天平17年(745)正月、正六位上から、従五位下に叙せられる。28才。 3月、宮内少輔に任じ、
天平18年 1月、民部少輔(しょうゆう)となった。29才。
民部卿は、紀麻呂。民部大輔は、橘奈良麻呂。
正月、左大臣橘諸兄は諸王臣を率いて、雪の中宮西院の元正太上天皇御座所に参上して宴にあずかり、
応詔歌を奏した。家持も南の細殿に列して、
♪大宮の 内にも外(と)にも 光るまで 降らす白雪 見れど飽かぬかも (万葉集・巻17・3926)
と、詠んだ。
この雪掃き日の記憶が、最後の歌(4516) を詠むまで持続したのではなかろうか。
6月、人事異動があり、家持は、越中守に任命される。
この時、越前守は、藤原宿奈麻呂だが、2ヶ月後に上総守となり、代わって越前守は大伴駿河麻呂(またいとこ)になる。
何もかも初めての経験でしかも単身赴任。
ただ、下僚に同族で気心も知れ、性格も明るかったと思われる大伴池主が掾(じょう)にいて心強かった
7月、任地に赴く時、坂上郎女(50才前後)は家持に歌を贈った。
♪草まくら 旅ゆく君を 幸(さき)くあれと 斎瓮(いはひべ)すえつ 吾が床のべに(巻17・3927)
(クサマクラ 旅に出られるあなたが 無事なようにと 斎瓮を据えました 私の床のそばに)
斎瓮は、神事に用いる土器。床辺や枕辺に掘って据え、木綿(ゆう)を垂れる神聖な瓶。
♪今のごと 恋しく君が 思ほへば いかにかもせむ 爲(す)るすべのなさ (万葉集・巻17・3928)
(これからもこのように恋しくあなたが思われたらどうすればよいでしょうね なすすべもありまん)
更に、坂上郎女は越中国に歌を贈った。
♪旅に去(い)にし 君しも継ぎて 夢(いめ)に見ゆ 吾が片恋の しげければかも (巻17・3929)
(旅にでられた あなたが続けて 夢に見えます 私の片思いが 絶えないからでしょうか)
坂上郎女が家持に贈った歌には、しばしば恋人に対する歌のようで、家持から坂上郎女に贈った歌にもその傾向がある。坂上大嬢のための代作とも考えられる。また、趣向に興ずる遊戯の歌とも思える。
大嬢を嫁がせた後、
♪玉主に 玉は授けて かつがつも 枕と吾は いざ二人宿(ね)む (万葉集・巻4・652)
(玉守に 玉は渡してしまって ともかくも 枕と一緒に私は どれ二人で寝るとしよう)
女手一つで育てた娘を手離した、半ば安堵、半ばあきらめの心境。
着任早々の家持にとって、海との出会いは感動的だった。浮き立つ家持は詠った。
♪馬並(な)めて いざうち行かな 渋渓(たに)の清き磯廻に 寄する波見に(万葉集・巻17・3954)
(馬を連ねて さあ皆出かけよう 渋渓の 清い磯辺に 寄せる波を見に)
家持は、越中赴任数ヶ月後、
天平18年、 9月25日、弟書持(ふみもち)の死の報を聞いた。
「長逝(みまか)りし弟を哀傷(いた)める歌一首並に短歌」
♪天離(あまざか)る 鄙(ひな)治めにと 大君の 任(まけ)のまにまに、、、、、(巻17・3957)
(アマザカル 越の国を治めにと 天皇の仰せに従い、、、)
♪ま幸(さき)くと いひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも(万葉集・巻17・3958)
(お互い無事でと 言って別れたのにのに もう世を去って 白雲となって 立ちなびいたと 聞くと 悲しいことです)
♪かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯(ありそ)の波も 見せましものを (巻17・3959)
(こんなに早く世を去ると かねて知っていたら 一緒に連れてきて 越の海の 荒磯の波でも 見せ てやればよかった)
年が明けると、今度は家持自身が重い病気にかかった。(天平19年春 2月20日、越中国守の館にて)
心身ともに堅固であるべきなのに、気弱くもろい自分を情けなく思って詠った。
♪世間(よのなか)は 数なきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべきおもへば (巻17・3963)
(人生とは はかないものだ 春花の 散り乱れる時に 死にそうなのを思うと)
♪山川の そきへを遠み はしきよし 妹を相見ず かくや嘆かむ (万葉集・巻17・3964)
(山川の 遠く隔てた果てなので いとしい妻にも逢えず こうも嘆くことか)
家持30才。人生的な不幸に出会って、家持の心には暗いかげりが加わってきた。
しかし、国司としての責務は重く人事にかかわることも多くなり、感傷に浸ってばかりいるわけにも行かなくなった。家持は、しだいに越中の自然のたたづまいに、心ひかれるようになってくるままに、対自然の歌を多く詠うようになった。
遠くは、秀峰立山、近くは、なだらかな二上山を望み、眼下には、射水川を見下ろすことができた。
その付近には、景勝の渋谿(しぶたに)の磯があり、少し足をのばせば、布勢の水海や羽昨(はぐい)の海や能登の島々があった。
天平19年 3月、「二上山の賦」。(3985~3987)
♪玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり (万葉集・巻17・3987)
この鳥は、ほととぎす。
ただし、昨秋着任した家持はまだ二上山に鳴くほととぎすの声は聞いていないはず。
天平19年 4月24日、「布勢の水海に遊覧する賦」。(3991・3992)
♪布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや毎年(としのは)に 見つつ偲はむ (万葉集・巻17・3992)
(布勢の海の 沖の白波のように 絶えず通ってずっと毎年 見て賞でよう)
「二上山賦」が「興に依りて」作ったものであると同じく、この「布勢水海遊覧賦」も観念的作品とする説がある。水上遊覧の作ともみられるが、そのような場面を想定して擬した机上の作の可能性が強い。
天平19年 4月27日、立山(たちやま)の賦」を作っている。(4000~4002)
♪立山に ふり置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし (万葉集・巻17・4001)
(立山に 降り置いた雪は 一年中 見ても飽きない その神々しさのゆえであろう)
家持は、公務の精励するかたわら、時に都の人には想像もつかない雄大な海山の景色を眺め、また鵜飼や鷹狩に心を晴らす。
家持さんは、鷹が好き!
天平19年(747) 9月26日、家持は、鼠の腐肉を与えて飼っていた鷹が、飼育係の山田君麻呂の不注意で逃げたのを嘆いて、『万葉集』中、第2の長さで詠った。
しかし、その2年前には、今後3年間は肉食いっさい禁止するため、鷹や鵜を飼ってはならないという勅が出ていた。仏教の殺生禁止が、時々詔勅にだされたけど、その時限りで日常生活に影響はなかった。
貴族は、禁令が出たと庶民に知らせるだけで、自分は平気で肉食していた。
「放逸せる鷹を思ひ、夢に見て感悦(よろこ)びて作れる歌一首並に短歌」(巻17・4011~4015)
♪情(こころ)には ゆるふことなく 須加の山 すかなくのみや 恋ひ渡りなむ (巻17・4015)
(心では 休む間もなく スカノヤマ 悶々とずっと鷹を恋い慕うことであろうか)
須加の山は、現在の富山県高岡市国吉の頭川(ずかわ)山東南の山地。
ここは同音を利してスカナシの枕詞とした。
スカナシは、心が楽しくない意の形容詞。
鷹狩の時期は、冬。雪の降り止んだ晴天の日が最適で、みぞれの降る日や風の吹く日、特に後者では飛ぶことに専念し、野生に戻って帰って来ない。
家持さんは、越中方言に、ほほぅ!
♪あゆの風 いたく吹くらし 奈呉(なご)の海人の 釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ (巻17・4017)
<越の俗(くにびと)の語(ことば)に東(ひむがし)の風をあゆのかぜといふ>
(あゆの風が ひどく吹いているのであろう 釣りする小舟が 波に漕ぎ隠れている)
(越の方言で東風をあゆのかぜという)
あゆの風は、日本海沿岸の各地に「あゆの風」(または「あいの風」)という風位名が現在も残っており
その多くは北東ないし北西の方角から吹く北寄りの風をいう。
富山県高岡市を中心とする越中一帯でも北寄りの風を「あい」と呼んでいるが、春先にそれが多いこと、また東からの風では、国庁のあった射水川(小矢部川)左岸から見て、奈呉の江に格別波が立たないことなどから、家持は「あゆの風」の語に春風の意を持たせ、かつ越中にはコチ(東風)の語がないことを、
珍しく思ってこのように注した、という説がある。
奈呉の海人は、奈呉の浦の漁夫。
天平18年 1月、民部少輔(しょうゆう)となった。29才。
民部卿は、紀麻呂。民部大輔は、橘奈良麻呂。
正月、左大臣橘諸兄は諸王臣を率いて、雪の中宮西院の元正太上天皇御座所に参上して宴にあずかり、
応詔歌を奏した。家持も南の細殿に列して、
♪大宮の 内にも外(と)にも 光るまで 降らす白雪 見れど飽かぬかも (万葉集・巻17・3926)
と、詠んだ。
この雪掃き日の記憶が、最後の歌(4516) を詠むまで持続したのではなかろうか。
6月、人事異動があり、家持は、越中守に任命される。
この時、越前守は、藤原宿奈麻呂だが、2ヶ月後に上総守となり、代わって越前守は大伴駿河麻呂(またいとこ)になる。
何もかも初めての経験でしかも単身赴任。
ただ、下僚に同族で気心も知れ、性格も明るかったと思われる大伴池主が掾(じょう)にいて心強かった
7月、任地に赴く時、坂上郎女(50才前後)は家持に歌を贈った。
♪草まくら 旅ゆく君を 幸(さき)くあれと 斎瓮(いはひべ)すえつ 吾が床のべに(巻17・3927)
(クサマクラ 旅に出られるあなたが 無事なようにと 斎瓮を据えました 私の床のそばに)
斎瓮は、神事に用いる土器。床辺や枕辺に掘って据え、木綿(ゆう)を垂れる神聖な瓶。
♪今のごと 恋しく君が 思ほへば いかにかもせむ 爲(す)るすべのなさ (万葉集・巻17・3928)
(これからもこのように恋しくあなたが思われたらどうすればよいでしょうね なすすべもありまん)
更に、坂上郎女は越中国に歌を贈った。
♪旅に去(い)にし 君しも継ぎて 夢(いめ)に見ゆ 吾が片恋の しげければかも (巻17・3929)
(旅にでられた あなたが続けて 夢に見えます 私の片思いが 絶えないからでしょうか)
坂上郎女が家持に贈った歌には、しばしば恋人に対する歌のようで、家持から坂上郎女に贈った歌にもその傾向がある。坂上大嬢のための代作とも考えられる。また、趣向に興ずる遊戯の歌とも思える。
大嬢を嫁がせた後、
♪玉主に 玉は授けて かつがつも 枕と吾は いざ二人宿(ね)む (万葉集・巻4・652)
(玉守に 玉は渡してしまって ともかくも 枕と一緒に私は どれ二人で寝るとしよう)
女手一つで育てた娘を手離した、半ば安堵、半ばあきらめの心境。
着任早々の家持にとって、海との出会いは感動的だった。浮き立つ家持は詠った。
♪馬並(な)めて いざうち行かな 渋渓(たに)の清き磯廻に 寄する波見に(万葉集・巻17・3954)
(馬を連ねて さあ皆出かけよう 渋渓の 清い磯辺に 寄せる波を見に)
家持は、越中赴任数ヶ月後、
天平18年、 9月25日、弟書持(ふみもち)の死の報を聞いた。
「長逝(みまか)りし弟を哀傷(いた)める歌一首並に短歌」
♪天離(あまざか)る 鄙(ひな)治めにと 大君の 任(まけ)のまにまに、、、、、(巻17・3957)
(アマザカル 越の国を治めにと 天皇の仰せに従い、、、)
♪ま幸(さき)くと いひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも(万葉集・巻17・3958)
(お互い無事でと 言って別れたのにのに もう世を去って 白雲となって 立ちなびいたと 聞くと 悲しいことです)
♪かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯(ありそ)の波も 見せましものを (巻17・3959)
(こんなに早く世を去ると かねて知っていたら 一緒に連れてきて 越の海の 荒磯の波でも 見せ てやればよかった)
年が明けると、今度は家持自身が重い病気にかかった。(天平19年春 2月20日、越中国守の館にて)
心身ともに堅固であるべきなのに、気弱くもろい自分を情けなく思って詠った。
♪世間(よのなか)は 数なきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべきおもへば (巻17・3963)
(人生とは はかないものだ 春花の 散り乱れる時に 死にそうなのを思うと)
♪山川の そきへを遠み はしきよし 妹を相見ず かくや嘆かむ (万葉集・巻17・3964)
(山川の 遠く隔てた果てなので いとしい妻にも逢えず こうも嘆くことか)
家持30才。人生的な不幸に出会って、家持の心には暗いかげりが加わってきた。
しかし、国司としての責務は重く人事にかかわることも多くなり、感傷に浸ってばかりいるわけにも行かなくなった。家持は、しだいに越中の自然のたたづまいに、心ひかれるようになってくるままに、対自然の歌を多く詠うようになった。
遠くは、秀峰立山、近くは、なだらかな二上山を望み、眼下には、射水川を見下ろすことができた。
その付近には、景勝の渋谿(しぶたに)の磯があり、少し足をのばせば、布勢の水海や羽昨(はぐい)の海や能登の島々があった。
天平19年 3月、「二上山の賦」。(3985~3987)
♪玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり (万葉集・巻17・3987)
この鳥は、ほととぎす。
ただし、昨秋着任した家持はまだ二上山に鳴くほととぎすの声は聞いていないはず。
天平19年 4月24日、「布勢の水海に遊覧する賦」。(3991・3992)
♪布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや毎年(としのは)に 見つつ偲はむ (万葉集・巻17・3992)
(布勢の海の 沖の白波のように 絶えず通ってずっと毎年 見て賞でよう)
「二上山賦」が「興に依りて」作ったものであると同じく、この「布勢水海遊覧賦」も観念的作品とする説がある。水上遊覧の作ともみられるが、そのような場面を想定して擬した机上の作の可能性が強い。
天平19年 4月27日、立山(たちやま)の賦」を作っている。(4000~4002)
♪立山に ふり置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし (万葉集・巻17・4001)
(立山に 降り置いた雪は 一年中 見ても飽きない その神々しさのゆえであろう)
家持は、公務の精励するかたわら、時に都の人には想像もつかない雄大な海山の景色を眺め、また鵜飼や鷹狩に心を晴らす。
家持さんは、鷹が好き!
天平19年(747) 9月26日、家持は、鼠の腐肉を与えて飼っていた鷹が、飼育係の山田君麻呂の不注意で逃げたのを嘆いて、『万葉集』中、第2の長さで詠った。
しかし、その2年前には、今後3年間は肉食いっさい禁止するため、鷹や鵜を飼ってはならないという勅が出ていた。仏教の殺生禁止が、時々詔勅にだされたけど、その時限りで日常生活に影響はなかった。
貴族は、禁令が出たと庶民に知らせるだけで、自分は平気で肉食していた。
「放逸せる鷹を思ひ、夢に見て感悦(よろこ)びて作れる歌一首並に短歌」(巻17・4011~4015)
♪情(こころ)には ゆるふことなく 須加の山 すかなくのみや 恋ひ渡りなむ (巻17・4015)
(心では 休む間もなく スカノヤマ 悶々とずっと鷹を恋い慕うことであろうか)
須加の山は、現在の富山県高岡市国吉の頭川(ずかわ)山東南の山地。
ここは同音を利してスカナシの枕詞とした。
スカナシは、心が楽しくない意の形容詞。
鷹狩の時期は、冬。雪の降り止んだ晴天の日が最適で、みぞれの降る日や風の吹く日、特に後者では飛ぶことに専念し、野生に戻って帰って来ない。
家持さんは、越中方言に、ほほぅ!
♪あゆの風 いたく吹くらし 奈呉(なご)の海人の 釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ (巻17・4017)
<越の俗(くにびと)の語(ことば)に東(ひむがし)の風をあゆのかぜといふ>
(あゆの風が ひどく吹いているのであろう 釣りする小舟が 波に漕ぎ隠れている)
(越の方言で東風をあゆのかぜという)
あゆの風は、日本海沿岸の各地に「あゆの風」(または「あいの風」)という風位名が現在も残っており
その多くは北東ないし北西の方角から吹く北寄りの風をいう。
富山県高岡市を中心とする越中一帯でも北寄りの風を「あい」と呼んでいるが、春先にそれが多いこと、また東からの風では、国庁のあった射水川(小矢部川)左岸から見て、奈呉の江に格別波が立たないことなどから、家持は「あゆの風」の語に春風の意を持たせ、かつ越中にはコチ(東風)の語がないことを、
珍しく思ってこのように注した、という説がある。
奈呉の海人は、奈呉の浦の漁夫。