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[転載]南京虐殺は嘘32 嘘吐き安全区国際委員会、組織ぐるみで嘘を吐いていた背景

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これまでに述べてきたように、国民党国際宣伝処からカネを受け取っていたティンパレーや国民政府の顧問だったベイツなどが、南京虐殺のデマ宣伝をしたのは当然だろう。

しかし、ベイツ以外の安全区国際委員会メンバーも、出鱈目な報告や抗議によって日本軍の犯罪をデマ宣伝していた。

何故か。

南京の「安全区」だが、もともと、外国人(白人)と支那人の富裕層が住む地区だった。
「安全区」は、白人の会社・大学・病院・教会などの資産やその住居、そして富裕支那人や支那官僚・高級軍人の住居が集中した地区だった。

しかし、南京戦が近づくと、白人と金持ち支那人たちは、その地区を離れ、上海などに脱出した。
替わりに、「安全区」(南京の高級住宅地街)に流入して来たのは、南京を脱出することも出来ない超貧乏支那人と脱走支那兵(盗賊)だった。
主(あるじ)が居ない「安全区」(南京の高級住宅地街)の白人や金持ち支那人の資産は、たちまち貧乏支那人や脱走支那兵(盗賊)によって破壊・掠奪されまくった。

「安全区」を発案・管理していたラーベやベイツら安全区国際委員会のメンバーの責任は重大であった。
しかし、15人の安全区国際委員会が、支那人達の掠奪を抑えられる筈がない。
安全区で、南京を脱出できなかった貧乏支那人避難民や脱走支那兵(盗賊)どもが、南京を脱出した金持ちの資産を略奪しまくっている事実を目の当たりにして安全区国際委員会のメンバー達は、青ざめて頭を抱えていた。
彼らにしてみれば、白人や金持ち支那人の資産を掠奪した犯人が、「安全区」に避難して来た支那人たちでは非常にマズイ。
何とかして、この事実を隠匿しなければならない。
それには、全てを日本軍の仕業に転嫁するのが一番だった。
日本軍が入城する何日も前から起こっていた貧乏支那人と脱走支那兵(盗賊)による掠奪などの犯罪だったが、日本軍が入城すると、安全区委員会は日本軍の犯罪だとして一斉に外部に発信した。

全ての掠奪を日本軍の仕業に転嫁する以上、混乱の中で生じた強姦や殺害も全て日本軍の仕業にしなければ不自然だ。
安全区国際委員会としては、とにかく、日本軍入城後、日本軍が安全区などで、ありとあらゆる極悪非道を行ったことにして、自分たちが責任を免れなければならなかった。
だから、日本軍入城後、ベイツはダーディンなどの新聞記者にメモ(レポート)を渡したり、他のメンバーたちも自国領事館に書簡で報告したり、日本大使館に抗議文書を送って、安全区における日本軍の大規模犯罪のデマ宣伝をしまくった。


日本軍関係者は、安全区委員会から発信される報告や抗議文書により、掠奪などの大規模な犯罪の発生を知り、懸命に犯人を探すが、なかなか判らない。

判らないのは当然である。


以上が、いわゆる「南京事件」の真相であり、これで全ての辻褄が合う。




(参考)

民国26年、南京のバテレン
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/tyousa03/nank4.htm







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転載元: 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現


[転載]学校で教えない歴史(日清戦争と明治天皇)

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           日清戦争後、靖国神社に行幸される明治天皇
 
学校で教えない歴史(日清戦争と明治天皇)
 
シナの軍事力が大きく日本は小さい。かつて日本国民は屈辱に堪えていました。
明治19年、長崎に清国の定遠(ていえん)はじめ大きな軍艦4隻が長崎に入港してきました。そして500人のシナ水兵が勝手に上陸して掠奪や婦女暴行を起こしました。しかし、当時、強大な軍事力で日本を威圧してくる清国に対して日本は手も足も出ない有様で、この長崎事件では多くの日本国民は悔しい思いをしました。
 
この事件から日本は近海の沿岸防備と清国に対抗できる強力な海軍を持つことが国家の課題となりました。しかし海軍予算は軍艦建造費にしか回せず、沿岸防備の予算はありませんでした。
この時、明治天皇は沿岸防備のために皇室費を節約して30万円を拠出しました。陛下のこの話が伝わると、地方長官は国民に海防費の献金を呼び掛けました。すると危機意識を持っていた国民から200万円もの大金が集まりました。最近ではシナの尖閣での暴挙に対して石原都知事が尖閣購入の寄付を国民に募って15億円が集まったことがありました。
これにより、沿岸に大砲を備え付けることが出来ました。
 
一方、大小艦艇は25隻しか建造できず、清国には到底対抗できない状態でした。これに対して明治天皇は「皇室費から6年、毎年30万円ずつ、総額180万円を下付するから、役人も給与の10分の1を出すように」と仰せられました。これにより貴族院議員も自発的に年棒の4分の1を製艦費に上納しました。
そして、ついに日清戦争となりました。
 
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明治天皇は戦争がはじまると広島に大本営を移され、前線から入る情報を聞かれて戦地で戦う将兵を偲んでおられました(上画像)。
しかし宮内省はこれでは陛下が窮屈であると思い、休息のために安楽椅子を御居間に運ぼうと伺うと明治天皇は「戦地に安楽椅子が備え付けてあるか。将兵は野に山に草をしとね、石を枕に困苦をなめている。将卒の身の上を思えば左様なことは出来ぬ。出征兵士が生命を犠牲にして困苦しているのにくらぶれば、ここの不自由など何でもない」と仰せられました。
 
12月になってストーブを取り付けようとすると「朝鮮や満州の地はこの地と較べて寒気はどうか。あちらにも暖炉があるか」と仰せになり、さらには戦死者の名簿が戦地から届くと、たとえ夜中でも一人一人の氏名をご覧になられ、なかなかお休みになられませんでした。
 
東日本大震災で天皇陛下は御所内の計画停電に励行されました。あまりの寒さに側近が両陛下のご体調を心配しても「被災地で苦しんでいる人々と困難を分かち合いたい。寒さは厚着をすればしのぐことが出来る」と仰せられました。国民とともに苦楽を共にするお姿は歴代天皇から受け継がれているのです。
 
伊藤博文が明治天皇の昼食時に緊急の案件を奏上した時、陛下が召しあがっているものには汁物も付け合わせもなく、米を梅干しで召し上がられていました。将兵が陛下の食事を見る機会がないが、誰が見ていなくても兵のことを考えている陛下の御姿がありました。
 
明治天皇のご滞在が相当に長くなると、昭憲皇后がご心配のあまり広島へ出向かれました。しかし明治天皇は「兵士たちは妻子と別れて出征して第一線で戦っている、自分も皇后と会うわけにはいかない」と仰せられて会われませんでした。
日本が強い理由がここにあるのかもしれません。
 
陸軍は「成歓の戦い」や「平壌の戦い」で一方的な勝利を収めました。
成歓の戦いではラッパ手・木口小平(きぐち こへい)が口にラッパを加えたまま戦死した話を修身(道徳教科書)に掲載しました。
海軍も「黄海海戦」で旗艦「松島」など4隻が大破しましたが沈没した艦はなく、清国の北洋艦隊は5隻沈没、6隻大破、2隻が暗礁に乗り上げ動けなくなり、ついに日本が勝利しました。黄海海戦では唱歌『勇敢なる水兵』として後々まで語り継がれることになりました。
この二つの話は戦前には知らない日本人はいませんでしたが、戦後はこういう話は教えないために知る日本人はほとんどいなくなりました。
 
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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

[転載]◆ 映画「南京の真実」 - 製作支援のお願いとご支援の状況

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◆ 映画「南京の真実」 - 製作支援のお願いとご支援の状況 3/12 up!
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◆◇ 映画のDVDについて ◇◆
ご支援いただきました皆さまには、映画「南京の真実」DVD を1口につき1枚、進呈させていただきます(全3部作の中から1つをお選びいただきます)。
映画「南京の真実」製作委員会 / (株)チャンネル桜エンタテインメント
  〒105-0002 東京都渋谷区渋谷1-1-16
  TEL 03-5464-1937 / FAX 03-5464-1948
  公式サイト http://www.nankinnoshinjitsu.com/
     スタッフブログ (上映会のスケジュールや各種お知らせなど)
   http://www.nankinnoshinjitsu.com/blog/
 

転載元: tearface

[転載]【貴重写真】『南京大虐殺』は捏造だった!…南京の本当の写真

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123名無しさん@13周年2013/12/03(火) 18:38:51.68 ID:a3WwuDBQ0
「南京大虐殺」は捏造だった

中国兵たちの悪行に辟易していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。
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これは日本軍の入城式の日(1937年12月17日)に、食糧やタバコの配給を受け、
歓声をもって迎える南京市民ら。市民がつけている日の丸の腕章は、民間人に化けた
中国兵ではないことを証明するために、日本軍が南京市民全員に配ったものである
(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)



 

南京市民に食糧等を配る日本兵たち。(イギリス系新聞
「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」1937.12.24付 南京占領の11日後)
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南京市民と楽しく会話する日本兵ら
(1937.12.20撮影 南京占領の7日後 支那事変写真全集1938年刊)
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日本軍による南京占領5日目の朝日新聞
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(右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。
(中上)南京に戻ってきて畑を耕す中国人農民。
(中下)平和になって南京に戻ってきた中国人ら。
(左)中華街の名物、街頭床屋。子どもも大人も手製の日の丸の腕章をして笑っている。
(朝日新聞 1937.12.18付)

http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm


127名無しさん@13周年2013/12/03(火) 18:41:38.10 ID:a3WwuDBQ0
>>123
(つづき)

南京占領8日目の朝日新聞。タイトルは、「きのうの敵に温情《南京城内の親善風景》」
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(右上) 治療を受けている中国傷病兵
(左上)日本軍将兵の情に食欲を満たす投降兵
(真ん中)中国人のお店で買い物をする日本兵ら
(右下)山田部隊長と語る敵の教導総隊参謀、沈博施小佐
(左下)南京城内でくつろぐ中国人市民ら
(朝日新聞1937.12.21付)


南京の病院の中国負傷兵と看護する日本兵
(ノースチャイナ・デイリー・ニュース 1937.12.18付 南京占領の5日後)
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中国負傷兵を看護する日本の衛生兵
(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)

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「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。
日本兵や日本人を恐れていなかった」
(カメラマン佐藤振寿氏。南京占領の2日後 1937.12.15撮影 南京安全区にて)

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日の丸の腕章をつけ、通りで野菜を販売する南京市民(1937.12.15 南京占領の2日後)

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疫病防止のため南京市民に予防措置を施す日本の衛生兵
(南京占領の7日後 1937.12.20林特派員撮影 朝日グラフ 1938.1.19刊)

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日本兵から菓子をもらって喜ぶ南京の家族
(1937.12.20撮影 朝日版支那事変画報1938.1.27刊)

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214名無しさん@13周年2013/12/03(火) 20:20:13.24 ID:xrm2Qb4X0
南京事件関係の写真の真偽を検証する本を見ていたら、面白い話が出てた。

反日謝罪活動をしている、元日本兵中国帰還者連絡会(中帰連)の本に
掲載されていた、南京の建物の前に並んで写る、足を切断し、松葉杖を
ついた中国兵10名ほどの写真。いっしょに腕章をした日本兵も並んで写っている。

中帰連の解説では「日本軍に足を切断され、逃げられなくされた中国兵」。

ところが、この写真の原板が新聞社で見つかり、写真にしたところ驚くべきことが・・・・
写真の中国兵の背後の建物には大きく「衛生隊」の文字があったのに、
中帰連の本ではこの「衛生隊」の文字が意図的に消されていたのだ。

実際は、「日本軍衛生隊」に治療を受ける中国兵だったわけだ。
これが中帰連の正体というわけだ。


122名無しさん@13周年2013/12/03(火) 18:36:13.18 ID:a3WwuDBQ0
これまで本名で南京大虐殺を証言をした者は、ことごとく嘘であったことが確認されている


□ 東史郎   
一番有名な捏造者。 原本が存在しない創作をバラまいた。 中国は未だに真実扱い。

□ 中山重夫  
戦車段列から処刑を見たと吹聴していたが、場所と時間がコロコロ変わったので嘘がばれた。

□ 富永博道  
当時は学生だったのに、自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。 経歴照会で嘘判明。

□ 舟橋照吉  
東の懺悔屋成功に便乗し日記を捏造。 仮想戦記な内容であっさり×。

□ 曾根一夫  
野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵下士官だと経歴と日記を捏造。 経歴照会で嘘判明。

□ 田所耕三  
強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。
後に捏造を告白。

□ 太田壽男  
死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記 ( 捏造物の数々と違い、原本が確認できる )
により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった。

□ 富沢孝夫  
海軍の暗号兵で、「 松井軍司令官の虐殺をいましめる暗号を傍受・解読した 」 と証言。
だが海軍の彼が陸軍の暗号を解読するのは不可能で、しかも証言日時に松井司令官は
蘇州で入院。

□ 上羽武一郎  
「 上官命令で強姦虐殺放火 」 と証言。 
が彼は後方担架運びの衛生兵で、命令が出たとの史料もない。


このように、偽証言 ・ 偽手記 ・ 改竄記録が多く出回っている。
以下は、検証を受けるまでは堂々と真実として喧伝されていた、偽記録等の特徴。


■ 原本が確認できない。 実物を絶対見せない。

■ なぜか南京戦前後だけ詳細に記録。 
しかも矛盾点や他の一次史料との乖離が異常に多い。

■ 記録者証言者本人の経歴が実際と違う。

■ 「 日本や日本軍は懺悔しろ! 」 と糾弾するが、
自身は償いに私財を投じることはなく、出版や講演で儲けている。


関連おすすめ記事

【動画】南京日本兵の証言
 
 
こんな記事もあります
みんながどういう記事を書いているか見てみよう!
2013/12/19(木) 午後 4:09
... 「日本兵が記録した南京大虐殺」 是非、これらの動画を検索して観てください。旧日本兵が自らの加害を証言し、当時の日記や陣中日誌にも虐殺を記録していますよ。 ... 雑誌社の特派員やカメラマン、その他占領直後、南京に入城した西条八十、草野心平 ...
2013/12/19(木) 午前 0:28
... 1937.12.24付 南京占領の11日後)  南京市民と楽しく会話する日本兵ら (1937.12.20撮影 南京占領の7日後 支那事変写真全集1938年刊)  日本軍による南京占領5日目の朝日新聞 (右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。 ...
2013/12/18(水) 午後 8:34
... 1937.12.24付 南京占領の11日後)  南京市民と楽しく会話する日本兵ら (1937.12.20撮影 南京占領の7日後 支那事変写真全集1938年刊)  日本軍による南京占領5日目の朝日新聞 (右)武器も持たず中国人から買い物をする日本兵。 ...

転載元: tearface

[転載]東京裁判史観から脱却する時がやって来た

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 安倍第二次政権が順調な滑り出しを見せ、日本を取り戻す期待が膨らむなか、それに苛立つ中韓の反日近隣諸国とそれに呼応する、より正確に言えば、それに火を付けて煽ろうとしている日本国内の反日勢力の動きが益々活発になってきた。

彼等は安倍首相の中韓に対して妥協しない姿、中韓を除く世界各国に精力的に積極的平和主義を説いて回る姿に苛立ちを覚えているのである。

 そんななか、明日決着する東京都知事選での百田氏の応援演説、籾井NHK会長の慰安婦問題を巡る就任記者会見の発言は反日メディアにとって格好の餌食であった。

そこに、今度はアメリカが日本に難癖を付けて来た。
南京大虐殺は無かった、米軍による東京大空襲や東京裁判は間違っていたという百田発言は「非常識」だというのである。

 先の大戦、大東亜戦争は侵略戦争ではなかった、アメリカの戦略によって戦争に追い込まれたという歴史解釈がいま次第に日本国民の中に浸透しつつある。
安倍晋三首相の「戦後レジームからの脱却」は実はまさしくそのことを指しているのである。

日本が一方的に悪かったという自虐思想の足枷から解放されて、正しい歴史認識が広まりつつある。
その歴史認識が中国や韓国、そして同盟国のアメリカをまごつかせている。

今ベストセラーになっている「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」(加瀬英明、ヘンリー・S・ストークス共著)はまさしく、あの大東亜戦争を総括する本である。(次回ご紹介予定)

産経ニュース(2014/2/8)
百田氏発言「非常識」 米、東京裁判批判に反論 「地域の緊張あおる」

 NHK経営委員を務める小説家の百田尚樹氏が東京都知事選の応援演説で、米軍による東京大空襲や原爆投下を「大虐殺」とした上で、第2次大戦後の東京裁判を批判したことについて、在日米大使館(東京都港区)の報道担当官は8日、「非常識だ」と批判した。米政府の公式の統一見解としている。
 担当官は、百田氏の発言について「非常識だ。米政府は、責任ある地位にある人物が(アジア)地域の緊張をあおるような発言を控えるよう努めることを望む」と述べた。
 百田氏は3日、都知事選の応援演説をした際、東条英機元首相らA級戦犯を裁いた東京裁判について、「大虐殺」を「ごまかすための裁判」と主張。南京大虐殺に関しても「38年に蒋介石がやたらと宣伝したが、世界の国は無視した。そんなことはなかったからだ」と発言した。(共同)

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転載元: 反日勢力を斬る(2)

[転載]捏造された南京虐殺 ~ 東京裁判

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  戦後の東京裁判はOSS(アメリカ戦略情報局)が深く関わっていました。このOSSは戦時中から日本の敗北を前提に日本の軍事的壊滅と社会の攪乱を目指した「日本計画」を作っていました。 戦後、連合国はナチス・ドイツのユダヤ人迫害を「人道に対する罪」という事後法で裁くことが出きると考えていましたが、日本にはそのようなものはない。そこでその方策を「日本計画」の一環としてOSSが任されることになります。

  その基本案を作ったのがチャールズ・ケーディス大佐で、彼はOSSの欧州担当で共産主義者です。彼は日本をドイツと同じように犯罪国家にしたてようと画策しました。戦後、GHQの民政局の課長となり、局長コートニー・ホイットニーの下で日本を破壊する工作を行います。憲法もケーディス大佐が中心に推し進めたものです。

  GHQは神道指令で「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と名称をあらため、昭和20年12月18日から日本の新聞各紙で「太平洋戦争史」という日本軍断罪の連載をはじめ、ここではじめて「南京虐殺」が登場します。この「太平洋戦争史」は以前にOSSによって「平和と戦争」という記事で前もって作られていたものでした。

  この南京虐殺のもとは支那の国民中央党宣機構の顧問だったティンパリーがつくったプロパガンダで、これにOSSが飛びついたわけです。

  しかし、さすがに東京裁判ではナチスのような共同謀議、共同計画によって部下に残虐行為を命令した、許可したという事実は何一つ出てきませんでした。検察側もこれには参り、上海派遣軍司令官だった松井大将の訴因1から54までは無罪とし、第55のみ有罪として死刑としたのです。

  松井被告に対して多数判決は「・・・これらのできごとに対して責任を有する軍隊を彼は指揮していた。これらのできごとを彼は知っていた。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務も持っていた。同時に、その権限ももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任がある」というものです。

  南京虐殺そのものが捏造であるのに加えて「不作為」の責任というものが過度に拡大解釈され、松井大将は死刑となりました。
  東京裁判の南京事件の判決文の中には殺害した人数が3通りもあり、一方では20万以上、一方では10万人以上となっています。なんというデタラメでしょうか。判決文は判事が書いたものではなく、別途判決の起草委員会が作成したもので、公判中に指摘された誤りは訂正されずそのまま使われています。判事たちは判決文を論議するために召集されたこともありませんでした。結論ありきの世紀のインチキ裁判であり、そこで南京虐殺はでっち上げられたのです。


参考文献
  「歴史通」WiLL2010.1 『戦争犯罪人という烙印』田中英道
  「パール判事の日本無罪論」田中正明著
  「南京事件の総括」田中正明著
  「秘録 東京裁判」清瀬一郎著
参考サイト
  WikiPedia「チャールズ・L・ケーディス」
添付画像
  松井石根(PD)


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転載元: かつて日本は美しかった

[転載]韓国軍のチグハグな軍事力整備 欲しがる自衛隊の「ガム」

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韓国軍のチグハグな軍事力整備 欲しがる自衛隊の「ガム」

2013.9.7 09:01(産経)日韓関係
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韓国初のイージス艦「世宗大王」の進水式。世宗大王とは15世紀に日本の対馬を侵略した国王であり、事ほど左様に韓国は日本を意識している=2007年5月25日、韓国・蔚山(AP)
 
 軍の装備は、自国の置かれた安全保障環境や財政状況などで普通は決まる。だが「韓国軍は自衛隊を観(み)て決める」との観測が、一部専門家に根強い。自衛隊と同レベルの装備を、緊急・必要性が希薄でも、財政が苦しくとも、最短期間で断固配備する、というのだ。韓国軍人ながら、米韓協議で米諜報機関員となった韓国人は、小欄に「大人が噛(か)んでいるガムを欲しがる子供」に例えた。
 
 憧(あこが)れやライバル心がそうさせるのなら、放っておけばよい。日本を仮想敵と扱うのも韓国の判断。ただし、朝鮮半島有事における日米韓の不協和音=利敵行為や、韓国軍のチグハグな軍事力整備は米軍や自衛隊の足を引っ張り、戦局を危うくする。半島有事が確実に飛び火するわが国としては、迷惑この上ない。
 

チグハグな兵器体系
 この際、韓国の伝統的仮想敵で地続きの隣国・北朝鮮の旧式装備が占める海空軍に対し、遠征艦隊防衛もこなす最先端兵器イージス艦や、かつてのソ連、海空軍大国を目指す中国を圧倒してきた海空自衛隊並みかそれ以上の潜水艦・4世代戦闘機の数が必要か否は問わない。韓国のEEZ=排他的経済水域が日本の10分の1である背景も問わない。
 
 精強な兵器を求める姿勢は国家や軍として当然で、日本が55年体制下「周辺諸国の脅威になる」と、強い攻撃力や長射程を有する兵器の保有を、限度を超えて自制してきた愚こそ批判されるべき。国際社会での地位・経済が向上すれば、シーレーンを自国で守る責任や、インド洋での海賊対処のように、国際社会の要請による遠洋活動も避けられぬからだ。
 そこを理解して尚、韓国軍の兵器体系・編成には首をかしげる。例えばイージス艦。2008年以降、韓国海軍は2隻を就役させた。3隻目が試験運用中だが、海上自衛隊と同じ6隻態勢を目指すとの情報もある。しかし、軍の成長過程には段階がある。中国の場合、海空軍が軍事的合理性からは到底考えられぬ脅威的速さで戦備を整えている。ただ、韓国軍の踏んできた段階は、速さといい順序といい、中国軍でさえ躊躇(ちゅうちょ)する破天荒が際立つ。
 そもそも、沿岸海軍だった韓国海軍が、外洋海軍化構築構想を策定したのは1995年。イージス艦が将来取得兵器として正式に認められたのもこの年だった。早くも2004年には建造を始める。
 
 外洋海軍を目標に掲げると同時にイージス艦導入を決めた“英断”には驚かされる。「研究」は1985年着手というが、韓国海軍の、特に当時の技術力でどの程度の「研究」が蓄積されたのだろうか。
 

イージス艦有す沿岸海軍
 しかも韓国海軍は現在、1万トン超のイージス艦を含め200隻もの艦艇を保有するが、1隻あたりの排水量は1000トンに満たない。150隻の海自は4500トン前後。韓国海軍がいまだ沿岸海軍を脱皮できない証左ではないか。そう遠くない以前まで、共同演習で寄港すると、韓国海軍艦は貧弱な装備・排水量故に海自艦近くの係留を躊躇(ためら)った。
 その点、海自は軍艦大和や大型航空母艦を建造・運用したDNAを受け継ぎ、敗戦後の50年代前半以降、外洋海軍を目指し堅実・着実に装備を積み上げた。海国・日本でさえ、70年代後半よりイージス艦研究が進められ、87年に政府了承、90年にようやく起工にこぎ着けた。
 
 地球は丸いため、遠方・低高度で襲来する敵航空機・ミサイルの発見には、イージス艦のレーダーがいかに優秀でも限界がある。従って「イージス艦隊」の索敵→情報共有→迎撃分担などは、自軍と一部同盟軍の早期警戒管制機=AWACSや軍事衛星、他の水上艦や潜水艦とのリンクを前提とする。
 韓国空軍で早期警戒管制機(AWACSより劣るAEW&C)導入計画が始まるのはイージス艦導入決定5年後の2000年。機種決定も起工1年9カ月後の06年。イージス艦はAEW&C(実戦配備は12年)の情報が4年間もないまま運用された。それだけではない。当初の情報共有はAEW&C以外、一部フリゲートや空軍の戦闘爆撃機F15Kと防空統制施設のみという、異常に限られた連接だった。F15Kも4年近く、AEW&Cなしでの運用を強いられた。イージス艦やF15Kという高性能兵器は、真骨頂である「他の兵器の耳や目の活用」という利点を活(い)かせぬ「宝の持ち腐れ状態」にあった。もっともイージス艦や四世代戦闘機にコストを掛け過ぎ、イージス艦は今も、はるかに性能の劣る随伴艦と艦隊を構成する。
 
「ハコモノ豪華主義」
 一方、航空自衛隊でAWACS導入が検討されるのは1970年代前半。AEW&Cよりさらに劣る早期警戒機(E-2C)ではあったが、78年に機種選定し、83年より配備に就いた。必ずしも、イージス艦との連携だけ考えての導入ではないが、結果的に全てイージス艦に先行して実施された。99年にはAWCSも配置に就いた。
 韓国軍が立体的かつ効果的運用ができぬのは、導入の順番を無視して「豪華なハコモノ」に目が行ってしまう「伝統」故。従って、著しくバランスを欠く兵器体系・編成と成り、戦略目標や作戦コンセプトも不明。中国・北朝鮮軍ですら分析可能な、任務の重心をどこに置くかも判然としない。韓国軍自体、分かっていないとの説さえあるほど、混乱している。
 数多(あまた)ある具体例の中からもう一つ。韓国海軍の対北作戦海域の多くは狭い浅海で、小島や岩礁だらけ。
 
 相手は、1800トン級ではあるが半世紀以上前の実力しかない潜水艦をはじめ小型潜水艦や潜水艇、中小水上艦艇となろう。だのに、1800~1200トン級のドイツ系潜水艦を12隻現有(さらに6隻追加取得)、2030年までに3000トン級を9隻も追加配備する。主任務が対水上か対潜水艦なのかも不明だが、後者であれば哨戒機や海底施設型音響監視システム、駆逐艦などとの連携が不可欠だが、そちらの戦力は整備済みとは言い難い。
 日本の5分の1のGNP=国民総生産にもかかわらず「ハコモノ豪華主義」に支配され、部品の調達や訓練時間の確保もままならない。斯(か)くして陸海空軍の別なく、自衛隊では理解不能な稼働率に加え、珍奇な故障や事故が続発している。
 小欄は40カ国近い軍隊を観てきたが、なぜか“哀愁”漂う軍隊は韓国軍をおいて他にない。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS

さすがに産経はズバリ言ってくれましたね。
これまでずっと、韓国の軍備には??と感じていましたが、こういうことだったのですね。Yahooブログの字数制限ギリギリに入りました。

転載元: くにしおもほゆ

応永の外寇

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 応永の外寇(おうえいのがいこう)は、日本史の時代区分では室町時代応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による対馬攻撃を指す。対馬の糠岳(ぬかだけ)で戦闘が行われた事から糠岳戦争とも。朝鮮では己亥東征という。
 

戦闘の経緯

対馬侵攻の決定

 
  侵攻軍は三軍(右軍・中軍・左軍)で編成され李従茂を司令官とし、軍船227隻、兵員17285人の規模であり、65日分の食糧を携行していた。

対馬上陸と糠岳での戦闘

 朝鮮軍は6月19日巨済島から出航、6月20日昼頃に対馬の海岸(尾崎浦)に到着した。(尾崎浦は当時、早田氏の領土であった)対馬住民たちは、侵攻軍の前衛10隻程度が現れると、仲間が帰ってきたと歓迎の準備をしていたが、大軍が続いて迫ると皆驚き逃げ出した。
 これに対馬軍が朝鮮軍の上陸を防ぎ立ち向かうが不利なので撤退する。(朝鮮側史料ではその状況を、ただ50人ほどが抵抗したが、崩れ険阻な場所へ走り込んだ、と記録している。)上陸した朝鮮軍は、まず対馬の守護である宗貞盛に使者を送り降伏を勧誘した。だが答えがないと、朝鮮軍は道を分けて捜索し始め、島内を船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした。
 以後、朝鮮軍は船越を占領、柵を設置して島の交通を遮断し、長く留まる意を示す。その後、李従茂は部下を送り島を再度捜索し、加えて68戸と15隻を燃やし、9人を斬った。
 そして仁位郡まで至り、再び道を分けて上陸した。しかしその頃、朴実が率いる朝鮮左軍が、糠岳で対馬側の伏兵と会い、百数十人が死に、4人の武将を失う。だが朝鮮右軍がこれを助け対馬側を退けた。日本側の同時代記録(8月7日に幕府に届いた少弐満貞の注進状)でも6月26日に大規模な戦いが生じたことが報告されている。
 
 

高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻

 
 高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻は、14世紀末から15世紀初めにかけて行われた、高麗李氏朝鮮正規軍による対馬への侵攻。倭寇の根拠地と目された対馬壱岐も目標とされた)を攻撃することで、その根絶を図るというのが口実であった。
 

1389年の侵攻

 「高麗史」、「高麗史節要」によれば1389年2月、戦艦300艘による対馬侵攻が行われ、朴葳を司令官として、金宗衍、崔七夕、朴子安が従った。
 日本船300艘と沿岸の建物を焼き尽くした。帰国後は昌王名義で賞賛されている。なお、捕虜にした倭寇はいなかった。これを理由に、留守中の敵陣をただ焼き討ちして来ただけではないのか、と周囲から批判も受けている。
 日本側史料では「宗氏家譜」(1719年)に2月18日に高麗軍を追い返したとある。これを称して「康応の外寇」という。
 ただし、これは「高麗史」を参考に記述したもので、この件での日本側の記録は存在しなかったものとみられる。また、「対州編年略」(1723年)は須茂三位法眼と早田氏の兵が、「津島紀事」(1809年)は藤宗慧、宗永と早田丹後、日下部土佐の兵が敵に当たったとある。ただし、これらも「高麗史」を参考にした上で後世の伝承を採用したもので、14世紀には存在しなかった地名が挙げられるなど確かなものとはいえない。
 
 これを韓国では、「第1次対馬征伐」と称している。上記のこと以上の記録はないが、現代の韓国では激戦の末に降伏させた大勝利とされている。
 
 

1396年の侵攻計画

 朝鮮王朝実録によれば1396年12月、李成桂が壱岐・対馬討伐を命じた。 門下右政丞金士衡を五道兵馬都統処置使に任じ、南在、辛克恭、李茂を配下につけ、出立に当たっては成桂が南大門まで見送った。
 日本側史料では、この時期に朝鮮軍の侵攻があったという記録はない。
 ただし実録には以下の記録がある。1397年1月に慶尚道蔚州浦で降伏した倭寇首領の羅可温(ナガオン)、子の都時老(ツシラ)、配下の昆時羅(コンシラ)が役人を人質にして逃亡するという事件があったが、2月10日には朝鮮の官職を与えて帰順させたとある。
 また、1398年2月、倭寇首領の六、羅可温、望沙門(マンサムン)等に官職を与えるとともに、それぞれ藤六、林温、池門と改名させたという。
 士衡は翌年1月30日に帰還して出迎えを受け、2月8日に宴席を設けられているので、何らかの功績は認められたようである。
これを韓国では、「第2次対馬征伐」と称している。李朝では以後も倭寇の帰順や帰化政策を進めるが、対馬では宗貞茂の死後の混乱により活動が活発化する。

1419年の侵攻

詳細は「応永の外寇」を参照。
これを韓国では、「第3次対馬征伐」と称している。

[転載]高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻

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高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻

 高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻は、14世紀末から15世紀初めにかけて行われた、高麗李氏朝鮮正規軍による対馬への侵攻。倭寇の根拠地と目された対馬壱岐も目標とされた)を攻撃することで、その根絶を図るというのが口実であった。
 
 
1389年の侵攻
 
 「高麗史」、「高麗史節要」によれば1389年2月、戦艦300艘による対馬侵攻が行われ、朴葳を司令官として、金宗衍、崔七夕、朴子安が従った。
 日本船300艘と沿岸の建物を焼き尽くし、捕らえられていた者100余人を救出した。帰国後は昌王名義で賞賛されている。なお、捕虜にした倭寇はいなかった。これを理由に、留守中の敵陣をただ焼き討ちして来ただけではないのか、と周囲から批判も受けている。
 日本側史料では「宗氏家譜」(1719年)に2月18日に高麗軍を追い返したとある。これを称して「康応の外寇」という。ただし、これは「高麗史」を参考に記述したもので、この件での日本側の記録は存在しなかったものとみられる。また、「対州編年略」(1723年)は須茂三位法眼と早田氏の兵が、「津島紀事」(1809年)は藤宗慧、宗永と早田丹後、日下部土佐の兵が敵に当たったとある。ただし、これらも「高麗史」を参考にした上で後世の伝承を採用したもので、14世紀には存在しなかった地名が挙げられるなど確かなものとはいえない。
 これを韓国では、「第1次対馬征伐」と称している。上記のこと以上の記録はないが、現代の韓国では激戦の末に倭寇を降伏させた大勝利とされている。この攻撃以降、倭寇が激減したとされるが、上記の通り戦果は定かではない。いずれにしろ、1392年南北朝合一で政権強化を図った足利義満により倭寇の取締りが行われる。

1396年の侵攻計画

 朝鮮王朝実録によれば1396年12月、李成桂が壱岐・対馬討伐を命じた。 門下右政丞金士衡を五道兵馬都統処置使に任じ、南在、辛克恭、李茂を配下につけ、出立に当たっては成桂が南大門まで見送った。
 
 日本側史料では、この時期に朝鮮軍の侵攻があったという記録はない。ただし実録には以下の記録がある。1397年1月に慶尚道蔚州浦で降伏した倭寇首領の羅可温(ナガオン)、子の都時老(ツシラ)、配下の昆時羅(コンシラ)が役人を人質にして逃亡するという事件があったが、2月10日には朝鮮の官職を与えて帰順させたとある。また、1398年2月、倭寇首領の六、羅可温、望沙門(マンサムン)等に官職を与えるとともに、それぞれ藤六、林温、池門と改名させたという。
 
 士衡は翌年1月30日に帰還して出迎えを受け、2月8日に宴席を設けられているので、何らかの功績は認められたようである。
 これを韓国では、「第2次対馬征伐」と称している。李朝では以後も倭寇の帰順や帰化政策を進めるが、対馬では宗貞茂の死後の混乱により活動が活発化する。

1419年の侵攻

詳細は「応永の外寇」を参照。
これを韓国では、「第3次対馬征伐」と称している。

参考文献

『厳原町史』厳原町誌編集委員会、1997年

外部リンク

 
 
動画
【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略①
 
【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略②
 
 
 
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転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)

[転載]元寇残忍さと「前期倭寇と後期倭寇」

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前期倭寇と後期倭寇
 倭寇の歴史は大きく見た時に前期倭寇と、過渡期を経た後期倭寇の二つに分けられる。
 
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 前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、「三島倭寇」と総称された。以下、元寇の残忍さを紹介する。
 
 
 
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前期倭寇

 前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。
 日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、「三島倭寇」と総称された。
 
 朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる。また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下したために、これを補完する(奪還する)目的があったとも考えられている。
 その証拠として前期倭寇の初期においては、朝鮮半島で唯一稲作が盛んに行われていた南部の沿岸地方を中心に襲撃し、食料や人間を強奪していることが挙げられる。さらには、連れ去られた家族を取り戻すためであった事例もあり、実際に家族と再会した記録も残っている。
 
 1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった。
倭寇の被害を中心的に受けていた高麗では1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え、1389年朴葳による対馬国侵攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還した。これ以降倭寇の侵入は激減する。
 倭寇討伐で名声を得た李成桂は、高麗王朝を倒して李氏朝鮮を建国した。倭寇の勢力は著しく衰退したものの、朝鮮への侵入が完全になくなることはなかった[1]。しかし1419年に朝鮮王朝が軍を対馬に送って倭寇を撃破(応永の外寇)したことと、同年に遼東半島で明軍に敗れたことが致命傷となった。
 
 応永の外寇以前の形態は単なる局地的な奪還・復讐戦であり、これを倭寇と分類せず、それ以降を倭寇と考える説もある。清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為を行った高麗人(朝鮮人)への報復である、と記述されている。
 
 中国では1368年に朱元璋王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称した。その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が南北朝合一を行うと、義満は倭寇討伐を行い、新たに「日本国王」として冊封され、勘合貿易が行われる。
 前期倭寇は、室町幕府や北九州の守護大名日明貿易の独占や対馬と朝鮮の間の交易再開、李成桂による征討などによって下火になっていく。

後期倭寇

 日本では1523年に勘合を巡って細川氏大内氏がそれぞれ派遣した朝貢使節が浙江省寧波で争う寧波の乱(寧波争貢事件)が起り、勘合貿易が途絶すると倭寇を通じた密貿易が盛んになり、さらに中央で起った応仁の乱により混乱状態が戻ると、再び倭寇の活動が活発化する。
 後期倭寇の中心は私貿易を行う中国人であったとされ、『明史』日本伝にも真倭(本当の日本人)は10のうち3であるとも記述されている。ただし少ないながらもこれら日本人は、当時日本が戦国時代であったことから実戦経験豊富なものが多く、戦争の先頭に立ったり指揮を執ることで倭寇の武力向上に資していた。
 この時期も引き続いて明王朝は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する中国や朝鮮の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼福建省南部の月港を拠点とした。
 
 これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、後期にはポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や、日本の博多商人も関わっていた。
 後期倭寇の頭目には、中国人の王直徐海李光頭許棟などがおり、王直は日本の五島列島などを拠点に種子島への鉄砲伝来にも関係している。1547年には明の将軍である朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗し、53年からは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な活動がはじまる。こうした状況から明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和による事態の打開を主張する論が強まる。
 その一人、胡宗憲が王直を懐柔するものの、中央の命により処刑した。指導者を失ったことから倭寇の勢力は弱まり、続いて戚継光が倭寇討伐に成功した。
 しかし以後明王朝はこの海禁を緩和する宥和策に転じ、東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認めるようになる。ただし、日本に対してのみ倭寇への不信感から貿易を認めない態度を継続した。倭寇は1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。これが豊臣秀吉による文禄・慶長の役の一つの伏線となる。
 
 
 後期倭寇の、中心人物は私貿易(密貿易)を行う中国人で、日本人は、10人中3人くらいしかいなかったといわれています。

 代表的な倭寇として、王直(おうちょく)がいます。王直は、中国人でしたが、五島列島や平戸を本拠地として、暗躍しました。
 王直は、日本に興味を持っていたポルトガル人数名を、船に乗せて、日本に向かう途中、種子島で台風に会い、1ヶ月の漂流後、種子島に漂着しました。このとき、ポルトガル人は、日本に鉄砲の、売り込みを考えていました。このとき、通訳をしたのが王直です。
 同時に、王直は、鉄砲を撃つのに、欠かせない、火薬の原料である硝石を売り込もうとしていました。
ザビエルを、日本に運んだのも、王直です。王直は、最後は、明王朝によって、逮捕され、処刑されてしまいます。

倭寇以後の東アジア海上世界

 豊臣秀吉の海賊停止令により、倭寇の活動は一応は収束をみるが、東アジアの海上世界では林道乾林鳳(リマホン)、明を奉じてに抵抗した鄭芝竜鄭成功の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、倭寇ではないが同時代の海上勢力である。
 
 
 
 
 
 日本の海賊といえば鎌倉時代から室町時代にかけて、東シナ海や黄海を暴れまわった倭寇が有名だ。
 倭寇は海賊とは言っても元々は密貿易を本業としていた連中だが、明国政府、幕府の取り締まりや、さらに他の海賊との間の抗争などもあって、次第に武装集団化して海賊になったものと見られる。

 倭寇には前期と後期によってその構成員や活動目的、範囲などが変わってくる。前期倭寇は13世紀終わりから14世紀に活躍し、日本人が主要メンバーであった。
 前期でも初期段階の倭寇集団は、対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民たちと元寇の役で経済的窮乏で没落した武士団が倭寇の興りである。
 彼らは元寇に際して、元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された被害者とその遺族であった。彼らを「三島倭寇」と総称された。

 朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する被害地方の復讐行為と考えられる。清の徐継畭の「瀛環志略」や李氏朝鮮の安鼎福の「東史綱目」には倭寇の発生原因は、日本人による元寇への報復であったという記述がある。

 高麗王国はこの倭寇によって衰退させられた。
 高麗を攻撃した倭寇は既に海賊という規模ではなく、数千人規模の騎兵隊や武装歩兵軍団で構成され、今でいう海兵隊のような軍隊規模の組織であったらしい。
 おそらくこれほどまでに朝鮮半島内部まで荒らしまくったのは、元寇での被害が想像を絶するほど、筆舌に尽くしがたいものがあったことを物語っている。
 これに対して高麗も黙っていたわけではなく、何度も倭寇殲滅作戦を敢行している。対馬は倭寇の根拠地だったこともあり、対対馬倭寇掃討作戦を実施して成果もだしている。
 しかし、結果的には倭寇討伐軍司令官の李成桂が弱体化した高麗をほろぼし、李氏朝鮮を成立させた。
                       
                                高麗史から見た前期倭寇の出現図

 それにしても地方の田舎の住民集団が一国の王国を滅亡に導くほど、軍事的に強力であったのは驚きである。
 もっとも西国豪族の武士団が中核となっていたはずだから、今風に言えば、海軍軍閥であったのだろう。
逆に高麗王国はそれほど軟弱なヘタレ国家だったのだろうか?
                                
 14世紀終わりから15世紀になると朝鮮人が倭寇の中心になる。彼らも相変わらず、自国なのに李氏朝鮮王国を荒らし始める。
 15~16世紀にはいると、後期倭寇の主要構成員は朝鮮人から中国人に代わっていく。明国は朝貢貿易しか認めず海禁令を敷いて海外貿易を自由にさせなかった。このことが密貿易を盛んにさせる原因となった。
日本人は約3割以下だったが、当時日本は戦国時代だったこともあり、武士崩れの浪人達が中国人などの密貿易商人の指導をしていた形跡もある。




                倭寇図巻明軍(左)と倭寇(右)の海戦


 中国人や朝鮮人が主体なのに倭寇という言い方はおかしいが、初期倭寇が高麗王朝を衰退させるくらいの強力な海賊だったので、当時の朝鮮や明国の沿岸部では「倭寇」という名前そのものが恐怖の代名詞だった。
それで朝鮮人や中国人はお得意の「虎の威を借るキツネ」の如く、自ら倭寇を名乗ったのだ。

 倭寇は豊臣秀吉の倭寇取り締まり令(1588年)の発令でようやく活動を弱めた。李氏朝鮮もこの時代までずっと倭寇対策が国の重要安保政策だった。
 もっともこの時代は中国人が主体だが、日本の戦国浪人や博多商人や朝鮮人さらには、スペイン、ポルトガルの商人や船員崩れなども加わり、多国籍海賊になっていた。
 しかも当時の最新兵器である鉄砲も装備し、中には大砲も装備した軍艦仕様のものもあったらしい。
       http://ryotaroneko.ti-da.net/e2202547.html
 
 
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倭寇の回数推移(田中健夫著「倭寇と勘合貿易」所蔵の統計より

 

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)

[転載]朝鮮総督府鉄道

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朝鮮総督府鉄道

パシコ形(パシフィック5形)蒸気機関車
朝鮮総督府鉄道(ちょうせんそうとくふてつどう、英名:The Goverment Railways of Chosen)は日本統治時代朝鮮総督府が経営した鉄道である。

概要

 朝鮮半島での鉄道は、李氏朝鮮から日本が「日韓暫定合同条款」に基き鉄道敷設権を1894年8月20日に得て、鷺梁津漢江西岸)~済物浦間の鉄道を1899年に開通させたことに始まる。これは後に京仁線となった。続く1905年には京釜線が全通、そして翌1906年には日露戦争の軍事輸送を目的として京義線を日本が全通させた。京釜線・京義線は日露戦争後に日本が得た南満州鉄道(満鉄)への接続を図り、大陸進出の足がかりとしての役目を担うようになっていき、1910年韓国併合で日本が朝鮮の統治権を得ると、京元線中央線湖南線などを敷設した。
 また路線数が少なかった1925年(大正14年)まで、朝鮮での鉄道経営を一体輸送を図る目的で南満州鉄道委託したこともあり、その後は朝鮮総督府の直轄となった。だが半島北部の一部の鉄道に関しては、大陸との関係が強かったためその後も南満州鉄道の経営として残り、それが1945年の日本の敗戦まで続いた。
満州事変が勃発し満州国が成立すると、日本から朝鮮・満州への移動が活発になり、関釜連絡船を介して日本からの連絡を担った京釜線・京義線には特別急行列車「あかつき」、急行列車「ひかり」・「のぞみ」・「大陸」・「興亜」などといった優等列車が走った。

歴史

組織

1940年(昭和15年)時点
  • 庶務課  調査課  監督課  営業課  運転課  建設課  保線課 改良課
  • 工作課  電気課  経理課
  • 鉄道事務所(京城、釜山、大田、平壌、順天、元山、城津、江界)
  • 改良事務所(京城、釜山、平壌)
  • 工場(京城、釜山、清津)
  • 鉄道従業員養成所  京城鉄道病院

路線

1940年(昭和15年)時点

私鉄

現在の北朝鮮には私鉄が全く存在せず、韓国における私鉄もKORAIL空港鉄道およびソウル市メトロ9号線の2事業者のみとなっているが、日本統治時代の朝鮮半島には数多くの私鉄が存在していた。
1940年(昭和15年)時点
  • 朝鮮平安鉄道
  • 西鮮中央鉄道
  • 京春鉄道
  • 端豊鉄道
  • 朝鮮石炭工業鉄道
  • 平北鉄道
  • 多獅島鉄道
  • 北鮮拓殖鉄道
 
 
 
 
 
 
 

朝鮮総督府鉄道局

朝鮮総督府鉄道局(ちょうせんそうとくふてつどうきょく)は、日本統治時代の朝鮮に置かれた朝鮮総督府所属の官署。
朝鮮総督府鉄道の管理・運営、朝鮮における私設鉄道・軌道および陸運の監督事務を掌る。

沿革

1910年明治43年)10月1日、朝鮮総督府所属官署として鉄道局が置かれた。1917年大正6年)7月31日、朝鮮における国有鉄道(朝鮮総督府鉄道)が南満洲鉄道に経営委託されるとともに、朝鮮鉄道局官制が廃止され、朝鮮総督府総督官房に鉄道局が置かれた。1919年(大正8年)8月20日、朝鮮総督府官制改正(勅令第386号)により鉄道局を鉄道部に改め、長を部長とした。
1925年(大正14年)3月末日をもって朝鮮総督府鉄道の南満洲鉄道への委託運営が解除され、総督府直営となるとともに、朝鮮総督府の外局として朝鮮総督府鉄道局が新設されるとともに、総督官房鉄道部は廃止された。4月1日、朝鮮総督府鉄道局官制(勅令第84号)が施行された。
1943年昭和18年)12月1日、朝鮮総督府の官制改正により鉄道局が廃止され、交通局が置かれた。
 

転載元: 物造り・防災・環境・歴史・観光で平和と繁栄

近江 環境歴史ドライブ

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9日(金)
朝 大阪発 彦根着
 
夕方 米原駅レンタカー 借用
南彦根駅前スーパーホテル

ボランティア通して見た ニジェール女性の姿を撮影 和歌山

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ボランティア通して見た ニジェール女性の姿を撮影 和歌山

2014.4.4 02:15
 ■県立図書館で展示
 写真家の玉井誠子さんが西アフリカ・ニジェール共和国の女性を撮影した写真展「ニジェールのおんなのこ」が、和歌山市西高松の県立図書館1階エントランスで開かれている。さまざまな表情を見せる女性の姿に、訪れた人たちが見入っている。15日まで。
 JICA(国際協力機構)和歌山デスクが、海外での活動に興味を持ってもらおうと主催。会場には、玉井さんが撮影した笑顔の少女や親子の姿など20点が展示されている。
 玉井さんは平成23年から2年間、JICAのボランティアとしてニジェールで女性の自立支援活動に従事。その中でアフリカの女性に魅力を感じ、活動の傍ら、現地の女性の生活を撮影してきた。帰国後、ニジェールやジブチ共和国を中心に写真家として活動している。
 展示は午前10時から午後7時まで(土日祝日は午後6時)。月曜休館。20日には和歌山ビッグ愛でJICAボランティア説明会も開催される。問い合わせはJICA和歌山デスク

和歌山県 広川町 津波防災教育センター

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●津波防災教育センター ●濱口梧陵記念館 ●開館・予約情報 ●見学の申込みはこちら(PDF)
●開館日カレンダー ●入館料金・アクセスのご案内

開館時間

午前10時~午後5時(入館時間は午後4時まで)
 

休館日


月曜日・火曜日(祝日の場合は開館) 年末年始(12月29日~1月4日)

入館料 〔濱口梧陵記念館の入館は無料〕


一般500円
高校生200円
小・中学生100円
(学校の教育活動の場合、小・中学生は半額)(団体でのご来館は事前にお申し込みください)
 

アクセス方法


稲村の火の館 アクセスマップ
〒643-0071 和歌山県有田郡広川町広671
TEL 0737-64-1760  FAX 0737-64-1761
稲むらの火の館 アクセスマップ

交通のご案内


電車の場合:JRきのくに線「湯浅」下車、徒歩約15分。
車の場合:湯浅御坊道路「広川IC」から、北西へ約10分。
  
 

稲むらの火

 
 稲むらの火(いなむらのひ)は、1854年嘉永7年/安政元年)の安政南海地震津波に際しての出来事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲英語による作品を、中井常蔵が翻訳・再話したもので、文部省の教材公募に入選し、1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された。防災教材として知られ、高く評価されている。
 もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)である。
 
 

物語の概要

「稲むら」(稲叢)とは積み重ねられたの束のこと。稲は刈り取りのあと天日で干してから脱穀するが、上のように稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ。
ただし脱穀後の藁の山も「稲むら」と言うことがあり、史実で燃やされたのは脱穀後の藁である。
 
 村の高台に住む庄屋の五兵衛は、地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付く。祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある稲の束(稲むら)に松明で火をつけた。火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るう。五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られたのだ。
 
 

史実との異同

 「稲むらの火」は濱口儀兵衛(梧陵)の史実に基づいてはいるものの、実際とは異なる部分がある。これは小泉八雲の誤解にもとづくものであるが、翻訳・再話をおこなった地元出身の中井常蔵もあえて踏襲した。
 史実と物語の違いは国定教科書採用時にも認識されていたが、五兵衛の犠牲的精神という主題と、小泉・中井による文章表現の美しさから、安政南海地震津波の記録としての正確性よりも教材としての感銘が優先された。
 
 物語では地震動について「今の地震は別に烈しいといふ程のものではなかった」と書かれているが、濱口梧陵は地震の様子を手記の中で「其激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を蓋ふ」と記しており、宇佐美龍夫は広村の震度を5-6程度と推定している。
 地震の揺れ方や、津波襲来前に潮が大きく引いたという描写は、出版直前に起った明治三陸津波から小泉八雲がその示唆を得た可能性が考えられている。
 
 農村の高台に住む年老いた村長とされている五兵衛に対して、史実の儀兵衛は指導的な商人であったがまだ35歳で、その家は町中にあった。また、儀兵衛が燃やしたのは稲穂のついた稲の束ではなく、脱穀を終えたの山(これも「稲むら」と呼ぶことがある)であった(津波の発生日が12月24日〈新暦換算〉で、真冬であることに注意)。
 また、儀兵衛が火を付けたのは津波を予知してではなく、津波が来襲してからであり、暗闇の中で村人に安全な避難路を示すためであった。
 
 「稲むらの火」には描かれていないが、儀兵衛の偉業は災害に際して迅速な避難に貢献したことばかりではなく、被災後も将来再び同様の災害が起こることを慮り、私財を投じて防潮堤を築造した点にもある。これにより広川町の中心部では、昭和の東南海地震南海地震による津波に際して被害を免れた。
 

安政南海地震

安政南海地震
 
本震発生日発生時刻震央規模最大震度津波地震の種類被害死傷者数
安政南海地震の位置
1854年12月24日
16時半頃(日本標準時
日本の旗日本南海道
北緯33度0分0秒
東経135度0分0秒
[注 1]座標: 北緯33度0分0秒 東経135度0分0秒[注 1]
  M8.4 - MW8.5
  震度6:-7: 紀伊新宮土佐中村
最大16.1m
海溝型地震
逆断層
死者 数千人
 
 
 
 
 
稲むらの火の館
濱口梧陵記念館1854年(安政元年)安政の大地震による大津波の時、濱口梧陵が命をかけて村民の命を救った「稲むらの火」。その偉業と精神、教訓を学び受け継いでゆくため、ゆかりの地和歌山県有田郡広川町に、2007年(平成19年)4月22日、濱口梧陵記念館と津波防災教育センターから成る「稲むらの火の館」が建設されました。
濱口梧陵記念館
1820年(文政3年)紀伊国有田郡広村に生れ、66歳で亡くなった濱口梧陵(ヤマサ醤油 7代濱口儀兵衛)。
濱口梧陵ゆかりの広川町の邸宅を改修して誕生した記念館です。 木造平屋建て、美しい庭園は落ち着きのある空間です。
濱口梧陵の生涯をひもとき、偉大な功績や教訓、人柄を感じさせるエピソードに出会えます。
濱口梧陵展示室展示室
濱口梧陵展示室
  • 濱口梧陵
    濱口梧陵
  • 展示室
    展示室
  • 展示室
津波防災教育センター
津波防災のあゆみや精神にまつわるさまざまな展示物や防災の3つの知恵「応急・復旧・予防」がゲーム形式で体験できるコーナーがある津波防災の教育の施設です。
また、地震津波の恐ろしさとその威力を体感できる3Dシアターや、長さ16mの津波実験水槽にて津波の伝わり方も学習できます。
災害時には地域住民の一時避難場所、備蓄場所としても機能も備えています。
稲むらの火展示室3D津波映像シアター津波シミュレーション
稲むらの火展示室3D津波映像シアター津波シミュレーション
  • 稲むらの火展示室
    稲むらの火展示室
  • 3D津波映像シアター
    3D津波映像シアター
  • 津波シミュレーション
    津波シミュレーション
 

[転載]パルマス島事件の判例からも尖閣と竹島は日本領土に間違いない

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パルマス島事件

 
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パルマス島
パルマス島事件(パルマスとうじけん、英語:Island of Palmas Case)とは、フィリピンミンダナオ島のサン・オーガスチン岬と、オランダ領東インド(当時)の北にあるナヌーサ群島の中間にある孤島パルマス島(別名ミアンガス島)の領有権を巡って、アメリカ合衆国オランダが1906年から争った領土紛争である。
 最終的には、1928年に常設仲裁裁判所でオランダの領土であるとの判決が下された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
経緯
特別協定の締結に際してアメリカの特命全権大使を務めたチャールズ・エヴァンズ・ヒューズ
オランダの特命全権大使を務めたAndries Cornelis Dirk de Graeff
 
 
 1906年1月21日、当時フィリピンのモロ地方総督であったアメリカのウッド将軍がパルマス島を訪れたことが、事の発端であった。彼はこの島がアメリカ領であると信じていたが、彼を海上で迎えた船と島の海岸にオランダ国旗が掲げられていることに気が付き、このことをアメリカ陸軍長官に報告した。
 これ以前には、アメリカ、オランダ、スペインといった関係国の間で、パルマス島の領有権を巡る意見の不一致は表面化していなかっ。
1906年3月31日からアメリカ、オランダ間の外交交渉が始まり、その結果1925年1月23日に両国の間で特別協定が結ばれた。

特別協定

以下、両国が締結した特別協定の内で主な条項を概説する。
 
前文
 
 アメリカ合衆国とオランダは、パルマス島の領有権をめぐる意見の不一致を、国際法の原則および適用可能な条約に従って解決することを望む。
 
第1条
 
 アメリカ合衆国とオランダは、上記意見の不一致を常設仲裁裁判所に付託することで合意する。この合意によって設置される裁判所は1名の仲裁裁判官で構成される。
 仲裁裁判官は、パルマス島がアメリカ合衆国領土であるかオランダ領土であるかを決定することを任務とする[3]
 
 両国政府は常設仲裁裁判所の裁判官名簿から仲裁裁判官を指名する。仲裁裁判官の指名について両国が合意に至ることができなかった場合には、スイス大統領に仲裁裁判官の指名を委任する。
 
第8条
 両国は、仲裁裁判官によって下された裁定を受け入れる義務がある。この裁定は最終判決であり、上訴はできない。
 裁定の解釈、適用について両国間に紛争が生じる場合には、両国は仲裁裁判官の決定に従わなければならない。

裁判

常設仲裁裁判所や国際司法裁判所が置かれている平和宮
常設仲裁裁判所の法廷。
裁判は書面手続きのみによって行われた[2]

両国の主張

以下、両国の主張を概説する。
両国間で意見が一致していた主張
  • 1906年以前には、領有権を巡る紛争は発生していなかった[4]
  • パルマス島は、アメリカかオランダのいずれか一方にのみ属する[4]
US flag 48 stars.svgアメリカの主張
  • パルマス島は、オランダの支配が及ぶ前にスペインが16世紀に「発見」した島であり、スペインとの間で結ばれたパリ条約第3条に基づき、アメリカはスペインのフィリピンに対する権原を継承したため、パルマス島はアメリカの領土である。
  • スペインからアメリカに継承された権原を消滅させる理由はなく、スペインが「発見」した後パルマス島において主権の発現を行ったかどうかを立証する必要はない。
  • 当時のスペインのパルマス島に対する主権は、1648年のミュンスター条約でも承認されている。
  • パルマス島は地理的にフィリピン・グループの一部であるので、隣接性の原則の基づき、パルマス島に近いフィリピンに対する主権を有する国(=アメリカ)に属する。
Flag of the Netherlands.svgオランダの主張
  • スペインによる「発見」や、島の領域権原取得の事実は立証されていない。
  • オランダは少なくとも1677年から紛争発生時までパルマス島において主権を行使してきており、仮に「発見」による領域権原取得の事実があったとしてもスペインの権原は既に失われている。
  • オランダの主権行使は、最初の時期は東インド会社によって代行されてきたものであったが、少なくとも1677年からオランダは主権を保持し、行使してきた。
  • オランダはサンギ島の原住民の首長と協約を結び、パルマス島を含む首長の領域に対する宗主権を確立させた。

判決

両国が単独仲裁裁判官として指名したマックス・フーバー。
パリ条約署名の様子。マックス・フーバーはこの日を「決定的期日」とした。
両国は仲裁裁判官としてスイスのマックス・フーバー英語版を指名することで合意に至った[6]。以下マックス・フーバーが下した判決を概説する。
  • 領域主権に関する一般規則の確認
 国家間関係において、主権とは独立を意味する。領域に対する国家の独立とは、他のいかなる国家をも排除し、そこで国家の機能を行使する権利である。
 他方で領域主権は、自国領域内で他国や他国国民の権利を保護する義務を伴う。なぜなら、領域主権に基づく空間の国家への配分は、国際法で定められる最低限の保護を、諸国民に保障することを目的としているからである。領域の主権に関して紛争が生じる場合には、主権を主張する一方の国家が、もう一方の国家に優位する権原を保持しているかを審議するのが慣習である。
 一方の国家が現実に主権を行使しているという場合にもう一方の国家は、領域主権が過去の特定の時点で獲得されたことを立証するだけでは不十分で、過去に獲得された領域主権が紛争発生の時点にまで存在し続けてきたことを示さなければならない。他国や他国国民の権利を保護する領域国の義務に鑑みれば、継続的かつ平和的な領域主権の行使がなければ、国家はそのような義務を果たすことはできない。そのため、そのような領域主権の行使は権原として有効である。
  • 決定的期日
 アメリカの主張は、1898年に結ばれたパリ条約の第3条に基づいた、スペインからアメリカへのパルマス島を含む領域の割譲に基礎を置いている。しかしスペインは、スペイン自身が保持していた以上の権利をアメリカに譲渡することができなかったのは明らかである。したがって、ここで解決すべき問題は、パリ条約の署名・発効の日(決定的期日)において、パルマス島がスペイン領であったかオランダ領であったかという問題である。
  • 時際法
 16世紀のスペインによるパルマス島の「発見」は、「発見」それ自体が当然に領域主権をスペインに付与したと認めることができる。
 しかし「発見」によって16世紀に確立されたスペインの領域主権が、決定的期日まで存続していたかという問題が残る。国際法の発展により、16世紀に有効であった国際法規則と19世紀に有効な国際法規則は異なるが、時代によって異なる法体系のうちどの時代の法体系が実際に適用されるのかという問題(時際法)については、権利の創設と権利の存続を明確に区別しなければならない。
 権利の存続のためには、国際法の発展に従い変化する条件を満たすことが必要とされる。したがって「発見」だけでは、決定的期日にスペインがパルマス島に対する主権を持っていたことを証明するには不十分であり、16世紀当時に未成熟の権原を創設したことが認められるだけである。未成熟な権原は、合理的期間内に実効的支配によって補完されなければならず、他国の継続的かつ平和的な主権の行使に優越するものではない。
  • 隣接性の原則の否定
アメリカが主張する隣接性に基づく権原の主張を検討する。ときとしてそのような権原が主張されることがあるが、実定法上の規則としては認められない。
 この原則は正確性に欠けており、これを適用すれば恣意的な結果をもたらしうる。この原則によって特定の国家に有利な推定を行うことは、前述の領域主権の性格とも矛盾する。よって隣接性の原則を領域主権の問題を決定するための法的方法として許容することはできない。
  • 実効的支配
 実効的支配と言いうるためには、主権を表示する行為が決定的期日である1898年の時点で存在し、それ以前にもそのような行為が他国が確認できるほどの期間継続的で平和的に存続している必要がある。
 オランダの主張を検討する。東インド会社は原住民と宗主契約を結び、それによって原住民はオランダとの関係を結んだ。
 この契約が宗主国と付傭国という植民地関係を確立し、自国領域の一部であるとするのに十分な権原をオランダに付与した。1700年から1906年までオランダは宗主国として平和的に主権を行使しており、さらに決定的期日以前にオランダによる領域主権の行使に対して他国から抗議が行われた記録はなく、オランダによる主権の行使は平和的なものであったと認められる。
 逆にアメリカは、スペインの領域主権の継承国として、オランダと同等以上の権原を提示することができなかった。
  • 結論
パルマス島はオランダ領の一部である。

後の影響

 「領域主権の継続的かつ平和的行使」による「実効的支配」を強調した上記判決は、島の領有権を巡る領土紛争の古典的なケースとして、後の国際判例に大きな影響を与えた。
 例えば、1953年にマンキエ島英語版エクレオ島英語版の領有を巡って英仏間で争われたマンキエ・エクレオ島事件英語版国際司法裁判所判決でも、イギリスによる司法権立法権地方行政権の行使を国家主権の平和的発現として認め、両島がイギリスの領土であると認められた。さらに上記判決で示された原則は、例えば日中間の尖閣諸島問題など、今だ未解決の領土紛争を語る上でも引用されることがあり、裁判官の名前にちなんで「マックス・フーバー原則」とも呼ばれる。
 
 

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)


[転載]高句麗が高麗と名を改めた中原王朝の高句麗王の封号-1

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「高句驪国は滅亡する以前に国名を「高麗国」に変更していた」


後漢の 班固撰 『漢 書』  【高句驪】略して【句驪】
 班固(はんこ)32-92後漢代
晋 の 陳壽撰 『三国志』  【高句驪】略して【句驪】
 陳壽(ちんじゅ)233-297西晋代
南宋の 范曄撰 『後漢書』  【高句驪】略して【句驪】
 范曄(はんよう)398-445宋代(南朝)
魏 の 魚豢撰 『魏 略』  【高句驪】略して【句驪】
 魚豢(ぎょけん)-
梁 の 沈約撰 『宋 書』  【高句驪】略して【句驪】
 沈約(しんやく)441-513
唐の 姚思簾(廉)撰 『梁 書』【高句驪】略して【句驪】
 姚思廉(ようしれん)557-637
唐の 李延壽撰 『南 史』  【高句驪】略して【句驪】
唐の 李延壽撰 『北 史』  【高句驪】略して【句驪】
 李延壽(りえんじゅ)唐代
北斉の 魏収撰 『魏 書』  【高句驪】略して【句驪】
 魏収(ぎしゅう)506-572

【高句麗】とし、行文中は【高麗】
梁の 蕭子顕撰 『南斉書』
 蕭子顕(しょうしけん)489-537  
唐の 房玄齢・李延寿 『晋 書』  
 房玄齢(ぼうげんれい)578-648
唐の 姚思廉撰 『陳 書』
 姚思廉(ようしれん)557-637
唐の 李百薬撰 『北斉書』
 李百薬(りひゃくやく)565-648
唐の 令狐徳棻撰 『周 書』
 令狐徳棻(れいことくふん)583-666
唐の 魏徴・長孫無忌 『随 書』
 魏徴(ぎちょう)580-643
 長孫無忌(ちょうそんむき)-659
五代後晋の 劉昫・張昭遠・王伸編纂 『旧唐書』
 劉昫(りゅうく)887-946
 張昭遠(ちょうしょうえん)
 王伸(おうしん)
北宋の 欧陽脩撰 『新唐書』
 欧陽脩/欧阳脩/欧陽 修(おうようしゅう)1007-1072
 宋祁(そうき)998-1061


梁時代の 『宋 書』  【高句驪】略して【句驪】
 々 の 『南斉書』  【高句麗】とし、行文中は【高麗】


梁の武帝が普通元年(520)二月癸丑に安臧王を封じて「寧東将軍高麗王」とした時。始めて「句」の字が取り去り、「驪」を改め「麗」とした。
以後、中原王朝の各高句麗王の冊封時には、「高麗王」とし、「高句麗王(高句驪王)」とすることはなかった。
高句麗王 中原王朝 冊封王号 出典   長寿王 北魏世祖・宋孝武皇帝・北魏孝文帝 高句驪王 『魏書』『列伝』『高句驪』   文咨明王 北魏孝文帝 高句驪王 『魏書』『列伝』『高句驪』   安臧王 北魏孝文帝・梁武帝 高句驪王・高麗王 『梁書』『梁武帝記下』   安原王 梁武帝 高麗王 『梁書』『東夷伝・高麗』   陽原王 北斉文宣帝 高麗王 『北斉書』『文宣帝記』   平原王 北斉廃帝 高麗王 『北斉書』『廃帝記』   嬰陽王 随文帝 高麗王 『随書』『東夷伝・高麗』   栄留王 唐高祖 高麗王 『新唐書』『東夷伝・高麗』   宝臧王 唐太宗 高麗王 『新唐書』『東夷伝・高麗』  


ウィキペディア 安臧王では、治世 [編集]
梁からは520年2月に<寧東将軍・都督営平二州諸軍事・高句麗王>に冊封されたが、 とあるが、
<高麗王>と記載すべきであり、これは誤りである。

後の王氏高麗(938-1396)とは全く異なるが、高句麗全体の歴史のなかで、始祖朱蒙から 安臧王 の高安二年(紀元前37-紀元520)を 「高句驪国」時代とし、安臧王から 宝臧王(520-668)までを 「高麗国」としたのである。

韓国時代劇ドラマでこの時代のみのを観ているけど、【淵蓋蘇文 ヨンゲソムン】【大祚榮-テジョヨン】も間違って国名表記しているのかな。

安臧王時代に何か大きく変化した事柄が有ったんですね。知りたいです。


《その他》
『東観漢記』




転載元: ロハス商店

[転載]いつまでも日本人は大人しくしていない。在日と左翼の反日工作を粉砕しよう!

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大きく報じられていませんが長崎市で在日と左翼が「原爆慰霊碑」を計画しています。以下、上の動画の概略です。
原爆慰霊碑は20年ほど前から計画されていて、平成2411月には福岡の韓国総領事館の副総領事が長崎市の田上富久市長に要請し、田上市長は「用意はできている」と答えました。今年22日、民団長崎県地方本部は「犠牲者の追悼と平和を願うことだけが目的で、強制労働など日本の責任を問う碑文ではない。政治的で過激な内容では市の審査も通らない」と説明しましたが、碑文の内容そのものは明らかにしませんでした。
 
しかし騙されてはいけません。グレンデール市の「売春婦(慰安婦)の像」を作る時も「犠牲者の追悼と平和を願うことだけが目的」とのことでしたが、実際出来上がった碑には「大日本帝国軍によって強制的に性奴隷にされた、・・・強制連行された20万人以上のアジアとオランダの女性を偲ぶ」と書かれたのです。こういう詐欺師的手口が朝鮮人のいつもの手口です。
 
そして24日、碑文の内容が明らかになりました。
そこにはハングルで「熱気に溶けてしまった命たちは、この地での過酷な強制労働と虐待も忘却するでしょうが、生まれ育った土地を否応なく離れて、よその国の戦争のために異郷で跡形もなく消えてゆく悲しみはどうすればよいのでしょう。国なき民として受けたさげすみと仕打ちによってずたずたに裂け散った悲しい心は、どうしてつなぎ合わせることが出来ましょう」と書くという。
また、その慰霊碑の脇には日本語、ハングル、英語の案内板を設置し「原爆は約1万人とも言われる同胞の命を一瞬にして奪った」「日本の統治下で生活型移住者に加えて労働者や軍人・軍属として徴用・動員された若き同胞が増え、長崎県に約7万人、軍需産業都市であった長崎市とその周辺には約3万人が在住するに至った」と書くということです。
これは絶対に阻止しなければいけません。こんなものをどんどん日本につくられてしまえば、この嘘の話を日本自体が認めたことになります。・・・
 
 
さて、長崎には市の所有する公共の土地に「朝鮮人原爆爆死者追悼碑」の説明板があり、そこには次のように書かれています。
 
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追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者
1910(明治43)年8月22日、日本政府は「日韓併合条約」を公布し、朝鮮を完全に日本の植民地支配下に置いたため、自由も人権も、さらに貴重な土地も奪われ、生活の手段を失った朝鮮人たちは日本に流入した。その後、日本に強制連行され強制労働させられた朝鮮人は、1945(昭和20)年8月15日の日本敗戦当時は、実に2,365,263人、長崎県全体に在住していた朝鮮人は約7万人という多数に上がった(内務省警保局発表)。そして長崎市周辺には約3万数千人が在住し、三菱系列の造船所、製鋼所、電機、兵器工場などの事業所や周辺地区の道路、防空壕、埋立て等の作業に強制労働させられ、1945(昭和20)年8月9日のアメリカ軍による原爆攻撃で約2万人が被爆し、約1万人が爆死した。
私たち、名もなき日本人がささやかな浄財を拠出して異郷の地長崎で悲惨な生涯を閉じた1万余の朝鮮人のために、この追悼碑を建設した。かつて日本が朝鮮を武力で威かくし、植民化し、その民族を強制連行し、虐待酷使し、強制労働の果てに遂に悲惨な原爆死に至らしめた戦争責任を、彼らにおわびすると共に、核兵器の絶滅と朝鮮の平和的な統一を心から念じてやまない。
1979年8月9日
長崎在日朝鮮人の人権を守る会
 
ここには、日本が朝鮮人を強制連行して強制労働させ、しまいには原爆で殺害したとあります。「日本が悪いから原爆を落とされたので、その責任は日本にある」というものです。原爆はアメリカが国際法に反して落としたのであって、まさにアメリカこそ非人道的な戦争犯罪国家で、原爆についてはアメリカにこそ言うのが筋なのです。しかしアメリカに言っても相手にされないのはわかっているので、金払いのいい日本で騒いでお金を貰おうということです。
 
朝鮮人は当時、同じ日本人として自ら進んで日本に働きに来て、しかもあえて給料の高い所を選んでいたのです。そして日本人に課せられた徴用令は朝鮮人には免除されており、朝鮮人に適用したのが昭和199月からであり、実際は翌年3月までしか徴用は出来なかったのです。なぜなら昭和203月以降は日本には制海権がなくなってしまい朝鮮から輸送が出来なくなったからです。
 
さて、この「朝鮮人原爆爆死者追悼碑」の説明板の撤去を求める署名を行っています。ぜひここに署名をして、日本人として在日や反日左翼のデタラメは許さないという意思を示していきましょう。
 
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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

リニア技術を米に無償提供 首相、首脳会談で表明へ

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リニア技術を米に無償提供 首相、首脳会談で表明へ

2014.4.13 09:22(1/2ページ)鉄道
JR東海の山梨リニア実験線に試乗したケネディ駐日米大使(左)と安倍晋三首相。ケネディ氏はリニアがスピードを上げて浮上すると、「ワオ」と声を上げた(AP)
JR東海の山梨リニア実験線に試乗したケネディ駐日米大使(左)と安倍晋三首相。ケネディ氏はリニアがスピードを上げて浮上すると、「ワオ」と声を上げた(AP)
 24日に予定される日米首脳会談において、日本の超電導リニア新幹線の米国への技術導入で合意することで、日米両政府が最終調整に入ったことが12日、分かった。対象となっている区間は、ワシントン-ボルティモア間(約66キロ)。政府関係者が明らかにした。
 首脳会談で安倍晋三首相は、リニア受注を実現するために、リニア技術は無償提供することを表明する。JR東海も政府と足並みをそろえている。
 技術提供の場合、「ライセンス料」を受け取るのが一般的だが、短期的な資金回収よりも、リニア新幹線を米に確実に売り込むことを優先する。無償提供であっても、車両や部品の量産効果に伴うコスト削減、世界的な知名度の高まりによる販路開拓で、十分に利益を得られると見込んでいる。
 首相は首脳会談で、ワシントン-ボルティモア間だけでなく、新たにワシントン-ニューヨーク間(約360キロ)にもリニア新幹線を採用するよう打診する。
 首相は「インフラ輸出」を、成長戦略の目玉に位置付けている。日本の独自技術によるリニア新幹線の米国への売り込みが成功すれば、米国や他の海外市場開拓への大きな弾みとなる。

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JR東海の山梨リニア実験線に試乗したケネディ駐日米大使(右端)と安倍晋三首相(中央)=ロイター   米国で計画される高速鉄道

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ウイルス、野鳥が韓国から持ち込みか 来月中旬まで警戒必要

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【熊本鳥インフル】
ウイルス、野鳥が韓国から持ち込みか 来月中旬まで警戒必要

2014.4.13 18:51公害・汚染
熊本県で鳥インフルエンザの発生が確認され、農水省で開かれた家きん疾病小委員会=13日午後
熊本県で鳥インフルエンザの発生が確認され、農水省で開かれた家きん疾病小委員会=13日午後
 熊本県で高病原性鳥インフルエンザの発生が確認された。今後は感染の拡大防止に向けた速やかな対策が鍵となる。感染が広がれば鶏肉や卵の供給に影響し、小売価格の上昇につながりかねない。政府は早期の「封じ込め」に本腰を入れる。
 「蔓延(まんえん)防止のためには初動対応が何よりも重要だ」。13日午前9時半に農林水産省内で開かれた対策会議で、林芳正農水相は対策を急ぐよう強調した。農水省は同日午後に有識者らによる「家きん疾病小委員会」を急遽(きゅうきょ)開催、技術的な意見を求めた。
 会合後、小委員長の伊藤寿啓鳥取大教授(公衆衛生学)は、ウイルスが韓国から野鳥などを通じて持ち込まれた可能性が高いとの見方を示し「渡り鳥が日本から大陸に戻る5月中旬くらいまで警戒が必要だ」と指摘。ただ農場からの報告が早かったため、二次感染は「それほど心配していない」とした。政府は隔離策の徹底などを、あらためて求めていく構えだ。

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熊本で鳥インフル発生 11万羽殺処分へ 政府が対策本部

2014.4.13 11:42鳥インフルエンザ
養鶏場で鶏を殺処分する熊本県の職員ら=13日午前11時30分ごろ、熊本県多良木町(熊本県提供)
養鶏場で鶏を殺処分する熊本県の職員ら=13日午前11時30分ごろ、熊本県多良木町(熊本県提供)
 熊本県は13日、同県多良木町の養鶏場で鶏が大量死し、鳥インフルエンザの簡易検査で6羽が陽性となり、うち2羽は遺伝子検査で高病原性鳥インフルエンザウイルスH5型が検出されたと発表した。県はこの養鶏場と、経営者が同じ同県相良村の養鶏場の鶏計約11万2千羽を14日までに殺処分すると決定した。
 農林水産省によると、国内の養鶏場での発生確認は2011年3月の千葉市以来で、午前7時の時点で1100羽が死んでいた。
 対策のため首相官邸で開かれた関係閣僚会議で、安倍晋三首相は菅義偉官房長官を通じ(1)現場の情報をしっかりと収集し、関係各省が緊密に連携して徹底した防疫措置を迅速に進める(2)国民に正確な情報を伝える-との指示を出した。林芳正農相は会議後、官邸で記者団に「初動が大事なので、関係各省庁、熊本県と緊密に連携し、しっかり対応したい」と述べ、近く小里泰弘農水政務官を派遣する考えを示した。
 熊本県は検体を動物衛生研究所に送り、詳細検査する。両養鶏場から半径3キロ以内での鶏の移動を制限し、半径10キロ以上への鶏の搬出を制限する。また養鶏場に続く主要道路など計11カ所で、出入りする車両の消毒をするとしている。

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鶏の殺処分のため養鶏場に入る熊本県の職員ら=13日午前、熊本県多良木町(熊本県提供)  熊本県庁で開かれた鳥インフルエンザの対策会議=13日午前  鳥インフルエンザに関する関係閣僚会議を終え、記者に囲まれる林農相=13日午前、首相官邸  鶏の殺処分のため養鶏場に入る熊本県の職員ら=13日午前、熊本県多良木町(熊本県提供)

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[転載]鳥インフル、熊本で発生=11万羽を殺処分! わりきれない!やりきれない!

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渡り鳥を介して広がる高病原性の鳥インフルエンザが熊本の養鶏場2箇所で確認されたので、
感染防止のため計約112000羽を殺処分するという(元記事1)。
 
鳥インフルエンザが死者まで発生させる危険な疾病であること(元記事2)からすれば当然といえば当然だが、、、
 
養鶏農家にとって、やりきれないだろうし、貧乏人の蛋白源として大いにお世話になっている私としても、養鶏に無駄死にさせることのせつなさを感じざるをえない。
 
で、素朴な感情だが、片手落ちと感じるのは、
なんの罪もない養鶏農家の、養鶏場の鶏を皆殺しにする一方で、
 
鳥インフルエンザを持ち込んだ当の渡り鳥は、
渡り鳥を絶滅させることはできないからとしても、、、
お咎めなしということになるのが、感情的には、割り切れない! やりきれない!(;^_^A
 
(元記事1
鳥インフル、熊本で発生=11万羽を殺処分―韓国経由で侵入か・農水省
時事通信 413()1031分配信
 
 農林水産省は13日、感染すると高い確率で死ぬ高病原性の疑いがある鳥インフルエンザが、熊本県多良木町の養鶏場で発生したと発表した。同じ農家が経営する別の養鶏場(同県相良村)を含めて、計約112000羽を殺処分し、感染の拡大防止を徹底する。
  農水省は13日、専門家による対策のための小委員会を開催。感染経路などは不明だが、伊藤壽啓小委員長(鳥取大教授)は終了後、「(鳥インフルが流行している)韓国から渡り鳥がウイルスを持ち込んだ可能性がある」と記者団に述べた。
  農水省はまた、専門家チームを現地に派遣し、本格的な調査を開始。林芳正農水相は同日、省内に設置した対策本部で、拡大防止策の強化などを指示した。周辺農家への感染拡大は確認されていないという。
  高病原性鳥インフルの国内での発生は約3年ぶり。農水省によると、養鶏場で多くのブロイラーが11日から12日にかけて死んだと報告があった。13日に行った遺伝子検査の結果、「H5亜型」ウイルスが検出された。
  これを受け、熊本県は(1)発生した養鶏場から半径3キロメートル以内で飼育されている鳥の移動を禁止、半径10キロメートル圏から外への鶏肉と卵の出荷を禁止(2)近隣養鶏場の消毒、周辺の主要道路に消毒ポイントを設置―などの対策を決めた。
 
(元記事2
【中国】《安全》鳥インフル、今年に入り死者50人に
 NNA 2014/2/25 08:30
 
 広東省の衛生当局は24日、新たに4人の鳥インフルエンザウイルス(H7N9型)への感染を確認したと発表した。また同時に、21日に感染が発表された肇慶市の46歳女性が23日に死亡したと発表。全国で今年に入ってからの感染者のうち、死亡した患者は累計で50人となった。
  感染患者は広州市海珠区の76歳男性、広州市レイ湾区(レイはくさかんむりの下に力が3つ)の55歳女性、広州市天河区の75歳女性、仏山市順徳区の33歳男性で、いずれも重体だという。
  中国のH7N9型の感染者は今年に入って221人となった。<全国>

転載元: kat*r*giki*iem*nnのブログ

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