台湾原住民
台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、17世紀頃に福建人が移民して来る以前から居住していた、台湾の先住民族の呼称。台湾政府(中華民国)の定める中華民国憲法により、「原住民族(拼音: yuánzhù mínzú, 英語: Indigenous Taiwanese / Taiwanese aborigine)」の存在が謳われている。現在、彼らは自らのことを台湾に昔から住んでいたという意味で、「原住民」と呼んでいる。漢語で「先住民」と表記すると、「すでに滅んでしまった民族」という意味が生じるため、この表記は台湾では用いられていない。しかし日本語では「原住民」が差別的な意味合いを含むとして、積極的に「先住民」「先住民族」を使ったほうが良いとする考え方もあり、日本のマスコミでは基本的に「原住」を「先住」と言い換えている[要出典]。ただし「現地の呼称や少数民族の意見を尊重」するため、と注釈を付けたうえで「原住民(族)」を使う例もある[1]。
1996年(民国85年)に原住民族を所管とする省庁である原住民族委員会が設置されたのを皮切りに、民主進歩党政権になってから原住民族の地位向上が推進されるようになり、2005年(民国94年)1月「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビ(開局時の名称は原住民テレビ)も2005年7月1日に正式に開局するなどしている。さらに現在、民族自治区の設立にかかわる「原住民族自治区法」案の審議が進められている。2008年(民国97年)に、台湾政府はセデック族(賽徳克族)を第14の台湾原住民族に認定した。
2008年(民国97年)6月末高山族現在の人口は488,773人であり、台湾総人口の2.1%を占める。この10年で人口は23.4%増加し、総人口の増加率4.9%と比べ高い。台湾では現在、平地原住民と山地原住民に分けられており、両者の変化はこの10年は小さく、山地原住民が52.9%である。現在は台湾東部に多く住み、アミ族が最も多く、約18万人である。タイヤル族(泰雅族)とパイワン族(排湾族)の約8万人がこれに次ぐ。このほか、花蓮県に9万人(18.3%)、台東県に7万9,000人(16.1%)、屏東県に5万6,000人(11.4%)の原住民が住む[2]。
日本の台湾領有後、山地原住民は「生蕃」(後述)と呼ばれ、領台40年後の1935年(昭和10年)に秩父宮雍仁親王の要請において公式に高砂族(たかさごぞく)と改称された。太平洋戦争(大東亜戦争)中には高砂族を中心にした高砂義勇隊が結成され、日本軍の指揮下で戦った。
戦後、日本政府は台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、現在でも一部の人が弔慰金を受け取ったのみで、未払い賃金の問題がある。しかし日本と台湾との国交がないため補償協議は未だに行われていない[3](高砂義勇隊を参照)。
歴史
台湾の先住民族は、言語・文化・習俗によって細分化されており、多くの民族集団に分かれているとされる。台湾が西欧人によって支配されていた1603年(明:万暦31年)に著された『東蕃記』では、台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていた。漢民族人口が増加してきた18世紀から19世紀頃に至って、台湾島の平地に住み漢化が進んだ原住民族を「平埔番」と呼び、特に漢化が進んだ原住民族は「熟番」と呼ばれた。同時期に、漢化が進んでいない原住民族を「生番」または「高山番」と呼ぶようになった。
1871年(日:明治4年 / 清:同治10年)に宮古・八重山の貢納船が台湾南東海岸に漂着、乗組員69人のうち、3人が溺死、54人が台湾原住民に殺害される事件が発生した(宮古島島民遭難事件)。日本政府は清国に厳重に抗議したが、「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)」と返事され放置されたため、日本政府は台湾出兵を行い、台湾原住民は日本軍に攻撃され降伏した。
1895年(明治28年)から台湾の領有を始めた日本は当初、清国の分類と名称を引き継いだ(ただし、番は蕃と書くことが多くなった)。やがて日本の学者によって「平埔族」と「高山族」を言語・文化・習俗によって民族集団に分類する試みが行われるようになった。現在行われている分類は、おおむねこの時代の研究を引き継ぐ。領台から40年後の1935年(昭和10年)に、「平埔蕃」を「平埔族(へいほぞく)」、「生蕃(せいばん)」を「高砂族(たかさごぞく)」と公式に呼称を改めた(「戸口調査規定」)。1903年(明治36年)、大阪で博覧会が開かれた際、民族を紹介する学術人類館に台湾原住民の女性が展示された(人類館事件)。領有当初の1907年(明治40年)には、抗日事件の北埔事件が起きた。1930年(昭和5年)には霧社事件が起こり、多くの死傷者を出した。
日本統治が確立されると、台湾原住民も漢民族同様に台湾社会に組み込まれていった。学校では公用語として日本語が教えられ、言語が異なる部族間の共通語としても機能した。太平洋戦争(大東亜戦争)中は高砂義勇隊として多くの若者が日本軍に志願し、南太平洋に広がる密林戦において大きな貢献を果たした。
第二次世界大戦後、日本に代わって台湾を統治した中華民国政府は、先住民族のうち、日本人によって「高砂族」に分類された諸民族を「高山族」または「山地同胞」「山地人」と呼称して同化政策を進めた。しかし1980年代以降の民主化の流れの中で原住民族が「原住民権利運動」を推進、中華民国政府に対してこれまでの同化政策の変更を迫った結果、中華民国憲法増修条文を始め、政府の公式文書にも「原住民(族)」、「台湾原住民族」という呼称を承認させた。さらに、漢民族(「平地人」)とは別の者として「原住民」籍(身分)を設定した。
政府認定16民族と人口
- 各部族の人口(2008年(民国97年)6月1日)、総計:488,773人、セデック族統計無し[4]。
- アミ族(阿美族、アミス族とも、大部分は自称を流用して「パンツァハ族」とも呼ばれる) 175,157人
- パイワン族(排湾族) 84,446人
- タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも) 82,273人
- タロコ族(太魯閣族、トゥルク族とも、アタヤル族に含められることもあったセデック族の一支) 24,001人
- ブヌン族(布農族) 49,529人
- プユマ族(卑南族) 11,100人
- ルカイ族(魯凱族) 11,509人
- ツォウ族(鄒族) 6,517人
- サイシャット族(賽夏族) 5,623人
- タオ族(達悟族、雅美族〈ヤミ族〉とも) 3,448人
- クバラン族(噶瑪蘭族)(カヴァラン族) 1,124人
- サオ族(邵族) 637人
- サキザヤ族(撒奇莱雅族) 5,000 - 10,000人
- セデック族(賽徳克族) 6,000 - 7,000人?
- カナカナブ族(卡那卡那富族) 500 - 600人?
- サアロア族(拉阿魯哇族) 400人?
- その他 265人
- 申告なし 32,859人
これらの民族のうち、サキザヤ、クバラン、サオを除く10民族は、民主化以前の中華民国政府により「高山族」「山地同胞(山胞)」とも呼ばれていた(サキザヤは以前は認定されず、クバランとサオは一般的には平埔族に分類された)。「高山族」は、蘭嶼(台湾島東南海上の島)に住むタオ族や東部平原に住むアミ族を除き、基本的に台湾本島の山地や山裾に居住し、人口は計40万人ほどで、台湾の総人口の2%ほどを占める。「台湾の原住民族」という言葉は、狭義には彼ら「高山族」を指す。
2004年(民国93年)1月には、約10万人いるタイヤル族のうち、花蓮県の立霧渓流域を中心に居住する約3万人について、以前からタイヤル族とは言語・文化を異にするセデック族の一支だとされてきたが、独自の意識が強かったことから、タロコ族として公認された。
2008年(民国97年)4月に、セデック族が独立した民族と認定された。
その結果、狭義の「台湾の原住民族」は前記のように政府に認定された16民族を指す。
一方、政府から未だに「原住民族」として承認されていない、「平埔族」と総称される先住民族は以下の諸民族である。
- ケタガラン族(凱達格蘭族)
- クーロン族(ケタガランの一支、亀崙族)
- バサイ族(ケタガランの一支、馬賽族)
- トルビアワン族(ケタガランの一支、哆囉美遠族)
- タオカス族(道卡斯族)
- パゼッヘ族(拍宰海族)
- パポラ族(拍暴拉族)
- バブザ族(巴布薩族)
- ホアンヤ族(和安雅族)
- アリクン族(ホアンヤの一支、阿立昆族)
- ロア族(ホアンヤの一支、羅亞族)
- シラヤ族(西拉雅族)
- マカタオ族(シラヤの一支とも、馬卡道族)
これに加えて、現在「原住民族」として認定されている
- サオ族
- クバラン族
も歴史的には平埔族に分類されていた。
「平埔族」と総称される諸民族(分類方法により7から15と数えられる)は、台湾島の平地に住み、漢民族と雑居してきた結果、漢民族との同化が進んだ。このことから、台湾に住む漢民族の多くは平埔族の血を受け継いでいるとも言える。
平埔族のうち、本来の言語や習俗を保存・継承しており、「原住民族」として公的に認定されているのは、サオ族とクバラン族である。
サオ族は「高山族」のツオウ族と文化が類似しており、かつての中華民国政府の政策もあって、「高山族」に入れられる場合もあった。
また、クバラン族は今も本来の母語であるクバラン語を話せる人が花蓮県新社に移住した集団の中に存在している。民主化によって正式に民族集団として認定される以前には、人口300人弱のサオ族と1,000人強のクバラン族が「平地山胞」として原住民籍に入れられていた。
他には、ケタガラン、タオカス、パゼッヘ、シラヤ、マカタオ族の末裔の一部が、独自の民族意識と習俗を記憶している(ただし言語を保存しているという意味ではない)以外は、現在では民族としてはほぼ消滅している。
台湾原住民族研究のなりたち
台湾原住民族に対する研究は日本の台湾統治時代に始まる。台湾が日本領になった直後、日本にない風習を多く持つ台湾原住民に惹かれた多くの民族学者、人類学者、民俗学者達が台湾に渡った。代表的な人物は鳥居龍蔵(1870年 - 1953年)、伊能嘉矩(1867年 - 1925年)、鹿野忠雄(1906年 - 1945年?)、森丑之助(1877年 - 1926年)、移川子之蔵(1884年 - 1947年)、宮本延人(1901年 - 1987年)、馬淵東一(1909年 - 1988年)、千千岩助太郎(1897年 - 1991年)、小川尚義(1869年 - 1947年)、浅井恵倫(1894年 - 1969年)らである。
彼らは平埔族の集落を訪ねたほか、山々の村落を巡り、台湾原住民が独自の生活風習を保っていた時代の調査報告や写真を残し、それらは現代においても台湾学術界に引き継がれ、貴重な史料となっている。ただしこの時期の研究には、同時代の欧米の人類学同様人種差別的な要素も少なくなかったとされる。台北帝国大学(現・国立台湾大学)土俗人種学研究室が中心となって研究が行われた。
台湾原住民族の言語
オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。このことから、台湾原住民族はもともとインドネシア・フィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、太平洋各地に拡散したとする説が有力である。大西耕二は「オーストロネシア語族語は東南アジアのみならず、ウラル語との類似[5]やアメリカインデアン語、南米先住民[6]の言語との類似も認められ、台湾から拡散したと言う説には疑問が残る。これらの言語は1万5千年前以上前に台湾以外の何処からか拡散したと考えるべき。」としている
大日本帝国時代に行われた理蕃政策によって「高砂族への理解を以て統治する方針」が執られ、明治時代の統治開始直後から既に行われていた様々な原住民へのインタヴュー調査なども、更に本格的に各方面での尽力が為された。
『原語による台湾高砂族伝説集』(台北帝国大学言語学研究室編/1935(昭和10)年)では、高砂族(台湾原住民)の原語を、なるべくその通りに記録に残す為に、独自の発音記号を用いて、蕃社の人々から聞いた逸話や伝説が記されている。本全体は783ページ以上に渡り、部族集落の場所が記された地図もあり、巻末には簡易版の単語集も編纂添付されている。
その他、『高砂族慣習法語彙』など、幾つかの言語研究書が残されている。
部族間で言語が異なるが、近年では初等教育の普及により、中華民国の公用語である国語を話せる人が多い。また日本統治時代には基本的に日本語教育も行われたため、異なる部族の間での共通語として日本語が用いられることもある。
台湾原住民の遺伝子[編集]
台湾原住民族の風習
入れ墨
出草(首狩り)
台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の首を狩る風習がかつてあった。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。
漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが、「部族を外敵から守る力を持った一人前の成人男子」としての通過儀礼(成人式)とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。成人式を終えるまでは、妻子や部族を守る力が無いとして、一人前の成人男性としての結婚や儀式などが許可されなかった。ただしこの習慣は、他にもマレー系、南米先住民族の一部などにも見られる。
大形太郎『高砂族』(1942年)によると、首狩りと言えばタイヤル族を想起させるほどタイヤル族によるものが多く、続いてブヌン族・パイワン族に多かったようで、ツォウ・アーミー・サイセットの諸族は最も早くからこの慣習を止め、ヤーミー族は古来からこの風習を持った形跡がないと言われていた。いずれの部族も、大日本帝国時代末には同邦への首狩りの慣習は殆ど止めていた。
出草は史料から見る限りでは、弓矢や鉄砲などによって対象者を背後から襲撃した後に、刀で首の切断に及ぶもので、対象と勇敢に格闘を行った末に首を切り取るというケースはあまり見られない。なお獲得した首は村の一所に集めて首棚などに飾る。
出草は祖先より伝わる神聖な行為であり、祖先の遺訓を守る行為と見なされ、「武勇を示す」や「不吉を祓う」、もしくは「冤罪を雪ぐ」などの為に行われた。したがって、馘首の対象者は必ずしも仇敵とは限らず、馘首の大半は同族同士によるものであり、被害者が漢民族や日本人である方がむしろ少なかったといわれている。日本統治時代初期には、沖縄からの行商の女性たちが山野にて出草の被害者となるケースが多かった。
日清戦争後の乙未戦争で日本が清の残党や原住民など日本の領有に不満を持つ台湾の現地勢力を掃討・平定し、領有を確定してからは、台湾総督府による理蕃政策により、首狩りの風習は犯罪行為として厳しく禁じられた。しかし原住民族蜂起の鎮圧に際して、蜂起を起こした原住民に対する出草を容認(黙認)することを見返りに、他の原住民に協力を求めるケースも多かった。特に霧社事件後に行われたセデック族鎮圧の際には、霧社事件で日本人殺害に関わった者の首に高額の懸賞金を懸け、出草を煽った。
1910年(明治43年)の五箇年計画理蕃事業事施後の1915年(大正4年)以降、出草は激減する。これは蕃地平定に伴う警官駐在所設置や銃器押收によるものであるが、公学校や教育所による教化の進展によって、「日本人」「文明人」というアイデンティティを持った原住民らが、出草という風習を放棄したとする説もある。
台湾総督府史料などを基にした説によると、1896年(明治29年)から1930年(昭和5年)までの間、出草の犠牲者はおよそ7,000人に上るとされている。なおこれらの犠牲者は、原住民同士によるもの(約1000人程)を除くと、多くは漢民族であったようである。
日本統治時代末期になると出草はほとんど見られなくなるが、完全に出草という風習が消滅するのは中華民国時代になってからである。
出草を巡る阿里山原住民に関する呉鳳説話は清朝時代末期に作られ、日本統治時代に広められて有名になったが、1980年代以降の原住民族権利運動の過程でその差別性が糾弾され、現在では話題にならなくなりつつある。
出草の動機
大形太郎『高砂族』(1942年)によると、
- 壮年の班に加わろうとする時
- 争いの正否を決定しようとする時
- 悪疫の流行を払おうとする時
- 嫌疑を解き、または冤罪を濯ごうとする時
- 娶婦の競い(結婚女性の獲得)に勝とうとする時
- 自己の武勇を誇ろうとする時
- 凶兆ある場合、不吉を未然に払おうとする時
- 自己の恨みを霽〔は〕らそうとする時
- 死後に楽土に入る資格を得ようとする時
等。
また、大日本帝国時代の調査や現地に居た人達の話によると、部族内では「部族の規律違反による制裁」、それ以外の殆どのケースの対象者は「敵対者」「何ら怨恨の無い関わりのない第三者」で、「異種族」の首を狩る事によって部族内問題とならない様にしていたようである。