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環境報告書:中国は大気、水資源、土壌の汚染問題に直面

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環境報告書:中国は大気、水資源、土壌の汚染問題に直面

2014年06月10日
u=658044974,2164322890&fm=23&gp=0
 
 中国水利水力発電科学研究院水資源所の王建華所長によると、中国では半分以上の水効能区の水質は基準に達していない。太湖、巣湖、滇池の水質は全体的に富栄養化の状態にあるという。
 
 水質汚染のほか、中国は大気汚染と土壌汚染問題をも抱えている。環境保護部南京環境科学研究所の張毅敏研究員は「大気汚染が深刻だ。雨で湖に落ちた汚染物も水質の汚染を悪化させている」と指摘した。
 
 多くの環境保護関係者によると、近年、中国は環境保全事業に巨額の資金を投入したが、汚染問題はまだ改善していない。「太湖の汚染整備用投資総額がすでに1000億元を超え、一定の効果を収めたが、これから手をつける難問を解決するのは更に難しくなる」と江蘇省太湖弁公室の張利民副主任が語った。

(続きは次ページ) 
 
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[転載]1274年10月5日、対馬は元と高麗の連合軍の襲撃を受ける。その戦いの激しさは、「お首塚」や「お胴塚」としてバラバラに存在する資国の墓が物語っている。長崎県HP

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ながさきにこり> 09号> ふるさと再発見(その1)
 
 
ふるさと再発見 国境の島 対馬へ
 
 
小茂田浜神社に保管されている鎧兜
 
 
島の軍神はいま島人たちに守られている
 
 
 
 国際情勢が緊張するたびにその地理的条件から幾度となく国防の最前線としての役割を果たしてきた対馬(つしま)。時代に翻弄(ほんろう)され続けたこの島は、鎌倉時代から幕末までの約600年間、宗(そう)氏という一族によって統治されてきた。その宗氏の初代資国(すけくに)は現在、島の西側にある「小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)」に祀(まつ)られている。
  1274年10月5日、対馬は元(げん)と高麗(こうらい)の連合軍の襲撃を受ける。いわゆる元寇(げんこう)である。このとき資国は小茂田に上陸した約1000人の軍勢に対し、わずか80余騎を従えて、自ら戦った。その戦いの激しさは、「お首塚」や「お胴塚」としてバラバラに存在する資国の墓が物語っている。
 
 
御首塚
 
 
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御首塚の入り口には標識があります
 
 
 
 
 
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御首塚の祠
 
 
 
 
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御首塚の祠の中
 
 
 
 
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御首塚の石は740余年動いていないのだろう
 
 
 
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小茂田神社 鳥居
 
 

 小茂田浜神社では毎年11月に慰霊の大祭が行われている。この日、地元の人々は資国をはじめ、国難に殉じた人々を鎮魂しようと、鎧(よろい)兜(かぶと)を身に着け武者行列を組む。神社には代々祭りで使われてきた鎧兜が大切に保管されていた。
 地元の人はこう話す。「対馬の人は皆、資国が島を救ってくれたと思っています。だから祭りの日は近くの小中学校は午後から休み。大人も子どももみんなで感謝の気持ちを表すんですよ」。
100年以上も前のものだという鎧兜はすり切れ、錆(さ)びていた。人々が長きに渡って慰霊を続けてきた何よりの証拠だ。
 初代資国の壮絶な死で幕開けした宗氏の苦難と奮闘の歴史。宗氏が生き抜いてきた道を辿(たど)りながら、知られざる国境の島を旅をしよう。
 
 
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厳原
万松院にある香炉
 
 

1274年 文永の役

 

元・高麗連合軍の出航

元軍の雲版
雲版とは寺院において時間を知らせるために打ち鳴らす道具。元軍が銅鑼として使用したものと伝わる。雲版の表面には、鋳造年に文永の役の3年前である「至元八年(1271年)五月日 造」との年号が刻まれている。
筥崎宮所蔵
元軍の雲版(裏面)
裏面にも凡字・漢字で「完全に勝破せよ」という意味の一節などが仏教において用いられる呪文の一種である真言陀羅尼から引用されている。
筥崎宮所蔵
  • 1274年文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)[126]を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[127]15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した[16]
なお、726~900艘の軍船の構成は、大型戦艦の千料舟126[10]~300艘、上陸用快速船艇の抜都魯(バートル:モンゴル語で「勇猛なる」の意)軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘から成っていた[11]

対馬侵攻

 
 
 
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対馬小茂田浜
 
 
 
 
 
 
 
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元寇上陸の地 小茂田浜
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元寇650周年記念モニュメントが小茂田神社にあります

 
 
 
 『八幡愚童訓』によると、対馬守護代宗資国[129]は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた。そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという。元軍は対馬に入ると、島人を多く殺害した。
 
 同日、宗資国は元軍の襲来を伝達するため、小太郎兵衛次郎(ひょうえじろう)らを博多へ出航させていた。
この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。
去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
『日蓮書状』、高祖遺文録
 この文書は文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だが、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。
 ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書状にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたかは不明である。
 
 この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜とし獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた。
 元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主忽都魯掲里迷失(クトゥルクケルミシュ)に献上している。
 

 




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空理空論

働かざる者食うべからず
 
 
 
峰町は歴史の宝庫です
 

転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る

[転載]元寇750年イベントにご意見募集

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元寇を忘れるな!
元寇750年イベントにご意見募集
1274年から数えて、2024年は、750年目に当たります。
ご意見を募集します。
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元寇七〇〇年平和之碑
 
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六百五十年
 
 
 
 
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元寇六五〇年 対馬 小茂田神社の鳥居
 
 
 
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助國忌
 
 
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壱岐 新城神社 元寇三〇〇年記念植樹碑
 
 
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小茂田浜神社 社殿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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樋口〇〇作

一.
頃は文永十一の    浪の花立つ神無月
傲慢無礼の蒙古勢  海をおおうて寄せ来る
助国公を始めとし   一族郎党おしなべて
忠義一途の対馬武士  頼む心の一すじは
霰たばしる真剣ぞ   踏み迷わじ万張?の
月は照りその神前に 一歩も入れじとただ進め
進め勇めの号令よ  吶威?一声いかづちの
天地に響くばかりなり

二.
智勇仁義の名将の  下弱卆のあるべきぞ
忠臣心をあつめつつ 御陵威を楯となり
きらめく剣に将を?り とどろく蹄に旗を抜き
死して忠戦の鬼となるも 生きて異国の奴なる?
寸歩も去らず戦?    敵は竹葦と攻め囲み
流石武勇の英将も  いとも手痛き戦いに
五丈?頭星落ちて  ?なお暗きなりにけり?


三.
中にも斉藤資定は、二つの腕はたたれても
忠義の二字は凛然と 大喝 敵をしりぞけて
顔を岩にふれて死す 散りきわ潔き山桜
大和心に?みしらは 小茂田の浜を落ちていく
若葉の木の光こそ  実に国民の基盤なれ
 
 
四・・・・?誰かお教え願います
 
 
 
 
 

転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る

[転載]世界史上最大の艦隊 第二次元寇 弘安の役 1281年

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弘安の役

モンゴル語で「勇猛なる」という意味の上陸用快速船艇である抜都魯(バートル)軽疾舟と思われる軍船に乗船する元軍。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵18・第31紙
河野通有兜掛の楠(枯死)
河野通有が弘安の役の戦勝祈願に参詣した際に兜を掛けたとされる楠木。
大山祇神社
 
 
 1281年弘安4年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000~156,989人及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった。
 
 
 
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 クビライに仕えたの官吏・王は、この日本侵攻軍の威勢を「以来、出師の盛なること、未だこれを見ざるなり」とその記事『汎海小録』の中で評している。
 
 また、高麗人の定慧寺の禅僧・冲止は、日本侵攻軍の威容を前にして以下のような漢詩を詠み、クビライと元軍を讃えた。
 「皇帝(クビライ)が天下を統御するに、功績は(中国神話の君主)を超えた。徳は寛大で断折を包容し、広い恩沢は隅々にまで及んだ。車は千途の轍と共にし、書は天下の文章と共にした。ただ醜い島夷(日本)だけが残り、鼎魚のように群れをなして生きていた。ただ大海を隔てていることを頼りにして、(元と)領域を分けることを図った。日本は苞茅(朝貢)にかつて入ったことがなく、班瑞(朝貢)もまた聞いたことがない。そこで帝がこれに怒って、時に我が君(忠烈王)に命じた。千隻の龍鵲(軍艦か)の船と10万の勇敢な軍兵で扶桑(日本)の野において罪を問い、合浦の水辺で軍を興した。鼓声が大海に鳴り響き、旗は長い雲を揺さぶった」
 
 

東路軍の出航

河口杭
元軍の侵入を妨害するために河口に打ち込まれた杭。1905年明治38年)に出土。戦後、博多区呉服町界隈のビル建設現場からも多数出土した。
元寇史料館所蔵
  • 5月3日、東征都元帥・忻都(ヒンドゥ)・洪茶丘率いるモンゴル人、漢人などから成る蒙古・漢軍30,000人と征日本都元帥・金方慶率いる高麗軍約10,000人(実数9,960人)の東路軍900艘が、高麗国王・忠烈王の閲兵を受けた後、朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出航。
元軍は東路軍(とうろぐん)「兵4万人・軍船900艘」と江南軍(こうなんぐん)「兵10万人・軍船3500艘」の二手に分かれて日本に攻めてきました.※1279年に宋は元との戦争に負け支配されていました.ですから江南軍の兵の大部分は宋の人たちだったのです.江南軍は寧波(にんぽー)という中国の港から出発しています.現在の上海の近くにあった港町です.

対馬侵攻

  • 5月21日、東路軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸。上陸した東路軍は日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦康師子等が戦死した。
弘安の役で対馬が襲撃された場所は不明です。 手掛かりは高麗史にある日本国世界村大明浦だけです。 
世界村については、ある大学教授は対馬市峰町佐賀(さか)と推定しています。
 
世界の発音と佐賀の発音は似ているのでしょうか。ただ佐賀は島の東岸にあり、遠回りになるので朝鮮南部から直接入港できる港ではありません。
 
港内も狭く大船団を収容するには適していないのです。それでは世界村はどこなのでしょうか。 対馬以外なのでは、という説もあるようです。  
 
ただ、対馬には佐賀(さか)に似た発音の地名は豊玉町に嵯峨(さが)があります。島の中央部の浅茅湾入り口北側に位置しており、大船団の停泊に最適です。
 
 さらに世界村大明浦の明の地名も近くにあります。明(みょう)崎と言い、大明浦と関係がありそうです。 その上、隣接する貝鮒地区には蒙古塚があり蒙古兵を埋めたという伝説もあります。  
 
  文永の役の際も船団は浅茅湾に停泊後に佐須を襲ったと考えられ、弘安の役でも同じルートをとったと 推理しています。
 
(注) 嵯峨や貝鮒は中世には浅茅湾口の現在の水崎に住居があったが、蒙古襲来で現在地に集団移転したという人もいる。
 面白いことに、水崎の土地は嵯峨や貝鮒の領地だそうでス
 
より
 
 
 

壱岐侵攻

  • 5月26日、東路軍は壱岐に襲来。
壱岐弘安の役瀬戸浦古戦場
少弐資時戦死の地、付近には戦死者を供養するための千人塚が遺る
弘安の役瀬戸浦古戦場
 
 
 

長門襲来

  • 東路軍の一部は中国地方の長門にも襲来する。
広橋兼仲の日記『勘仲記』(6月14日条)によると、東路軍の軍船と思われる軍船300艘が中国地方の長門の浦に来着したことが大宰府からの飛脚によって京都に伝えられたことを記載している。また、壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(6月15日条)にも「異國賊船襲来長門」とあり、長門に元軍が現れたことが確認できるが、長門襲来の実態に関しては史料が少なく不明な点が多い。
 
 

博多湾進入[編集]

元寇防塁」と思しき石築地とその上に陣取る御家人たち
中央の赤い扇を仰ぐ人物は菊池武房。石築地の前を竹崎季長一行が移動する。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵12・第7紙
河野通有奉納の大鎧
『萌黄綾威腰取鎧・大袖付』

重要文化財・大山祇神社所蔵
 
 東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した。
 
 対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし、日本側は既に防衛体制を整えており、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。日本軍の中には伊予の御家人・河野通有など石築地を背に陣を張って東路軍を迎え撃とうとする者もいた。後に河野通有は「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ称賛された。
 
 

志賀島の戦い

志賀島を占領し、海上(恐らく日本軍)の様子を窺う元軍将兵。詞書は失われ詳細不明。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵20・第35紙
志賀島の戦い[257]
東路軍目指して進軍する関東御使・合田遠俊筑後国御家人・草野経永筑前国御家人・秋月種宗肥後国御家人・大矢野種保種村兄弟らの軍船。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵14・第17紙
モンゴル型兜
河野通有奉納『黒漆塗革張冑鉢』

重要文化財大山祇神社所蔵
  • 6月6日、博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした。
東路軍の管軍上百戸・張成の墓碑によると、この日の夜半、日本軍の一部の武士たちが東路軍の軍船に夜襲を行い、張成らは軍船から応戦した[258]。やがて夜が明けると日本軍は引き揚げていった。
  • 6月8日午前10時頃、日本軍は軍勢を二手に分け、海路と海の中道伝いの陸路の両面から志賀島の東路軍に対して総攻撃を敢行した[259][260][261][262][263]
海の中道を通って陸路から東路軍に攻めいった日本軍に対して、張成らは弩兵を率いて軍船から降りて応戦[25。志賀島の東路軍は日本軍に300人ほどの損害を与えたが、日本軍の攻勢に抗しきれず潰走する。
 東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘は馬を捨てて敗走していたが、日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれた。
しかし、管軍万戸の王某の軍勢が洪茶丘を追撃していた日本軍の側面に攻撃を仕掛け、日本兵を50人ほど討ち取ったため追撃していた日本軍は退き、洪茶丘は僅かに逃れることができたという。
 
 
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海路から東路軍を攻撃した伊予の御家人・河野通有は元兵の石弓によって負傷しながらも太刀を持って元軍船に斬り込み、敵将を生け捕るという手柄を立てた。また、海上からの攻撃には肥後の御家人・竹崎季長や肥前御家人の福田兼重福田兼光父子らも参加し活躍した]
  • 6月9日、東路軍の張成らは防御に徹して陣を固め、攻め寄せる日本軍に対抗するなどして奮戦した。しかし、この日の戦闘も日本軍が勝利し、東路軍は敗戦を重ねた。
この志賀島の戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにした。
 
 
 

壱岐島の戦い

鎮西奉行・少弐経資、薩摩守護・島津久経らの兵船。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵15・第19紙
  • 6月29日、一方、日本軍は壱岐島の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始した。
 この戦闘で薩摩の御家人・島津長久比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄船原三郎らが奮戦し活躍した。山代栄はこの時の活躍により、肥前守護・北条時定から書下を与えられている。
  • 7月2日、肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。瀬戸浦において東路軍と激戦が展開された。
 龍造寺家清率いる龍造寺氏は、一門の龍造寺季時が戦死するなど損害を被りながらも、瀬戸浦の戦いにおいて奮戦。龍造寺家清は、その功績により肥前守護・北条時定から書下を与えられた。 一方、東路軍の管軍上百戸・張成を称える墓碑文にも6月29日と7月2日に壱岐島に日本軍が攻め寄せ、張成ら東路軍が奮戦した様子が記されている。
 
 壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した報せに接したことにより壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、前の鎮西奉行・少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、少弐経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上において戦死するなどの損害を出している。
 
 京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(7月12日条)によると、壱岐島の戦いにより元軍が壱岐島を放棄したため、元軍が退散し撤退したという風聞が日本側にあったことが確認できる。
 

転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る

[転載]壱岐弘安の役瀬戸浦古戦場

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壱岐弘安の役瀬戸浦古戦場
少弐資時戦死の地、付近には戦死者を供養するための千人塚が遺る
弘安の役瀬戸浦古戦場
よみがな指定年月日所在地所有者最寄り駅
史跡(県指定) 
こうあんのえきせとうらこせんじょう
1975年01月07日
壱岐市芦辺町箱崎大左右触
壱岐市
瀬戸向町下車 徒歩5分
 第二回の元軍の襲来のいわゆる弘安の役(弘安4年・1281)に際し,壱岐の瀬戸浦(芦辺町)は激戦の地であった。これについては,「龍造寺文書」弘安5年9月9日肥前守護北条時定書状に,「去年異賊襲来時,7月2日,於壱岐島瀬戸浦令合戦由事,申状并證人起請文令披見畢」とあるのによっても明らかである。瀬戸浦の東方には武藤経資の三男資時の墓といわれるものがある。壱岐の守護としては,今日わずかに文永10年(1273)11月16日当時武藤資能を確認する(「松浦文書」)のみである。武藤(のち少弐)資時はあるいは壱岐守護代であったかともみられるが確認できない。


大きな地図で見る
 
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新城神社
 
 新城神社は、文永の役で戦死した壱岐の守護代平景の居館の地であった新城(樋詰城)跡にあり、社殿は明治19年に造営され、景をはじめ元寇で殉難した将兵を祀っている。
 文永11(1274)年10月14日、元軍は勝本の北西海岸に上陸し、新城へ向かった。平景は少弐資能に援軍を頼んだが、間に合わず、100余騎ほどで元軍を迎え撃ち各地で戦ったがついに全滅した。景隆は鉄砲や毒矢という戦法の違いから、元軍に太刀打ちできず、戦場から退却して、15日に新城で自刃したという。
 
 
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壱岐 新城神社 元寇三〇〇年記念植樹碑
 
 
 
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弘安の役 壱岐侵攻

  • 1281年5月26日、東路軍は壱岐に襲来。
 
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イメージ 10少弐資時の墓。第2回の元寇である弘安の役で戦死した当時19歳の守護代少弐資時の墓。芦辺港北の岬にある少弐公園の小高い丘に設けられている。近くの瀬戸浦は激戦地となり、元軍は瀬戸浦船匿城を攻撃、日本軍は全滅した。
 
 
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 平安時代(10世紀)に編纂された「延喜式」神名帳は、当時「官社」とされていた神社の一覧です。神名帳に記載された神社を「式内社」(延喜式内社)と呼び、古くから朝廷に認められた神社として、一種の社格になっています。

 西海道(九州)全体で107の式内社が名を連ねていますが、そのうち対馬は九州最多の29社を誇り、2位の壱岐の24社を加えると、2島で約半分を占めています。対馬・壱岐は、神道の源流のひとつといえる島々なのです。
 対馬には多くの神々が鎮座していますが、特に重要視されてきたのが、海神の娘・豊玉(とよたま)姫と、神功(じんぐう)皇后です。豊玉姫は「古事記」の海幸山幸伝承に登場する女神で、初代天皇である神武天皇の祖母にあたります。航海守護・安産・豊漁などの庶民にも身近な神徳があり、島民に親しまれてきました。
 一方、神功皇后は懐妊したまま三韓(朝鮮)征伐を行ったとされる勇ましい女神で、子の応神天皇とともに「八幡神」として全国の八幡神社に祭られています。神功皇后は九州北部に縁の深い女神であり、対馬にもたくさんの伝承地があります。  
 
 
 
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転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る

[転載]壱岐・対馬の無残

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壱岐・対馬の無残
 『日蓮註画讃』
 『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害。』

 「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし。」
 また、『一谷入道御書 建治元年五月八日』にも
 「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし。」
 日本人を拉致してきたことは、高麗側の記録にも残っている。
 帰還した高麗軍の将軍が、2百人の男女の子供を高麗王とその妻に献上したと。
 『高麗史節要』
 『俘童男女二百人献王及公主。』
 また捕らえた女の手に穴をあけて徹したことの記述であるが、
『日本書紀天智帝二年紀』に、『百済王豊璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。』
「百済王豊璋は、鬼室福信に謀反心があるとして、手のひらに穴を穿って革紐をとおして縛った。」

 とある。
 百済の時代にもあった朝鮮半島伝統の風習らしい。

 興味あることに、現代においてもそれがかの国には残っていることが韓国の新聞に報道されている。(

 朝鮮日報2002/4/24付
 それによれば、2002年4月16日に中朝国境付近の中国側で、北朝鮮の保安員(警察)が脱北者100人余りの集団を連行する姿を、あるアメリカ人が目撃したという。脱北者たちのほとんどは30~40才代の男性で、20代の女性や年寄りの女性や子供も何人かおり、彼らは、手に針金を突き通され、さらに鼻にリングを刺してそれも針金に通された姿だったと言う。保安員等はトラックの荷台に彼等を乗せ、その時、針金をトラックに結わえ付けていたという。

 まことに、想像するのも寒気がする光景である。拉致と残酷行為は、あちらの文化なのであろうか。
 先の『高祖遺文録』は、
 『皆、人の当時の壱岐対馬の様にならせ給わん事思いやり候へば、涙も留まらず。』と結んでいる。
 
 
 
 
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鎌倉時代の日本は、2度にわたるモンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。
 1274年(文永11年)、蒙古兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦に殺到した。
 この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃したが、圧倒的な兵力差により勇戦及ばず全員玉砕した。『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが文永の役である。
 1281年弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古兵15,000人、高麗兵10,000人、水夫等17,000人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋兵100,000人主体の江南軍であった。
 弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。『八幡愚童記』正応本には、
其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。
と記されており、とくに高麗兵の残虐性を詳細に伝えている。
  • 日本の文永11年・元の至元11年10月(1274年11月)に、都元帥・忽敦[29]、右副元帥・洪茶丘左副元帥・劉復亨らの率いる蒙漢軍および金方慶らが率いる高麗王国軍、操船要員を含む3〜4万人を乗せた大小900艘の船団が朝鮮半島の合浦(現在の大韓民国馬山)を出発した。
  • 元軍は10月5日午後四時頃に対馬小茂田浜に上陸する。対馬守護代宗資国は八十余騎で応戦するが戦死し、元高麗連合軍は対馬全土を制圧後、1週間にわたって全域を蹂躙した。同日、対馬佐須浦から小太郎・兵衛次郎が出航し博多へ知らせた。
  • 文永の役から翌々年に書かれた日蓮の書簡によると伝聞として、この時民衆を殺戮し、生き残った者(主に女)の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめや矢除けにしたという。
  • 高麗の将軍・金方慶が帰還後、文永の役で捕虜とした子供男女200人を高麗王忠烈王と妃のクビライ公主、クトゥルクケルミシュに献上したという記録が、高麗側に残っている。
 
 
1274(文永11)年10月総兵力2万5千人、900隻の大船団をもって対馬を侵略した。宗家初代当主、宗資国【すけくに】<助国>はわずか80余騎でこれを迎え打ち小茂田浜で奮死した。
 壮絶な死をとげた資国公の墓所は、740年を経た今日、お胴塚、お首塚として、それぞれ別のところに伝承されている。
 
 
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御首塚
 
 
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平景隆

 平 景隆(たいら の かげたか、生年不詳 - 文永11年10月15日1274年11月14日))は、鎌倉時代中期の九州の武士。壱岐国守護代。贈正四位。通称は内佐衛門。平経高平景高とも。
 
 壱岐国の守護少弐氏で、景隆はその家人であったと考えられる。『八幡愚童訓』によれば、文永の役の文永11年(1274年)10月14日申の刻(午後4時から6時頃) 、蒙古軍が壱岐島の西岸に上陸すると、景隆は百余騎の武士を率いて馳せ向かい、庄三郎という者の城の前で矢を射かけて蒙古軍を迎え撃った。
 しかし圧倒的大軍で押し寄せる蒙古軍にたちまち追い詰められ、景隆らは守護所の詰城である樋詰城に立て籠もった。日没とともに蒙古軍は船団に引き上げ、翌日景隆が篭る樋詰城を攻撃、景隆一同は城中で自害した。景隆の下人の宗三郎が博多へ渡ってこのことを報告した。景隆の自害により蒙古軍は壱岐を制圧し、多数の島民が殺害された。
 
 明治維新後、全国的に忠臣の顕彰運動が高まり、刀伊の入寇弘安の役の戦死者とともに新城神社長崎県壱岐市勝本町)に祀られた。1896年(明治29年)10月23日、正四位を追贈された。
 
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転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る

[転載]壱岐文永の役新城古戦場。「勝負坂」・「唐人原」の地名,彼我両軍の合戦があったとされる「鯛の原」その他「高麗橋」などがそれである。また「千人塚」

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壱岐文永の役新城古戦場
元軍上陸の際の激戦地
文永の役新城古戦場
よみがな指定年月日所在地管理・保護団体最寄り駅
史跡(県指定) 
ぶんえいのえきしんじょうこせんじょう
1975年01月07日
壱岐市勝本町新城東触
壱岐市
新城橋下車 徒歩5分
元寇の際,壱岐には元軍が上陸して暴虐の限りをつくした。勝本町内には,とくに文永の役(文永11年1274)に関する伝承の地が少なくない。元軍上陸の地,古戦場跡とされる地などがあり,「勝負坂」・「唐人原」の地名,彼我両軍の合戦があったとされる「鯛の原」その他「高麗橋」などがそれである。また「千人塚」といわれる石碑もある。これらを便宜上一括して,町内の一角に表題の標柱をたて,史跡として顕彰している。


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転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る

[転載]文永11年(1274年)10月5日、モンゴル高麗連合軍は、対馬の西海岸の小茂田の海岸にあらわれた。

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<文永の役>文永11年(1274)
 10月3日元軍「蒙古人・女真人・中国人など2万人に、高麗軍8千人、水手6700人を加えて総勢約3万5千人」を乗せた船が朝鮮の月浦(現在の馬山)を出発した。
 船は大船、快速船、計900艘。
 
 
 
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 10月5日、対馬の西海岸の小茂田の海岸にあらわれた。守護少弐氏の代官である宗資国は80余騎でかけつけ、来意を問うが、敵軍は船上から矢を放ち、千人ばかりが対馬に上陸した。資国らは、たちまち、討ち死。小茂田の家屋は焼き払われ、焦土と化した。
 
 
 
 
 
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元軍対馬島民を惨殺する之図
 


 14日には壱岐の北西海岸勝本・鯨伏方面で元軍は、400人が上陸し占領した。この際、島の男は見つかり次第殺され、島の女は掌に穴を開けられ縄を通して船縁に吊るされたと言う。
 壱岐に住んでいた島民全員根絶やしにされた。(『新元史』)
 10月19日博多湾に到着した元軍は、博多の今津や百道海岸、志賀島に上陸し、住民は惨殺された。
日本軍は10月20日に、博多・箱崎を放棄、太宰府まで撤退する。
 元軍は、博多の町に火をかけ八幡宮も焼けた。博多はこの一日で殆どの市街地が灰になり、男は殺され女は辱められた。

建国記念日によせて
 
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日本・元・高麗の史書に書かれた文永の役。

『十月五日、蒙古が寄せ来て、対馬嶋に着く。同二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北』
(『鎌倉年代記裏書』)

『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』
(『元史日本伝』)

『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人』
(『高麗史表』)

弘安の役における元軍の壊滅。

『八月一日、風舟を破る。五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して主師となし、これを号して張総管といい、その約束を聴く。方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。九日、八角島(博多)に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ』
(『元史日本伝』)

『閏七月朔、賊船ことことく、漂蕩して海に沈みぬ、・・・鷹島に打上られたる異賊、数千人、船なくて疲れ居たりしか、破船ともを、つくろひて、蒙古人、高麗人、七八艘うちのりて、逃んとするを、鎮西の軍兵とも、少弐三郎左衛門景資を大将として、数百艘おしよせたりしかは、異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、なしにけるとそ、又、かの長門の浦に吹入られたる、大将のふねともは、閏七月五日、関東より、はしめて、甲田五郎、安藤二郎着して、其手の者、新左近十郎、今井彦次郎等を一手とし、九國の兵、より集りて、いく手になりて、おしよせ、皆うちとる、但し、ことことくに、殺し尽しても、こたひの神の威徳を、しらて止へけれはとて、只三人を、たすけて、汝が王に事の趣を、いつはらす、いひきけよと、いひつけて、小舟にのせて、おひ返す』
 

転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る


[転載]1274年10月5日、対馬は元と高麗の連合軍の襲撃を受ける。その戦いの激しさは、「お首塚」や「お胴塚」としてバラバラに存在する資国の墓が物語っている。長崎県HP

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ながさきにこり> 09号> ふるさと再発見(その1)
 
 
ふるさと再発見 国境の島 対馬へ
 
 
小茂田浜神社に保管されている鎧兜
 
 
島の軍神はいま島人たちに守られている
 
 
 
 国際情勢が緊張するたびにその地理的条件から幾度となく国防の最前線としての役割を果たしてきた対馬(つしま)。時代に翻弄(ほんろう)され続けたこの島は、鎌倉時代から幕末までの約600年間、宗(そう)氏という一族によって統治されてきた。その宗氏の初代資国(すけくに)は現在、島の西側にある「小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)」に祀(まつ)られている。
  1274年10月5日、対馬は元(げん)と高麗(こうらい)の連合軍の襲撃を受ける。いわゆる元寇(げんこう)である。このとき資国は小茂田に上陸した約1000人の軍勢に対し、わずか80余騎を従えて、自ら戦った。その戦いの激しさは、「お首塚」や「お胴塚」としてバラバラに存在する資国の墓が物語っている。
 
 
御首塚
 
 
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御首塚の入り口には標識があります
 
 
 
 
 
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御首塚の祠
 
 
 
 
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御首塚の祠の中
 
 
 
 
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御首塚の石は740余年動いていないのだろう
 
 
 
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小茂田神社 鳥居
 
 

 小茂田浜神社では毎年11月に慰霊の大祭が行われている。この日、地元の人々は資国をはじめ、国難に殉じた人々を鎮魂しようと、鎧(よろい)兜(かぶと)を身に着け武者行列を組む。神社には代々祭りで使われてきた鎧兜が大切に保管されていた。
 地元の人はこう話す。「対馬の人は皆、資国が島を救ってくれたと思っています。だから祭りの日は近くの小中学校は午後から休み。大人も子どももみんなで感謝の気持ちを表すんですよ」。
100年以上も前のものだという鎧兜はすり切れ、錆(さ)びていた。人々が長きに渡って慰霊を続けてきた何よりの証拠だ。
 初代資国の壮絶な死で幕開けした宗氏の苦難と奮闘の歴史。宗氏が生き抜いてきた道を辿(たど)りながら、知られざる国境の島を旅をしよう。
 
 
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厳原
万松院にある香炉
 
 

1274年 文永の役

 

元・高麗連合軍の出航

元軍の雲版
雲版とは寺院において時間を知らせるために打ち鳴らす道具。元軍が銅鑼として使用したものと伝わる。雲版の表面には、鋳造年に文永の役の3年前である「至元八年(1271年)五月日 造」との年号が刻まれている。
筥崎宮所蔵
元軍の雲版(裏面)
裏面にも凡字・漢字で「完全に勝破せよ」という意味の一節などが仏教において用いられる呪文の一種である真言陀羅尼から引用されている。
筥崎宮所蔵
  • 1274年文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)[126]を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[127]15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した[16]
なお、726~900艘の軍船の構成は、大型戦艦の千料舟126[10]~300艘、上陸用快速船艇の抜都魯(バートル:モンゴル語で「勇猛なる」の意)軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘から成っていた[11]

対馬侵攻

 
 
 
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対馬小茂田浜
 
 
 
 
 
 
 
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元寇上陸の地 小茂田浜
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元寇650周年記念モニュメントが小茂田神社にあります

 
 
 
 『八幡愚童訓』によると、対馬守護代宗資国[129]は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた。そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという。元軍は対馬に入ると、島人を多く殺害した。
 
 同日、宗資国は元軍の襲来を伝達するため、小太郎兵衛次郎(ひょうえじろう)らを博多へ出航させていた。
この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。
去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
『日蓮書状』、高祖遺文録
 この文書は文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だが、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。
 ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書状にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたかは不明である。
 
 この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜とし獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた。
 元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主忽都魯掲里迷失(クトゥルクケルミシュ)に献上している。
 

 




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空理空論

働かざる者食うべからず
 
 
 
峰町は歴史の宝庫です
 

転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る

[転載]元寇の地、鷹島

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遠矢の原(モンゴル村)
兵衛次郎の墓  対馬小太郎の墓  刀の元の六地蔵
開田の七人塚  元寇記念の碑 五輪塔と法○印塔  少弐景資の石像(龍面庵) 
元寇の地、鷹島を訪ねて
開田の七人塚(ひらきだのしちにんずか)
文永の役の折り、東浜に上陸した元軍は、日本軍が博多湾に重点を置き鷹島を手薄にしていたことから、島民のほとんどを虐殺した。船唐津免の開田とゆうところの一軒家は、人目につきにくい山の中にあったが、飼っていた『ニワトリ』が鳴いたため、「ニワトリがいるなら人も住んでいるはずだ」と元軍は山の中を捜し一軒家を発見。8人家族のうち7人が殺され、灰だめに隠れていたお婆さん1人が助かったということです。それ以来、開田ではニワトリを飼わないと伝えられている。(開田の悲墳塚ともいう。)

医王城跡(里免)いおうじょうあと
  今より約860年前「大曲右京」という人が本島を領有していたが、源太夫判官久市公が西下して宇野御厨検校となるに及び領を納めて帰順、大曲長門守、大曲右京助、大曲左右衛門太夫と続き慶長の頃は、大曲休也と代々大曲家の居館であった。
 北側には、今も残る深い壕を巡らし、城塞の正面中腹には元家老屋敷であったと伝えられる宅地跡が残っている。 
※大曲休也の墓
 医王城の東南方、松阪の台地「永光寺」墓地にある。永光寺累代住職の墓塔に囲まれて「永光院殿忠叟浄玄居士慶5年1月16日卒」とある。
 医王城主にして、永光寺中興の開墓とうたわれ後世にその名をとどめている。 

今宮神社・広久山満福寺跡及び大銀杏 
今宮神社・広久山満福寺跡(三里免) 
 今宮神社は、1148年(久安4年)に8代藩主・松浦久の子、直(なおし)が父のために満福寺境内の一隅に建てたと伝えられています。
 広久山満福寺は、松浦市の梶谷城にいた松浦久が年老いてから鷹島町原免の日本山に出城を築き、里村の別邸を作ったとき三里地区の平坦な地形を見て耕作する土地に最も適しているので、将来、一族発展の根拠地としてここに建てたと伝えられている。
 境内には、松浦久と元寇の役で鷹島を守るために活躍し、重傷のためここで自刃した第14代答(こたう)の墓や戦死した人々の墓標、五輪塔、宝筐印塔(ほうきょういんとう)が無数にあります。又、樹齢400年といわれる大銀杏(おおいちょう)があり、枝からは乳柱が垂れ下がっており昔からその皮を煎じて飲むと乳が出ると言い伝えられてきました。 
大銀杏  昭和32年6月24日 長崎県文化財に指定

アコウの樹(住吉神社)里免
アコウの樹 
 住吉神社には、鎮守の森には珍しく、アコウの樹がそびえている。熱帯樹のこの樹がどうして、この島に根をおろしたものだろうか。
 昔は、密貿易や海賊の拠点であったろうこの島だからこそ、はるかに遠い南の国から持ち帰って植えられたのではないだろうかと伝えられている。
 おそらく、ここ鷹島がアコウの樹の北限であろう。 
懸仏(昭和49年10月8日)、アコウの樹(昭和55年2月29日)
長崎県文化財に指定・天然記念物

宮地嶽史跡公園
宮地嶽史跡公園(阿翁免)
  牧之岳(三里免)と共に昭和45年に史跡公園として整備され、展望絶景の地で玄界灘が一望できる高台にある。
 宮地嶽神社、愛宕神社が祭られており、五輪の塔、元寇記念の碑、休憩所等が建っている。
 (玄海国定公園特別区域、標高116.6m)
 

対馬小太郎の墓(里免)
対馬小太郎の墓(里免) 
 里免清水川の南方丘上にあり、対馬の守護代・宗助国の家臣、「小太郎」の墳墓。 
 1274年(文永11年10月5日)元軍が対馬を攻撃。守護代・宗助国は一族80余騎を率いて奮戦したが、ついに及ばず戦死の直前、家臣の小太郎及び兵衛次郎に命じて急を太宰府に報告させた。
 二人は、玄海の荒波を乗り切り博多に上陸し、その使命を果たしたが元軍は壱岐を占領し、鷹島を襲い博多湾に侵入した。
 小太郎も博多防衛に加わった。弘安4年(1281年)元軍が再び来襲。鷹島襲撃の知らせに小弐景資の配下として奮戦中重傷を負い自刃。 
遺言に「我が屍を埋めるに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と残した。

刀の元(とうのもと)の六地蔵(里免)
刀の元の六地蔵(里免) 
 対馬小太郎の墓の近くに六地蔵と五輪の塔が六つ集まっているところを「刀の元」とよんでおり、弘安の役で里方面の敵の捕虜を斬首したところだと伝えられています。
六地蔵の顔面には、赤土が塗られているが、これは子供の病気をなおすために親が深夜にここにお参りをして赤土を塗るという信仰があり、今も尚、一部の人たちにより受け継がれている。

龍面庵(阿翁免)りゅうめんあん
 弘安の役(1281年、弘安4年)に小弐景資(しょうにかげすけ)が本陣を置いたところと伝えられ、同年7月30日の台風により敵船団はほとんど沈没、残敵5,000余りが鷹島に上陸したとの急報に博多から駆けつけ、約1週間にわたる戦いの末、敵兵を全滅させたという。
 景資に従って戦い戦死した壱岐の石田五郎為治、西牟田弥五郎の墓もあり、現在は、石工展示館や小弐景資の石像が建0っている。
 

兵衛次郎の墓(神崎免)
 もう少し北上してみよう。シーズン外れだが海浜キャンプ村も見てみる。さすがに誰も居ない。キャンプ場のテントを過ぎていくと元寇の鎮魂の碑が建立されている。
 原免の市杵島神社に向かう。ここでは県指定有形文化財の銅造り如来坐像が拝観できる。この仏像は元寇の折りに難破した元船に安置されていたものと謂われ、船唐津の漁師が網で上げたものだそうだが、仏様を上げた漁師も驚いたことだろう。
 
 元寇史跡巡りに成ってしまうようだが、次は対馬小太郎の墓に向かう。対馬小太郎は、文永11年の元寇で主君であった守護代・宗助国の一族80余騎の全滅を主君の命で太宰府に報告した。
 弘安4(1281)年、元軍が再び来襲。鷹島襲撃の知らせに、一族の敵を討つべく小弐景資の配下として鷹島に転戦、奮戦中に重傷を負い自刃した。
 小太郎の遺言は「我が屍を埋めるに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と残したので、遠く対馬を望む丘陵に墳墓を設けた。
壱岐・対馬は今日は見えない
 すぐ近くの住吉神社にアコウノキの巨木が有ると言う。それも是非見なくては。この里免の住吉神社の創建は古い。神宮皇后の朝鮮行きの際の寄港地で、ここで武運長久の祈願を行い一宮を設けたとの事。
鷹島町歴史民俗資料館・埋蔵文化財センター
鷹島町歴史民俗資料館

資料館設置の趣旨

 玄界灘に浮かぶ鷹島は、伊万里湾に位置し、東に佐賀県肥前町、南に長崎県松浦市を望む景勝の地です。

 東西5km、南北13km、平和なこの島が、700有余年の昔元寇最後の戦場となりました。

 弘安4年(1281年)7月30日の夜、本格的な日本侵略を前に集結した総勢約4,400隻の船と、14万人といわれる元軍の大半が、ここ鷹島の海底に沈んだのでした。
鷹島町埋蔵文化財センター  
     
そして、昭和55年(1980年)、鷹島の海が水中考古学調査の最大の宝庫として選ばれたのです。
 昭和56年7月より開始された沈没船の遺物調査と引き揚げ作業によって、数多くの元寇遺物が発見されたため、この貴重な資料を収集保存し調査研究を進めるとともに一般に公開して鷹島内外の人々に元寇の特異性と知識を深め、あわせて地域住民の文化活動や児童生徒の学問探究の場として歴史民族資料館を設置した次第であります。
鷹島の歴史の謎に挑む
昭和55年(1980年)文部省は特定研究として「水中考古学による遺跡・遺物の発見と調査・保存の研究」を3ケ年計画で始めました。元軍(蒙古軍)が鷹島南岸で滅びてから、ちょうど700年後のことでした。
この研究は、考古学・日本史学・電子工学・海洋学など、それぞれの学問領域を越えて参加した多くの研究者たちによっておこなわれました。まず海底に埋もれている遺物を調査するため、電子工学の粋を集めた探査機器が投入されました。
すなわち鷹島の海底調査で歴史的な出来事が実際の遺物によって証明されたのです。

管軍総把印(県指定有形文化財)
  
 管軍総把印
高さ6.2cm、印面幅6.5cm×6,6 cm ちゅう14cm×3,2cm、重さ726gの青銅製の印鑑です。
鷹島南岸の神崎(こうざき)海岸で漁民の貝堀中に発見されました。
 印面部分はやや反りをもち、元の官用書体であったパスパ(ハ思巴)文字の 篆体(てんたい)、漢字の書体の一つ で篆書(てんしょ)、「大篆、小篆の二種類があり、秦(しん)の時代につくられた といわれる」管軍総把印(かんぐんそうはいん)と刻まれています。
ちなみに至元14年は西暦1277年に あたり、元寇の時期と一致しています。
 平成元年3月31日、県の指定有形文化財に指定されています。

鷹島町埋蔵文化財センターに保存展示中の海底から引き揚げられた木製のイカリ。
大型木製イカリ
 木製イカリは、平成6年(1993年)に、第3回鷹島町水中考古学調査により神崎防波堤工事に伴う緊急調査を長崎県より依頼を受け、鷹島町教育委員会が実施。
 水深20から22mより木製イカリを発見、700年前の弘安の役で沈んだ元寇船の碇で、当時のイカリの構造が判明し、鷹島型碇石の命名。
 海底から引き揚げられた木製イカリは、平成6年12月から平成9年8月まで脱塩処理され、イカリを保護し、イカリの形に固定した状態で含浸装置の中に入っています。
木製イカリ模型。

含浸装置。
PEG(ポリエチレングリコール)含浸装置。
木製大型イカリを保存処理中です。
この中で木材の中の水分とポリエチレングリコールを入れ替えます。

木彫釈迦仏座像
 
木彫釈迦仏座像
 高さ24cmの座像で、阿翁の農民が開墾中に発掘したものと伝えられ、大正7年頃、元寇史跡調査に来島された黒板勝美博士によれば、「元将の守護仏であったろう」という。

唐壺と鷹島住吉神社の懸仏
 
 唐壺と鷹島住吉神社の懸仏唐壺は、昔より内外海底から、多数引き揚げられ、いつの頃からか唐壺と呼ばれている。一見たこ壺と似ているが、さげ紐を通す三つの耳がついていて、昔は穀物や水を入れたものと思われる。この壺は、元寇の役に殲滅した敵船に積込まれていたものとみられ、近年にわかに珍重されて来た。懸仏は、県指定文化財(有形工芸品)。伝説によると、松浦党水軍が船中にかかげたものだという。

ご利用の案内 
開館時間:午前9時より午後6時   (休館日 : 毎週月曜日)
お問い合わせ  歴史民俗資料館
埋蔵文化財センター
  鷹島町教育委員会
ほんの一部のみ発信しています 是非一度お立ち寄りください。
他にも興味深い資料がたくさんあります。
 
宮地巌嶽史跡公園
対馬小太郎の墓
兵衛次郎の墓
他の理由
■ ヨーロッパへの進攻を防ぐため(白人の謀略)
 当時、モンゴルはトルコまで進攻していた。イスタンブールを越え、ギリシャやローマをモンゴルが脅かさないようにヨーロッパ人が謀った。
 マルコポーロが見もしないで、日本を黄金の国ジパングを虚偽の風雪を流布したのも、モンゴルを日本に進攻させ、ヨーラッパへのモンゴル進攻を防ぐためであった。
 東アジアの戦争で、利益を上げているのは、常に白人である。(大東亜戦争を一部を除く)
 
鷹島町歴史民俗資料館・埋蔵文化財センターより画像をお借りしています。
是非、訪問してみてください。(フグの季節が良いかもネ)

転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る

[転載]「水循環基本法」の成立の理由は健全な水循環の確保だけでなく、外国資本にから日本の水源を護るためである

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「水循環基本法」の成立について

那須塩原市大沼の水辺(写真はイメージ)
那須塩原市大沼の水辺(写真はイメージ)
 水循環基本法が、2014年4月に成立した。法律の前文にもあるように、水は生命の源であり、絶えず地球上を循環し、大気、土壌等の他の環境の自然的構成要素と相互に作用しながら、人を含む多様な生態系に多大な恩恵を与え続けてきた。
 その水循環が近年の都市部への人口の集中や気候変動等の様々な要因が水循環に変化を生じさせ、渇水、洪水、水質汚濁、生態系への影響等問題を生じさせている。本法は、そのような水循環に関する施策について、その基本理念を明らかにするとともに、これを総合的かつ一体的に推進するための基本となる法律である。
 
国土交通相「水循環担当大臣」に 2014年5月20日
 
 
 

「健全な水循環」への政府部内での検討

健全な水循環系の構築(出典:国土交通省)
健全な水循環系の構築(出典:国土交通省)
※クリックで拡大表示します
 しかしながら、公害対策基本法が廃止されて新たに1993年に環境基本法が制定され、さらに翌年、国の環境基本計画が策定されるという状況の中で、関係省庁の担当者の間で、これまでばらばらに所管されてきた水関連行政を「健全な水循環」という視点で政策統合をする必要があるのではないかとの問題意識が次第に高まっていった。

 その問題意識に加え、中央官庁の統合・再編問題が具体化し始めた1998年に、関係省庁の課長クラスが自主的に集まった「健全な水循環系構築に関する関係省庁連絡会議」が設置された。
 本会議は、
①それぞれの権限を変えるものではないこと、
②ただし、会議ではそれぞれの権限を超えて自由に議論できるものであること、
③懐疑の結論は皆の合意の上で決めるが、最終的には各省庁が合意した要綱の取りまとめを目指すこと、
という取り決めのもと、精力的な討議を重ね、翌1999年に、「健全な水循環系構築に向けて(中間とりまとめ)」を、また、2003年に「健全な水循環系構築のための計画づくりに向けて」をとりまとめ、事実上終了した。
 
 
 
【三橋貴明】次の戦略物資「水資源」を中国資本から守れ!「水循環基本法成立」
 
 
 
平成26年4月25日
農林水産省

外国資本による森林買収に関する調査の結果について

農林水産省は、平成25年における外国資本による森林買収の事例について、都道府県を通じて調査を行い、結果を取りまとめました。

1.調査方法

平成25年1月から12月までの期間における外国資本による森林買収について、森林法に基づく届出情報などの行政が保有する情報(注)を参考に、都道府県を通じて調査を行いました。
(注)行政が保有する情報
  • 森林法に基づく届出情報
面積にかかわらず、森林の土地の所有者となった場合に市町村へ提出されたものです。
  • 国土利用計画法に基づく届出情報
一定面積以上(都市計画区域外の場合は1ha以上)の土地について、売買等の契約を締結した場合に市町村へ提出されたものです。
  • 不動産登記法に基づく届出情報
第三者への対抗要件として登記所に登記されたものです。

2.居住地が海外にある外国法人又は外国人と思われる者による森林買収の事例

調査の結果、確認された事例は、次のとおりです。
都道府県
市町村
取得主体
取得者の住所地
森林面積(ha)
利用目的
情報
北海道
ニセコ町
個人
シンガポール
9
居宅建築
その他
真狩村
個人
シンガポール
8
資産保有
(将来は住宅を建てる予定)
国土法届出
倶知安町
法人
シンガポール
5
分譲地として造成予定
その他
法人
英領ヴァージン諸島
0.5
未定
国土法届出
法人
中国(香港)
3
現状のまま
その他
法人
英領ヴァージン諸島
0.2
分譲地として造成予定
その他
法人
中国(香港)
2
不明
登記
法人
中国(香港)
0.2
不明
森林法届出
個人
中国
0.6
未定
その他
個人
中国(香港)
0.1
不明
森林法届出
共和町
法人
中国(香港)
163
開発又は転売
国土法届出
11件
191
長野県
軽井沢町
法人
英領ヴァージン諸島、
アメリカ合衆国(共有)
0.3
資産保有
国土法届出
1件
0.3
神奈川県
箱根町
法人
英領ヴァージン諸島
3
別荘等
国土法届出
1件
3
福岡県
糸島市
法人
中国(香港)
0.2
住宅用地
森林法届出
1件
0.2
合計
14件
194
注1:森林面積は小数第1位を四捨五入して(1ha未満であるものは、有効桁数1桁の小数で)表示しました。
注2:計の不一致は四捨五入によるものです。
注3:利用目的は、届出書に記載されているものを記載しています。

3.その他の事例

2の事例のほか、国内の外資系企業と思われる者による森林の取得事例として都道府県から報告があった事例は、次のとおりです。
内容
件数
森林面積(ha)
国内の外資系企業と思われる者による森林の取得
5
455
注1:森林面積は小数第1位を四捨五入して表示しました。
注2:「外資系企業」は、国外居住者又は外国法人による出資比率又は国外居住者の役員の比率が過半数を占める法人を指します。
注3:平成25年1月~12月における取得事例です。
<添付資料>(添付ファイルは別ウィンドウで開きます。)
 
イメージ 1
 
 
 
 
ホーム> 報道発表資料> 外国資本による森林買収に関する調査の結果について
平成24年5月11日
農林水産省
国土交通省

外国資本による森林買収に関する調査の結果について

外国資本による森林買収に関して、農林水産省と国土交通省が連携し、平成23年の事例について都道府県を通じて調査を行い、結果をとりまとめました。

1.農林水産省と国土交通省が連携した調査の結果

平成23年1月から12月までの期間における外国資本による森林買収について、農林水産省と国土交通省が連携し、国土利用計画法に基づく土地取引の届出情報※を参考に都道府県を通じて調査を行いました。
確認された事例は次のとおりです。
※国土利用計画法の届出は、一定面積以上(都市計画区域外の場合は1ha以上)の大規模な土地について、
土地売買等の契約を締結した場合に必要となるものです。

【居住地が海外にある外国法人又は外国人と思われる者による森林買収の事例】
都道府県
市町村
取得主体
取得者の
住所地
森林面積
(ha)
利用目的
北海道
留寿都村
個人
シンガポール
0.4
資産保有
倶知安町
法人
中国(香港)
0.9
資産保有
法人
英領ヴアージン諸島
1
資産保有
法人
英領ヴアージン諸島
2
資産保有
法人
英領ヴアージン諸島
4
資産保有
法人
英領ケイマン諸島
5
資産保有
ニセコ町
法人
シンガポール
9
資産保有
個人
シンガポール
2
資産保有
個人
ギリシャ
2
資産保有
伊達市
法人
中国(香港)
81
資産保有
10件
108
群馬県
嬬恋村
個人
シンガポール
44
資産保有
1件
44
神奈川県
箱根町
法人
中国(香港)
0.6
別荘(賃貸)
※第二種低層住居専用地域内の別荘敷地に隣接する土地の取引
個人
中国(香港)
0.3
別荘(自用)
※第一種低層住居専用地域内の別荘敷地に隣接する土地の取引
2件
0.9
沖縄県
今帰仁村
個人
中国
5
住宅(販売)
1件
5
合計
14件
157
注1:森林面積は小数第1位を四捨五入して表示しました(1ha未満であるものは小数第1位まで表示)。
注2:計の不一致は四捨五入によるものです。
注3:上記のほか、北海道において、平成22年に森林4haを取得した外国法人(中国(香港))が、
その全てを平成23年に外国人(中国(香港))へ売却した事例があります。

2.その他都道府県からの報告

1.の調査結果以外に、外国資本による森林買収の事例として都道府県から農林水産省に対して前回調査(平成23年5月)以降平成24年3月末までに報告があったものは次のとおりです。
【居住地が海外にある外国法人又は外国人と思われる者による森林買収の事例】
都道府県
市町村
取得主体
取得者の
住所地
森林面積
(ha)
備考
(取得年)
北海道
倶知安町
法人
オーストラリア
1
平成20年
個人
オーストラリア
0.2
平成20年
ニセコ町
法人
英領ヴアージン諸島
0.8
平成22年
法人
英領ヴアージン諸島
0.8
平成22年
法人
英領ヴアージン諸島
0.8
平成22年
京極町
個人
大韓民国
5
平成11年
合計
6件
9
注1:森林面積は小数第1位を四捨五入して表示しました(1ha未満であるものは小数第1位まで表示)。
注2:上記のほか、北海道において、平成20年に森林0.7haを取得した外国法人(中国(香港))が、
そのうちの0.2haを平成22年に他の外国法人(中国(香港))へ売却した事例があります。
【その他】
内容
件数
森林面積
(ha)
国内の外資系企業による森林の取得
2
30
注1:森林面積は小数第1位を四捨五入して表示しました。
注2:「外資系企業」は、国外居住者又は外国法人による出資比率又は国外居住者の役員の比率が
過半数を占める法人を指します。
〈参考〉
  • 平成22年12月9日付け「外国資本による森林買収に関する調査の結果について」
  • 平成23年5月11日付け「外国資本による森林買収に関する調査の結果について」
 

「水循環基本法案」のその後の調整

 問題については、調整の過程で、さらに議論を進めて個別法で対処すべきであるとされ、最終的に、一般的な理念及び、社会各主体の責務の制定、白書の作成と提出、水循環基基本計画の策定、内閣総理大臣を本部長とする水循環政策本部の設立などを規定するプログラム法として決着した。

今後の課題

 健全な水循環の確保は、今後の社会経済において、極めて重要な課題であり、とにもかくにもそれを政策統合的な視点から現状の改善を図っていくための基本法が策定されたことは素直に評価したい。しかしながら、これが、今後、現状を改善する具体的な成果につながっていくかどうかは、単なる理念にとどまらず、この法律の下で、さらに課題別に踏み込んだ個別法が制定できるかにかかっている。今回、その第1弾として、「雨水の利用の推進に関する法律」が同時に策定された。

関連Webサイト |

転載元: 汚染(水・土壌・大気・道路・心)保全 地球家族円満

[転載]中国の土壌汚染問題(1)

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[転載]中国野菜を食べてたら死ぬ「ガン発祥の土壌汚染」

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国野菜を食べてたら死ぬ「ガン発祥の土壌汚染」

中国の土壌汚染深刻、農地の19・4%で基準超

読売新聞 4月19日(土)20時30分配信
 【上海=鈴木隆弘】中国で初めて全国的な土壌汚染調査が行われ、農地の19・4%で基準を超えるカドミウム、銅などの重金属や有機物が検出され、土壌汚染が深刻なことが明らかになった。

 17日に調査結果を公表した環境保護省と国土資源省は、農産物や人体に影響を与える恐れも指摘した。

 両省は2005~13年に中国の総面積の約3分の2に当たる約630万平方キロ・メートルで重金属や有機物の汚染状況を調べた。林地や草地、建設用地などを含めた土壌全体でも16・1%が汚染された状況にあり、両省は「状況は楽観できない」と危機感を表す。

 特に経済が発展した上海市を中心とする長江デルタ、広東省の珠江デルタのほか、東北の工業地帯で深刻だった。鉱工業生産で排出される汚水や排ガスが主な原因だが、農業でも化学肥料や農薬の過度な使用が汚染を引き起こしていた。
 

中国をむしばむ土壌汚染、耕地の2割で基準値超え=カドミウム汚染が急拡大―中国紙

Record China 4月19日(土)19時41分配信
2014年4月18日、新京報によると、中国では耕地の2割弱が汚染されており、カドミウム濃度の増加率は最大で50%超に上る。

中国環境保護部、中国国土資源部は17日、「全国土壌全体調査」の結果を発表した。同調査は2005年4月から2013年12月まで8年間をかけて、中国本土の全耕地及び一部の森林、草地、未利用地、建設用地を調査したもの。調査面積は630万平方キロメートルに達する。

調査結果によると、汚染が確認された土地は調査対象の16.1%に達した。「きわめて軽度」が11.2%、「軽度」が2.3%、「中度」が1.5%、「重度」が1.1%という内訳になる。耕地の汚染は19.4%。

地域別に見ると、北方よりも南方の汚染が深刻だと明らかになった。長江デルタ、珠江デルタ、東北部工業地帯などで深刻な汚染が確認された。汚染物質としては重金属を中心とした無機物が目立つ。特にカドミウム汚染が深刻で、西南地域や沿海地域でのカドミウム汚染面積は従来調査より50%以上の増加となった。(翻訳・編集/KT)
 
 
 
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転載元: 世界遺産の吉水神社から「ニコニコ顔で、命がけ!」

[転載]ロパート・パウン号事件の歴史的意義

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石垣の唐人墓

ロバートバウン号事件
 1852年2月、厦門(アモイ)で集められた400人余りの苦力(クーリー)が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねてついに蜂起して船長ら7人を打ち殺しました。
 船はその後台湾に向かいましたが石垣島沖に座礁、380人が島に上陸。 石垣の人々は仮小屋を建て、彼らを収容しました。 しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵が上陸してきびしく捜索を行いました。
  中国人達は山中に逃亡しましたが、銃撃、逮捕され、自殺者、病没者も続出したとの事です。 琉球王朝と蔵元は人道的に対応、その後事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還。 ここで亡くなられた中国人を祭ったのが石垣島にある唐人墓です。
 
 
 
 
 
 
 

西里喜行「バウン号の苦力反乱と琉球王国 揺らぐ東アジアの国際秩序」

バウン号の苦力反乱と琉球王国.jpg榕樹書林沖縄学術研究双書。
 日本で言えば幕末の1852年。当時、西洋人の手によって半ば奴隷貿易に近い形で中国人苦力を米国西海岸に送る「苦力貿易」に携わる人買い船が太平洋を往来していた。アメリカ船籍ロバート・バウン号もその一つであり、四百余名の中国人苦力を載せて廈門からカリフォルニア州に向け航海中であったが、弁髪を切り落とし、病者を海に投げ込むという、さながら大西洋の奴隷船と変わらぬ西洋人達の虐待に耐えかねた苦力はついに洋上で暴動を起こし船を台湾に向ける。しかしかなわず石垣島崎枝村沖に漂着。琉球からみれば辺地の八重山の行政官達は、四百余名の難民の処遇と英・仏・清の絡む複雑な国際関係という途方もない難題を突きつけられることになった…
 「紳士の国」だの「不朽の自由」だの「民主主義は普遍的な価値」を標榜している国の、少し前の蛮行と日本の正義の記録。
 
 
ロパート・パウン号事件の歴史的意義

①ロパート・パウン号事件は,欧米資本主義列強の苦力貿易の実態を暴露した。事件の直接的原因がパウン号船長プレイスン(LBryson)らの苦力虐待にあったことは,広州駐在のアメリカ代理公使パーカーでさえ認めており,「きわめて遺憾なことに,プレイスン船長が苦力を虐待したという伝聞は,現在では直接的に証明されている」(1852年5月17日付の米極東艦隊司令あて書簡)と言明せざるをえなかった。広州駐在のイギリス領事パウリング(BowringSirJohn)も,1852年ごろの厘門における「猪仔館」(出港前の苦力収容所,パラクーン)の状況について,次のように述べている。-「幾百人もの苦力が猪仔館に集められ,まる裸にされ,各人の予定された目的地に応じて胸にC〔キューバ〕,P〔ペルー〕,S〔サンドウィッチ島〕などの文字を書きこまれ押印されていた」
(1852年8月3日付のマームズベリー英国外務大臣あて書簡)と。
 
②事件の直接的原因が苦力虐待にあることを自認しながらも,中国駐在のイギリス・アメリカ領事たちは,緊密な協力のもとに苦力捕獲作戦を展開し,公然と東アジアの国際秩序を侵犯した。のみならず,広州駐在のアメリカ代理公使パーカーの如きは,中国地方当局がパウン号事件関連の苦力の無罪を宣言して放免したことに抗議し,不平等条約(望厘条約)を拠りどころにして,アメリカの法律による裁判を執擁に要求した。この事実の
、、なか|こ,海外渡航を禁止する清国の法律及び東アジアの国際秩序を完全に無視して,欧米の価値基準・権威や法律(いわゆる国際法をも含めて)をストレートに東アジアへも貫徹させようとする欧米列強の意図が,すでに先駆的に暴露されているといえるのではなかろうか。
 

③イギリス・アメリカが多数の兵員を石垣島へ上陸させて苦力捕獲作戦を展開したことは,東アジアの伝統的な国際秩序に対する重大な侵犯であり,清国・日本(薩摩藩)はもちろん,当の琉球側もイギリス・アメリカの明らさまの国際秩序侵犯行為に,なんら抗議しなかったし,また抗議する能力をもちあわせていなかった。このこ
とは,すでに伝統的な東アジア世界の国際秩序維持機能が失われつつあったことを物語っているといえよう。
 
④琉球側はイギリス・アメリカの武力を恐れて,苦力捕獲作戦を黙認せざるをえず,あるいはまた慣例通りに残留苦力を福州へ護送する計画を一時中止せざるをえなかったけれども,可能な限り伝統的な国際秩序に従って事を処理し,尽そうと努力した。石垣島に一年七か月にわたって残留した苦力たちに対しても,琉球側は「該難人,実に天朝の民に係るも,今は遠く海島に在り,郷を離れて日久しく,誠に憐むくきに属す」(歴代宝案,第二集,巻194)という観点から手厚い保護を加えた。この事実は,琉球の国際意識=「国際連帯」の観点を具体的に例示するものであり,今日に継承・発展させられるべき貴重な「遺産」であるといえよう。

⑤ロパート・パウン号の苦力たちが琉球から清国へ護送された後,最終的にどのように取り扱われたのかはよくわからない。しかし,両広総督の徐広繕が広州駐在のアメリカ公使パーカーの執勘な干渉を却けて,苦力18名のうち17名に無罪を宣告したことは注目すべきである。この事実は,徐広緒のような地方当局者でさえ,欧米資本家の非人道的な「苦力貿易」に対して憤激し,ある種の「民族主義」的な感情をもつにいたったことを示しているのではなかろうか。
 
このような「民族主義」的感`情は,「苦力貿易」の拠点となった開港都市の民衆に共有され,ロパート・パウン号事件の真相が知れわたることによって,より一層増幅され,高揚させられた。たとえば,広州駐在のイギリス領事パウリングは,1852年7月16日付の外務大臣マームズベリあての書簡において,ロパート・パウン号で船長らを殺害し厘門へ連行されてきた苦力たちの散布する伝言のため,イギリス商社のハバナ向け苦力輸送に困難が生じている旨報告している。
 また,同年11月21日から24日にかけて展開された厘門民衆の苦力貿易反対運動は,「民族主義」的感情が爆発したもっとも具体的な例証であるといえよう。イギリス側は民衆暴動の拡大を恐れ,英艦サラマンダー(Salamander)の陸戦隊を厘門へ上陸させ,中国人4名を銃殺,5名以上を負傷させることによって,辛うじて民衆の苦力貿易反対運動を鎮圧したが,イギリスの苦力貿易そのものは重大な困難を被らざるをえなかった(HBMorse,“ThelnternationalRelationsofTheChineseEmpire''Vol、1.p、401-403)。 

転載元: 中国の日本侵略計画

[転載]壱岐文永の役新城古戦場。「勝負坂」・「唐人原」の地名,彼我両軍の合戦があったとされる「鯛の原」その他「高麗橋」などがそれである。また「千人塚」

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壱岐文永の役新城古戦場
元軍上陸の際の激戦地
文永の役新城古戦場
よみがな指定年月日所在地管理・保護団体最寄り駅
史跡(県指定) 
ぶんえいのえきしんじょうこせんじょう
1975年01月07日
壱岐市勝本町新城東触
壱岐市
新城橋下車 徒歩5分
元寇の際,壱岐には元軍が上陸して暴虐の限りをつくした。勝本町内には,とくに文永の役(文永11年1274)に関する伝承の地が少なくない。元軍上陸の地,古戦場跡とされる地などがあり,「勝負坂」・「唐人原」の地名,彼我両軍の合戦があったとされる「鯛の原」その他「高麗橋」などがそれである。また「千人塚」といわれる石碑もある。これらを便宜上一括して,町内の一角に表題の標柱をたて,史跡として顕彰している。


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転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る


[転載]壱岐・対馬の無残

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壱岐・対馬の無残
 『日蓮註画讃』
 『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害。』

 「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし。」
 また、『一谷入道御書 建治元年五月八日』にも
 「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし。」
 日本人を拉致してきたことは、高麗側の記録にも残っている。
 帰還した高麗軍の将軍が、2百人の男女の子供を高麗王とその妻に献上したと。
 『高麗史節要』
 『俘童男女二百人献王及公主。』
 また捕らえた女の手に穴をあけて徹したことの記述であるが、
『日本書紀天智帝二年紀』に、『百済王豊璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。』
「百済王豊璋は、鬼室福信に謀反心があるとして、手のひらに穴を穿って革紐をとおして縛った。」

 とある。
 百済の時代にもあった朝鮮半島伝統の風習らしい。

 興味あることに、現代においてもそれがかの国には残っていることが韓国の新聞に報道されている。(

 朝鮮日報2002/4/24付
 それによれば、2002年4月16日に中朝国境付近の中国側で、北朝鮮の保安員(警察)が脱北者100人余りの集団を連行する姿を、あるアメリカ人が目撃したという。脱北者たちのほとんどは30~40才代の男性で、20代の女性や年寄りの女性や子供も何人かおり、彼らは、手に針金を突き通され、さらに鼻にリングを刺してそれも針金に通された姿だったと言う。保安員等はトラックの荷台に彼等を乗せ、その時、針金をトラックに結わえ付けていたという。

 まことに、想像するのも寒気がする光景である。拉致と残酷行為は、あちらの文化なのであろうか。
 先の『高祖遺文録』は、
 『皆、人の当時の壱岐対馬の様にならせ給わん事思いやり候へば、涙も留まらず。』と結んでいる。
 
 
 
 
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鎌倉時代の日本は、2度にわたるモンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。
 1274年(文永11年)、蒙古兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦に殺到した。
 この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃したが、圧倒的な兵力差により勇戦及ばず全員玉砕した。『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが文永の役である。
 1281年弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古兵15,000人、高麗兵10,000人、水夫等17,000人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋兵100,000人主体の江南軍であった。
 弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。『八幡愚童記』正応本には、
其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。
と記されており、とくに高麗兵の残虐性を詳細に伝えている。
  • 日本の文永11年・元の至元11年10月(1274年11月)に、都元帥・忽敦[29]、右副元帥・洪茶丘左副元帥・劉復亨らの率いる蒙漢軍および金方慶らが率いる高麗王国軍、操船要員を含む3〜4万人を乗せた大小900艘の船団が朝鮮半島の合浦(現在の大韓民国馬山)を出発した。
  • 元軍は10月5日午後四時頃に対馬小茂田浜に上陸する。対馬守護代宗資国は八十余騎で応戦するが戦死し、元高麗連合軍は対馬全土を制圧後、1週間にわたって全域を蹂躙した。同日、対馬佐須浦から小太郎・兵衛次郎が出航し博多へ知らせた。
  • 文永の役から翌々年に書かれた日蓮の書簡によると伝聞として、この時民衆を殺戮し、生き残った者(主に女)の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめや矢除けにしたという。
  • 高麗の将軍・金方慶が帰還後、文永の役で捕虜とした子供男女200人を高麗王忠烈王と妃のクビライ公主、クトゥルクケルミシュに献上したという記録が、高麗側に残っている。
 
 
1274(文永11)年10月総兵力2万5千人、900隻の大船団をもって対馬を侵略した。宗家初代当主、宗資国【すけくに】<助国>はわずか80余騎でこれを迎え打ち小茂田浜で奮死した。
 壮絶な死をとげた資国公の墓所は、740年を経た今日、お胴塚、お首塚として、それぞれ別のところに伝承されている。
 
 
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御首塚
 
 
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平景隆

 平 景隆(たいら の かげたか、生年不詳 - 文永11年10月15日1274年11月14日))は、鎌倉時代中期の九州の武士。壱岐国守護代。贈正四位。通称は内佐衛門。平経高平景高とも。
 
 壱岐国の守護少弐氏で、景隆はその家人であったと考えられる。『八幡愚童訓』によれば、文永の役の文永11年(1274年)10月14日申の刻(午後4時から6時頃) 、蒙古軍が壱岐島の西岸に上陸すると、景隆は百余騎の武士を率いて馳せ向かい、庄三郎という者の城の前で矢を射かけて蒙古軍を迎え撃った。
 しかし圧倒的大軍で押し寄せる蒙古軍にたちまち追い詰められ、景隆らは守護所の詰城である樋詰城に立て籠もった。日没とともに蒙古軍は船団に引き上げ、翌日景隆が篭る樋詰城を攻撃、景隆一同は城中で自害した。景隆の下人の宗三郎が博多へ渡ってこのことを報告した。景隆の自害により蒙古軍は壱岐を制圧し、多数の島民が殺害された。
 
 明治維新後、全国的に忠臣の顕彰運動が高まり、刀伊の入寇弘安の役の戦死者とともに新城神社長崎県壱岐市勝本町)に祀られた。1896年(明治29年)10月23日、正四位を追贈された。
 
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転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る

[転載]元寇750年イベントにご意見募集(転載歓迎)

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元寇を忘れるな!
元寇750年イベントにご意見募集
 
1274年から数えて、2024年は、750年目に当たります。
 
ご意見を募集します。
 
 
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元寇七〇〇年平和之碑
 
 
 
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元寇六五〇年 対馬 小茂田神社の鳥居
 
 
 
 
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助國忌
 
 
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壱岐 新城神社 元寇三〇〇年記念植樹碑
 
 
 
 
 
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元寇750周年イベントに対するご意見
※下記のことをして欲しいと思います。
<対馬>
・対馬厳原 元寇上陸地 小茂田神社における元寇750年平和記念碑建立
・       御胴塚 御首塚の整備
 
<壱岐>
・島内各所に散在する千人塚の整備
・少弐の墓の整備
 
<長門>
・元寇上陸地点標識整備
 
<鷹島>
・世界史上最大の海軍が集結した状況の再現
 
 
※ご寄付受入れ先
<対馬>
・小茂田神社、御胴塚、御首塚、対馬市
<壱岐>
・壱岐神社、少弐の墓前、各千人塚
 
 
 
 

転載元: 海洋文化交流のブログ

第一次元寇・ 文永の役 赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為

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元寇・文永の役(上) モンゴル・朝鮮軍が日本で行った“殺戮”…それでも日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」
2014.6.8 07:00(1/3ページ)関西歴史事件簿
元寇での福岡・鳥飼潟の戦いを描いた図
元寇での福岡・鳥飼潟の戦いを描いた図
 今から740年前、中国全土をほぼ手中にし、日本も従属させたいモンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは朝鮮半島を治める高麗と連合で3万以上の兵を派遣する。元寇(げんこう)と呼ばれる日本本土が2度にわたり侵略を受けた事件である。対する日本は鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、兵力の差もさることながら、集団戦法と未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。

 

 フビライは武力による日本進攻を決意。軍船を造るにあたって、文永11(1274)年1月、戦艦300隻など軍船の建造を高麗に命じている。
 平成23年、長崎沖の海底から弘安4(1281)年の2度目の元寇で使ったとみられる沈没船が見つかっている。ほぼ完全な状態だったため復元してみると全長が27メートルに及んだ。
 これは当時の海外渡航用の貿易船と同じ構造で、一隻で100人程度の兵士が収容できる規模だったといい、1回目の進攻作戦でもこのような船を求めたことだろう。
 だが、日本に大船団を出すのに風向や潮の流れなどを考えると、建造期間は半年しかなく、元が派遣したホン・タグの指揮の下、高麗は約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫に次ぐ突貫の作業だったという。
 その様子は、「疾(はや)きこと雷電のごとし。民、これに苦しむ」などと表現されている。
 
 連合軍の船は、戦艦のほか上陸用舟艇、補給船などからなり、日本近海は巨大なマストがたなびく、おびただしい数の軍船で埋め尽くされていた。
 時宗も高麗へ送り込んだスパイから間もなく攻めてくることを察知し、上陸が予想される九州北部の日本海沿岸に兵を配するも、まずは数で圧倒されることになる。
 10月5日、対馬の小茂田浜に上陸した元・高麗連合軍により、島を守る対馬守護代、宗資(助)国ら80人の兵や島民はことごとく殺害される。
 壱岐でも惨殺を繰り返し九州沿岸に迫ってきた連合軍に16、17の両日、肥前・松浦や平戸島、鷹島などが次々に攻められ、討たれた兵の数は数百にのぼったともいわれている。
 対馬、壱岐での敗戦の報に接した御家人らはただちに九州の拠点・大宰府へ向かい、その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)の3男、景資(かげすけ)を総大将に集まった兵は約1万人。
 だが、元・高麗連合軍の動きは早く、20日に主力部隊の博多上陸を許す。3方から上陸する兵力は2万人
 
 
 
 
 
元寇・文永の役(中) 赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為
2014.6.14 07:00(1/3ページ)関西歴史事件簿
手に穴を開けられる女性の姿が描かれている「蒙古襲来絵図」
手に穴を開けられる女性の姿が描かれている「蒙古襲来絵図」

 九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺すなどやりたい放題。また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も数限りなかった。

 

侵略される町々
 文永11年10月20日、船で博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵は早朝を期して上陸を始めた。日本側は鎌倉・北条時宗と京都へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置き、至急集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えた。
 最初に戦闘状態に入ったのは午前10時ごろ。場所は上陸地点のひとつ、百道(ももち)原をさらに進んだ麁原(そはら)。相手はキム・バンギョン率いる高麗軍約4500人で、迎え撃つ日本側は約1300人とも。
 前日に元軍のホン・ダク率いる先遣隊が占拠した小高い「麁原山」周辺をめぐる攻防戦とみられるが、数で劣るのに単独で突っ込んでいく日本に対し、鉄炮などの新兵器と集団戦を展開する高麗軍にじりじり押される。
 ここで菊池武房らは約3キロ東の赤坂に撤退することを決め、途中に湿地帯が広がる鳥飼潟へ高麗軍を誘い込む。すると、術中にはまった高麗軍はぬかるみに足をとられて思うように進むことができず、戦闘は膠着(こうちゃく)状態に陥る。
 一方、元・高麗連合軍約5400人に上陸された箱崎には島津氏、少弐氏、大友氏などから1000人しか動員ができず、いきなり劣勢に立たされる。
 
 
鳥飼潟の戦い 日蓮像=京都市上京区の妙蓮寺  フビライ・ハーン 元軍の侵攻ルート
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 当時の高麗の様子についてもこのように書かれている。
 《働き盛りの男は船の建造にとられ、兵士の多くは戦いで負傷したほか、帰国中の暴風雨で溺死したため今では国内には老人と子供だけ。しかも日照りなどが続き稲も実らず、草や葉で飢えをしのいだ》
 30年間にわたる抵抗も及ばず、1259年に元の支配下に置かれると、属国としての道を歩むことになった高麗の悲哀を物語る話である。
 当時の高麗王の忠烈王は高麗が元に帰属した後、人質として皇帝、フビライ・ハンの下で長年暮らし、フビライの娘を夫人に迎えるなど、“モンゴル一族”に変心して帰国している。
 そして、フビライに日本侵略を進言したのも忠烈王だったともいわれ、王はそのときの助成も買って出たのだという。
 
 7年後の1281年、第一回の4倍の16万の兵をもって再び日本を攻める。
 一方、鎌倉幕府は元寇来襲に備えて今回、戦場となった周辺に防塁を築き、兵力を増強する。またこの戦いで焼失した筥崎(はこざき)宮が再建されると、亀山上皇が「敵國降伏」の扁額を納めるなど各地で元寇退散の機運が高まった。
 
 

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外国人客2000万人 目標達成へさらに知恵を
2014.7.27 03:05主張
 日本を訪れる外国人旅行者は昨年初めて1千万人を超えたが、今年はさらにそれを上回るペースで増えている。
 日本政府観光局の推計だと、今年上期(1~6月)の外国人客数は前年同期比26・4%増の約626万人で、上期としては過去最高だった。
 政府は、東京五輪開催の2020年には、来日客数を年2千万人とする新たな目標を掲げているが、その達成はいよいよ現実味を帯びてきたといえる。
 富士山の世界文化遺産に続いて、和食が無形文化遺産に登録されるなど、日本に対する世界の関心は高まっている。「観光立国」を成長戦略の一環と位置づける政府は、この機を逸することなく知恵を絞るべきだ。日本経済の底上げに結びつけてほしい。
 外国人客が増えている背景としては、円安傾向の継続に加え、昨年7月にタイやマレーシアなど東南アジア向けのビザ発給要件が大幅に緩和されたことが大きい。海外と結ぶ格安航空会社(LCC)の路線が増え、3月から羽田空港発着の国際線が拡充されたことも追い風になっている。
 ただ、「2千万人達成」を確実にするには、東京や京都など主要都市に集中しがちな訪問先を地方にも誘導するなど、知られざる多様な日本の姿を積極的に紹介していく態勢づくりが必要だ。
 沖縄県では今年上期の外国人客数が40万人を超え、前年同期比で1・7倍にもなった。台湾に加えて韓国や中国本土、香港などに地理的に近い立地を生かし、外国人客の積極的な誘致に取り組んできた成果だが、離島でのダイビングなど外国人客呼び込みの観光資源掘り起こしも奏功した。
 観光立国の実現には、こうした地域の取り組みに加え、国を挙げての支援が欠かせない。
 政府は、インドネシア、フィリピン、ベトナムでもビザの発給要件の緩和や免除を行う方針だ。これまでの実績を参考に、着実に進めていくことが重要だろう。
 今年10月からは、消費税の免除対象を食品や酒、化粧品などにも広げ、大都市に集中する免税店も全国的に増やすという。
 観光産業は、交通から宿泊、物販、飲食まで裾野が広く、経済の波及効果が大きい。とりわけ、人口減や経済の低迷に悩む地方への観光客誘導は、その意味でも最優先すべき政策課題だ。
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