海峡のまち明石895特集「明石の歴史を探る①明石象と明石原人」
明石原人
呼称
明石原人は従来の呼称であるが、北京原人やジャワ原人などとは異なり、猿人・原人・旧人・新人のうちどの進化段階に該当するか現時点では定かでない(新人説や旧人説[要検証 ]がある)。ゆえに今日では「明石原人」ではなく「明石人」とする場合も多くなっている。
2つの呼称が並立するなか、発見時からの経緯に重点を置く観点により、現状を正確に反映してはいないものの当時から使われ続けている呼称である「明石原人」のほうを、本項目名に採用した。
発見と喪失、研究の経緯
人骨の発見
1931年(昭和6年)4月18日、兵庫県明石市の西八木海岸[1]において民間人・直良信夫が、古い人骨の一部(右寛骨〈う-かん-こつ〉:os coxae (right))を発見した。しかし、直良がアマチュア考古学者[2]であったこともあり、専門家には相手にされないままであった。鑑定のため東京帝国大学(現・東京大学)の松村瞭のもとへ送られ、石膏模型を製作するなど予備的な研究はなされたが、最終的な結論が出されないまま返却され、人骨を旧石器時代のものとする直良の主張は学界では認められることはなかった。その後、直良は同地点で発見した動物化石や石器を元に旧石器文化の存在を主張し続けていた[3]が、腰骨については言及しなかった。さらに、石膏模型を製作した松村の逝去もあって、学会でもこの腰骨は忘れられていった。
焼失
この人骨の焼失については、妻に制止された直良が「骨が焼ける!骨が焼ける!」と叫ぶ目の前で自宅ごと炎上したというセンセーショナルなもの[4]や、「化石が……」とつぶやきながら呆然とする直良の面前で炎上したとするもの[5]が紹介されている。だが、直良の長女である直良三樹子によると、自宅周辺に焼夷弾がばらまかれたため、直良の「もうよせ!早く逃げろ!焼け死ぬぞ!」の一言で一家は慌てて避難するしかなく、家族も直良自身も化石人骨は失念していた。10日後になってようやく鎮火し、直良も化石人骨のことが気がかりになり、焼け跡を掘ってみたが、一緒に保管していた同地点採集の石器だけが残っており、化石はとうとう見つからなかったという[6]。
石膏模型の再発見
唯一残った石膏模型も忘れられ、東大人類学教室の陳列戸棚に放置されていたが、1947年(昭和22年)11月6日に東大理学部人類学科教授の長谷部言人が写真を発見したことをきっかけに模型が再発見された。長谷部は石膏模型を計測、壮年男性の腰骨だが現代人に比べて類人猿に近い特徴を有すると指摘し、この人骨はシナントロプスやピテカントロプスとほぼ同時期の原人のものであると主張、Niponanthropus akashiensis(ニポナントロプス・アカシエンシス)」の通称を与えた[7]。さらに長谷部は、この人骨をパラステゴドンの化石と同じ地層から発見したという直良の証言から、この人骨はシナントロプスよりも古い人類のものであり、縄文時代以前に人類が日本列島に存在した証左だと結論づけた[8]。
しかし化石の現物は焼失しており、疑問を呈する研究者も多かったことから、同年10月20日から長谷部を調査団長とする西八木海岸の発掘調査が行なわれた。しかし、長谷部の「オブサーバーとしてなら参加を許す。」の一言に怒った直良が参加を拒否したため、調査団は化石発見地点から約80m西寄りの場所を調査してしまい、200万円(当時)もの予算を計上したにもかかわらず、人骨や石器はおろか、植物化石以外の動物化石すらも発見できなかった。
34年後の1982年(昭和57年)、コンピューターによる石膏模型の解析が東京大学の遠藤萬里と国立科学博物館の馬場悠男によって行われる。その結果、人類進化史の各段階の人骨と比較して「明石原人」は現代的であるとして、原人ではなく、縄文時代以降の新人であるという説を打ち出した。また、1985年(昭和60年)春には国立歴史民俗博物館の春成秀爾が西八木海岸で発掘調査を行い、人骨が出土したとされる地層と同じ更新世中期の礫層から人工的加工痕の認められる木片を発見。この木片は広葉樹のハマグワと鑑定され、板状に裂けない広葉樹であることから人工品の可能性が考えられた。なおこの地層年代は最終間氷期後半(約8万年前)~最終氷期前半(約6万年前)と考えられている[9]。
1997年(平成9年)には明石市教育委員会が近隣の藤江川添遺跡で発掘調査を行い、中期旧石器時代のものとみられるメノウ製の握斧を発見。しかし、直良が発見した人骨がどの段階のものであったのかは、今もって解明されていない。