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[転載]GHQ焚書図書開示(#68ハワイをめぐる日米関係史、尾形さんのコメント)#26

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GHQ焚書図書開示(#68ハワイをめぐる日米関係史、尾形さんのコメント)#26
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#69「立ちつくす日本、踏みにじる米国」
 ハワイをめぐる日米関係史

前回、アメリカがハワイを併合しようとする動きがあり、それを避けるためにカラカウア王は明治天皇に彼の姪にあたるカイウラニ王女と山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)を結婚させようとした話を書いた。それに米布互恵条約 (1874年)、「ベイオネット憲法」(1887年)についても触れた。しかし、まだハワイの歴史がよくわからない。そこで、カラカウア王の次の王リリウオカラニ女王即位までの大まかな歴史の流れをまとめてみる。


最後の王リリウオカラニ女王即位までの歴史
1839年にイギリスのマグナ・カルタを基本とした「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にはハワイ王国憲法を公布して立憲君主政を成立させた。1845年には基本法により行政府として国王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職を置き、15名の世襲議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた(カメハメハ3世の時代)
1842年、アメリカはハワイ王国を独立国として承認。
1843年、イギリス、フランスもハワイ王国を独立国として承認。
ぅ魯錺い傍化した欧米人はハワイ王国内での政治的発言力を強め、1844年にはハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任が認められた。
1852年、ハワイ王国憲法成立(奴隷禁止条項が含まれている。リンカーンの奴隷解放の前)。
1850年、クレアナ法(土地法)が制定(外国人の土地私有が認められる)→ 対外債務を抱えていたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島全体の約4分の3に達する面積の土地が外国人所有となった(カメハメハ4世の時代)。
1852年、ハワイ諸島をアメリカに併合し、ハワイ州として連邦に加えるべきだという提案がアメリカ議会に提出された。
この時代、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、たがいに対立していた。
1863年、カメハメハ5世即位。
カメハメハ5世は、1864年8月、新しい憲法を公布した(歴代王の親英政策により、ハワイ王国がイギリスに傾斜することを怖れたアメリカは、秘密裏にハワイ王国の併合計画をすすめた)。
1860年代は捕鯨業衰退にむかい、製糖業が発展にむかった。南北戦争で大打撃を受けたアメリカ本土にかわってハワイ諸島においてサトウキビ栽培がおおいに拡大した時期。一方白人がもちこんだ感染症のために先住ハワイ人(ポリネシア人)の人口が激減。サトウキビ農場での労働力不足を補うため、中国系ないし日系の移民が多数ハワイに流入。
1871年(明治4年),日布修好通商条約締結。
1872年、カメハメハ5世死去(次の王位継承者を指名していなかったので選挙により親米派のルナリロが王位継承(1873年)。(そこ後ルナリロは肺結核とアルコール依存症によって没した)
1874年、カラカウア即位(「国王選挙」の結果)
案映、アメリカと米布互恵条約を締結。→ハワイの全ての生産品は非課税でアメリカへの輸出が可能。ところ、「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれていた。
1881年、カラカウア国王世界一周旅行。明治天皇に会見。
1887年米布互恵条約の更新(アメリカが真珠湾の独占使用権を獲得する条件で)(カラカウア国王は反対であったが、アメリカ上院の姿勢は強硬→ 7年の期限付きでの独占使用の条件で認めた)
1887年「ベイオネット憲法」に採択。→アジア系移民から一切の投票権を奪った。
1891年1月、カラカウアの後任としてその妹リリウオカラニが王位に就いた。

*明治天皇との会見で、カラカウアがカイウラニ王女と山階宮定磨王との結婚を要請しただけでなく、他に日本の協力を要請している。それを付記しておく。
1 日本人移民の実現(ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補うこと)
2 日本・ハワイの合邦(ハワイを日本にしたいとの申し出)
4 日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設。
5 日本主導による「アジア連邦」の実現

リリウオカラニ女王とは
リリウオカラニ(1838年9月2日-1917年11月11日)は、ハワイ王国第8代の女王。最後のハワイ王。在位は1891年1月29日から1893年1月17日まで。1862年にアメリカ人のジョン・オーウェン・ドミニスと結婚。彼は後にオアフ島知事になるが、リリウオカラニが即位した7か月後に死去。
豊かな心をもった女性で、詩や作曲をものとしている。『アロハ・オエ』は彼女の作詞・作曲である。

Aloha 'Oe アロハ・オエ(あなたに愛を)

Ha'aheo ka ua i na pali
Ke nihi a'ela i ka nahele
E hahai ana paha i ka liko
Pua 'ahihi lehua o uka

Aloha 'oe, aloha 'oe
E ke onaona noho i ka lipo
A fond embrace a ho'i a'e au
Until we meet again

山たちこめる雲 霧化し森の間間
さがす谷咲く花 潤むいのちつぼみ
ふるさと ふるさと
うるわしのああ まほろば 
もう一度 抱きしめて
さようならふるさと

この詩に対してかの有名なブログ「ねずさんのひとりごと」で、ねずさんは以下のような文章を書いておられる。


<かつて日本に来日したカラカウア大王は、キリスト教宣教師によって禁止されていたフラダンスを復活させた大王でもありました。ですからフラダンスの父と呼ばれています。

そして、東郷平八郎氏と親交があったといわれるハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王が、作詞作曲したフラの名曲が、あの有名な「アロハ・オエ」です。

とてもやさしい、いかにも太陽の恵みを燦々と浴びた南国の曲という印象がありますが、そこに歌われているのは「うるわしの古郷、もう一度抱きしめて、さようなら古郷」なのです。
名曲アロハオエの美しい旋律の陰には、侵略者に踏みにじられ祖国を失ったハワイの民の悲しみが隠されています。

このリリウオカラニ女王の決断は、ポツタム宣言受諾のときの昭和天皇のご聖断を思い浮かべさせます。

そのとき昭和天皇は「一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法は無いと思う。みなの者は、この場合、私のことを心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない」と語られました。

古来、国王というものの多くは、むしろ逆に、国民の命などどうなっても構わないから、国王だけが生き残る、という選択をしています。
これは世界中がそのような歴史にいろどられています。

けれど、国王がむしろ逆に、「我が身はどうなっても構わない。ひとりでも多くの国民の命を守りたい」とご決断されているわけです。

リリウオカラニ女王は、退位し、ハワイ王国は滅亡しました。

日本も、もしかしたら同じ道をたどったかもしれない。
あるいはいま、たどりつつあるようにさえ見えます。
けれど、日本のポツタム宣言受諾のときの天皇のご聖断と、リリウオカラニ女王のときとの違いは、退位があったかなかったによる違いです。
ハワイは、退位という現実の前に、それ以前にあったハワイの古くからの文化のすべてが失われてしまいました。

日本も、もしかしたら黒船来航以後、欧米列強によって国民の人口の8割が失われ、さらに国そのものがこの地上から消えてしまっていたのかもしれないのです。
いいかえれば、いま私達がこうして生きているのは、天皇の民として生きた先人達の、まさに血の滲むような努力によるものだし、その努力によって、私たちは私たちの国の文化や伝統を、いまだに(かろうじてかもしれないけれど)保つことができています。
そこが大事なとこなのではないかと思います。>


リリウオカラニ女王時代、ハワイ人による王政の強化を求める王政派と、「砂糖貴族」等を中心に、王政を打倒し米国への併合を目指す共和制派の対立が深まっていた。勿論、リリウオカラニは王政派である。彼女の君主絶対の考えが強すぎたために、逆に共和制派に過激な行動に走らせ、結果として王政を潰してしまうことになったと西尾氏は解説している。

ここからどのようにして王政が崩壊ていったかを西尾氏の説明とウィキペディアの記事を織り交ぜながらまとめてみる。

.螢螢Εカラニの指名した閣僚は再三にわたり入閣を拒否して内閣が機能しないという事態に陥った。1892年11月、ようやく組閣のための閣僚承認がなされて政治危機を脱した。
▲螢螢Εカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制とする政策を打ち出したが、これに対しては、アメリカ系白人勢力より道徳的見地からの批判が噴出した。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王党派ハワイ人たちは、1864年の憲法をもとにして女王に多くの権力を集中させる(例えば、上院は国王の承認が必要)新憲法制定を計画して親米派に対抗しようとした。また新憲法には民衆に選挙権を与える条項もあった(市民権を持っていない白人は参政権を否定されることになる)。
こうした動きに危機感を抱いたのはアメリカ駐ハワイ公使ジョン・スティーブンスである。サンフォード・ドールらと接触し、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立を計画した。

*多国籍農業・食品企業ドール・フード・カンパニーの創立者ジェームズ・ドールはサンフォード・ドールの従兄弟にあたる。

1892年春、親米派は「併合クラブ」と称する秘密結社をつくった。中心メンバーは、サンフォード・ドール、ロリン・サーストン、W.R.カースル、S.M.デーモンであった。
1893年1月14日、サーストンらの呼びかけによってホノルルに「公安委員会」と名乗る組織がつくられ、翌15日、「公安委員会」はホノルル市民に対し、ホノルルライフルズ部隊本部で市民集会を開く旨呼びかけた。これに対し、王党派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるべきとの意見をもつアメリカ系閣僚の声もあり、反対集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された。反対集会の目的は「リリウオカラニによる新憲法を公布しない」という声明を発表することによって、これ以上の混乱を防止しようというものであった。
Д螢螢Εカラニは宮殿外で待機する群衆に、しばらく憲法の施行延期を発表した。
翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた。
この動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツに対し「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装したアメリカ海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。
1月17日、サンフォード・ドールは新政府樹立の準備のため、判事を辞任した。午後2時、政府庁舎に「公安委員会」一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパーによりハワイ王国の終結および暫定政府の樹立が宣言された。ハワイ王国の政府庁舎および公文書館はホノルルライフルズによって占拠され、戒厳令が布かれた。
ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。
リリウオカラニはスティーブンスに特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないよう求めたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した。
軍艦ボストンの主砲の照準はイオラニ宮殿に合わせれれていた。宮殿前には、大勢のハワイ市民が集まっていた。スティーブンスやハワイ最高裁判事サンフォード・ドールら在ハワイ米国人達は、この状況で女王の身柄を拘束し、王制打倒のクーデターを強行した。

ハワイの王族や軍、あるいは国民達は、女王奪還を企図し、徹底抗戦の構えを見せたが、市民が人質に取られているという状況を前に、リリウオカラニ女王は「無駄な血を流させたくないと、退位を決意した。
退位の決意をドールに次のように伝えた。

<私、リリウオカラニは、神の御恩寵によって、また王国憲法のもとに、女王として、この王国に暫定政府の樹立を求める特定の人々が私およびハワイ王国立憲政府に対しておこなった反逆行為すべてに対して、ここに厳重に抗議します。 ……(中略)…… 軍隊の衝突と、おそらく生命の喪失となることを何としても回避せんがため、米国政府が事実を提示されたうえで、アメリカの外交使節のとった行動を取り消して、ハワイ諸島の立憲君主としての権威の座に私を復位させる時が来るまで、私はこの抗議をもって、私の権限を放棄いたします。  紀元1893年1月17日 R・リリウオカラニ>

この瞬間、ハワイ王国は滅亡した。危機感を持ったカラカウア大王の来日から僅か12年後のことであった。
案椶呂海里茲Δ淵魯錺い任瞭阿に迅速に対応している。巡洋艦「浪速」と「金剛」を日本から派遣している。ハワイには、将来の日本との合邦もあり得るという前提で、2万5千の日本人が入植していて、彼等を守るためである。

ここからねずさんの文章を引用させていただく。


「ねすさんのひとりごと」の記事

<2月23日、到着した「浪速」と「金剛」は、米軍艦ボストンの両隣に投錨します。
艦長は、若き日の東郷平八郎です。

東郷平八郎は、いっさい米人たちと会おうとせず会話も拒み、ただ黙ってボストンの両隣に「浪速」と「金剛」を停泊させました。
もちろん砲門は、まっすぐ前を向いたままです。
けれど、完全な臨戦態勢です。

ボストンからしたら、これほど気持ちの悪いものはありません。
両側の日本の巡洋艦の主砲が、ちょっと横を向いただけで、ボストンは沈没を免れないからです。

東郷平八郎は、実弾をもって戦うのではなく、米人たちに無言の圧力を与えることで、ハワイ市民の混乱や、市民に対する白人の略奪を阻止したのです。>


運栃毒匹砲茲襯魯錺せ団蠕府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国などの国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。ハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、2月1日、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。
しかし、リリウオカラニの抵抗やアメリカ国内における女王支持派の存在、およびスティーブンスがこのクーデタでとった強引な手法に対する世論の反発などにより、併合は見送られた。


尾形さんのコメント

木庵様

 大著『GHQ焚書図書開封』の解説、ご苦労様です。西尾先生のこの労作は漸く文庫本になり始めていますが、一人でも多くの学生はじめ国民に読んで貰いたいですね。

欧米列強の侵略のあくどさは高山正之先生が、分かりやすく紹介されていますが、このハワイ強奪も近著『アジアの解放、本当は日本軍のお蔭だった』(WAC)の「パターン死の行進はクサイぞ!」の章にもあります。

1893年1月14日、ハワイ王朝のリリオカラニ女王が、高額納税者に限った選挙権を貧しいハワイ島民にも付与する憲法改正を布告した。彼女の布告に対して、ハワイの政治経済を握っていた米国系市民が反発した。女王は、最後の外交文書となった日本に対する不平等条約解消を承認する文書にサインした後、退位を宣言した。

代わって米国人サンフォード・ドールがハワイ共和国の初代大統領に就任した。彼の一族は王領のラナイ島を接収し、今はパイナップル農場を経営する。
 
この時代、世界は白人の遣りたい放題だった。同じ年、英国はビルマの王様を島流しにして英国の植民地にしている。そんな勝手を認めたのが1885年に結ばれたベルリン条約だ。白人国家が第三世界を植民地にする場合、その所有は早い者勝ちとし、海岸線を取った場合はその奥地も優先所有権を持つ、とした。

だから米国がハワイを取っても国際的には何の問題もなかったはずだが、そこに日本が巡洋艦浪速と金剛を派遣してきた。二隻はリリオカラニを脅した米戦艦ボストンを挟むように投錨した。明らかに独立国ハワイ王朝を近づくで奪った米国への非難を示していた。

日本の巡洋艦は、ハワイ共和国樹立の祝砲をドールから求められると浪速の艦長東郷平八郎は「その要を認めず」と拒絶した。「他国の艦船も東郷に倣い、ホノルル港はハワイ王朝の喪に服するように静寂に包まれた」(ジョン・ワイリー、「盗まれた王朝」)。米国は自分が開国させたアジアの小国に大恥をかかされた。

米国は米西戦争の最中の1898年、ハワイを併合した。「脅威・日本」への布陣だった。

などとあります。ご参考まで。
尾形拝


木庵の反応

それにしても東郷平八郎の行動には胸がすく思いがする。近頃の尖閣での日本の対応とは格段の差がある。当時日本は独立国家としての威厳があった。独立国家とは軍隊がしっかりしていないとなりたたない。戦後の平和憲法では自衛隊は東郷のような威厳ある行動などとれない。
つづく


写真:リリオカラニ女王、米軍艦ボストン、巡洋艦浪速

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転載元: 木庵先生の独り言


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