久は助命の上で【改易】となります…

慶長6年(1601年)兄家盛が因幡国若桜3万石に加増転封されますw

慶長8年(1603年)3月21日徳川家康が征夷大将軍に任官しますw

慶長8年(1603年)4月22日豊臣秀頼が内大臣に任じられますw

これにより豊臣家と徳川家の確執が生まれて来ます…

慶長8年(1603年)7月豊臣秀頼と徳川秀忠の娘千姫が結婚します!

徳川家康が豊臣秀頼との会見を求めるけど淀殿が反対し拒否し続けます!!

慶長10年(1605年)松平忠輝と豊臣秀頼が面会します!!

慶長14年(1609年)実弟宮城頼久が享年39歳で死去します…

慶長16年(1611年)3月加藤清正・浅野幸長に守られ豊臣秀頼が徳川家康と会見します!

慶長17年(1612年)2月岡本大八事件が起きます…

この頃より体調が優れず寝込む事が多くなるんです…

慶長18年(1613年)5月17日大久保長安事件が起きます!!

慶長18年(1613年)頃に享年45歳で死去します…

ちなみに…宗家となる兄家盛の家系は移封を繰返し一旦は無嗣断絶なんかしちゃうんですが…交代寄合として復活します!さらに幕末には再び大名に復活する奇跡を起してますw

★☆★下画像は父片家が一時味方した明智光秀の肖像画で定勝じゃないです!★☆★


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転載元: 『母を訪ねて3000円』

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