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[転載]日本海海戦から110年 対馬の人々は敗残のロシア兵を手厚く介抱した 今年も5月27日に対馬で慰霊祭

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日本海海戦
 日露戦争中の1905年5月27~28日、対馬沖で日本海軍の連合艦隊がロシア海軍バルチック艦隊を破った。当時、世界最大の軍事力を保持していたロシアの敗北は世界を驚かせた。同年9月5日にポーツマス条約が締結され、日露戦争は終結した。日本以外の国は対馬沖海戦と呼ぶ。
(2014年5月3日掲載)

語り継がれる人間愛 日本海海戦 敗残ロシア兵介抱 対馬市上対馬町西泊 今年も慰霊祭/平和を ナガサキ

 対馬市の厳原港から北へ約100キロ。景勝地で知られる上対馬町殿崎に、日露戦争の日本海海戦の記念碑が立つ。戦いに敗れ、この地にたどり着いたロシア兵を地元の人たちは介抱し、手厚くもてなした。国家の争いを超えた人間愛は大切な資料とともに受け継がれている。 
 

 殿崎の段山からは日本海が見渡せる。1905年5月27日、戦闘の火ぶたが切られた。

 「村人たちは段々畑の麦を刈りながら、海の向こうの大海戦を目にした」「水平線のかなたから光るものが少しずつ近づいてきた」。殿崎に程近い西泊地区に住む犬束通さん(93)は、当時14歳だった母や古老から、開戦とその後の村に起きた出来事をよく聞かされた。

 開戦初日の昼すぎ、日本海軍に撃沈されたロシアバルチック艦隊の戦艦モノマフの敗残兵143人が、4隻のボートに分乗して浜に上陸した。「西泊の村は水兵の上陸で大騒ぎになった」-。犬束さんが話を続ける。

 ロシア兵の中には深い傷を負った者もいた。言葉は通じなかったが、身ぶり手ぶりでやりとりをするうちに、水をほしがっていることが分かった。村人たちは、恐れながらも近くの水場へ連れて行き、水を飲ませた。

 ロシア兵は西泊の2階建て民家6軒に分宿した。村人はおかゆやイモ、その頃は貴重な食糧だった米も炊き、軍服を洗濯した。村人の振る舞いにロシア兵は心から感激していたという。

 日本海海戦記念碑は1912年に建立され、連合艦隊を率いた東郷平八郎元帥が記した「恩」「海」「義」「〓(〓は「やまへん」に「喬」)(きょう)」の文字が刻まれる。恵みの海と、ロシア兵を温かく受け入れた西泊の人たちの義の気高さをたたえたとされる。

 海戦100周年の2005年には、近くに新たな記念碑が建立された。対馬沖で重傷を負い、佐世保の海軍病院で治療を受けていたロシア艦隊のロジェスト・ウェンスキー司令官を東郷元帥が見舞い、握手をする場面が描かれている(古島松之助画)。

 犬束さんはたくさんの先人に伝え聞いたことを後世に残すため、海戦伝記集「妣(はは)と記念碑」を09年に自費出版した。「敵兵でも同じ人間であることに変わりない。悲しい歴史の中にも人間愛があったことを、生きている限り伝えていきたい」。西泊の美挙がいつまでも語り継がれることを願ってやまない。


    ■   ■

 西泊地区の農家で、日本海海戦の記念碑に関する文書が丁重に保管されている。記念碑に刻まれた東郷元帥の揮毫(きごう)の写し、対馬出身の在京軍人が書いた手紙、記念碑建立の趣意書や寄付の文書など約100点。

 23戸の農家でつくる西泊農組は散逸を防ぐため、資料を収めた木箱を開けるときの決まり事を定めている。普段は開かれることのない木箱には「五人以上ノ立會(たちあい)ヲ受ケザレバ開箱スルヲ禁ズ」と書かれている。5人の立ち会いと署名なしに開けることはできない。最近も10年ほど閉じたままだった。「記念碑ができた当時の様子を伝える大事な資料。大切に保管し、次世代に引き継ぎたい」と安心院(あじみ)文夫組合長(80)。関係者はこのしきたりを固く守り続けている。

 来年で開戦110年となる日本海海戦。今年も5月27日に殿崎で戦没者の慰霊祭が行われる。

 ●浜辺に残る戦艦の大砲 茂木浜海水浴場

 天然の砂浜が広がる対馬市上対馬町の茂木浜海水浴場。夏になると海水浴客でにぎわう浜辺に、場違いな鋼鉄の大砲がある。日本海海戦で日本海軍に撃沈されたロシア戦艦ナヒモフの大砲だ。

 大砲は1980年に海中から引き上げられた。さびついた口径20センチの砲身の先に日本海が広がる。この浜にも、100人近いロシアの敗残兵が3隻のボートに分乗して上陸した。

 ロシア兵は近くの琴(きん)地区の民家や小学校に収容された。ここでも村人たちは食事や焼酎を与え、ロシア兵を喜ばせたと伝えられている。
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(以上、西日本新聞)
 
対馬は外敵と向き合う最前線です。元寇の悲劇はしっかりと後世に語り継いで行かなければなりません。
もう一つとても大切なことがあります。
明治時代以前から、植民地化の波が東洋に押し寄せて来ていて、特に領土拡張の野望あからさまなロシア帝国に当時の小国・日本が敢然と立ちあがった日露戦争の最終局面となった日本海海戦。これは対馬の島民の眼前で展開されました。
島民は今でも当時を語り継ぎ、歴史を顕彰して戦死した日露の将兵を慰霊しています。
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海戦の叙事詩の歌です。戦いの経緯がよく分かります。
 
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10年前に建てられた顕彰碑 
負傷して佐世保の海軍病院で手厚い看護を受ける敵将
ロジェストウェンスキー提督を東郷提督が見舞った様子のレリーフです
 
                     ツシマの歴史凄いでしょ
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転載元: くにしおもほゆ


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