スコータイ王朝
詳細は「スコータイ王朝」を参照
クメールの王ジャヤーヴァルマン7世(在位1181-1218/1220年)が死去した後、1240年頃に[57][58]、タイ族の指導者バーンクラーンハーオ(シーインタラーティット)がパームアンとともに、クメールの支配するラヴォ王国からの独立を宣言し、スコータイのクメール領主を追いやりスコータイ王国を建国したとされる[注 5][59]。
王ラームカムヘーンは、1292年のタイ語最古のラームカムヘーン大王碑文「スコータイ第一刻文」で知られ、タイ文字を考案したとされる。また、上座部仏教を公式の宗教として設立し、推進した[63]。しかし、ラームカムヘーンが死去すると、各地で離反が相次ぎスコータイ王朝は衰退していった[64]。その後、リタイ(在位1347-1368年頃)が即位し周辺を治めたが、この時代に成立したアユタヤ王朝の圧力が次第に増すと、1378年、王サイルータイ(マハータンマラーチャー2世、在位1368-1398年頃)の時代に属国となった[65]。
アユタヤ王朝
詳細は「アユタヤ王朝」を参照
前期
スコータイ王朝の衰退の後、1351年[66]、ウートーン(ラーマーティボーディー1世)がチャオプラヤー川沿いにアユタヤ王朝を開いたとされる[67]。この時代、ウートーンの出身地ともいわれるスパンブリーや[注 6][68][69]ロッブリー(ラヴォ)の存在が大きかったが、ウートーンがラーマーティボーディー1世(在位1351-1369年[70])として即位すると双方を連携させ、スパンブリーを義兄(王妃の兄)パグワに、ロッブリーを王子ラーメースワンに統治させた[67][71][72]。
1540年、ビルマのタウングー王朝の王タビンシュエーティー(在位1531-1551年)がポルトガル人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めた[73]。第一次緬泰戦争(1548-1549年)では、タウングー王朝のバインナウンがアユタヤに侵攻し、1549年にアユタヤ王朝の王チャクラパット(在位1548-1569年)が危機に陥った際、王妃シースリヨータイが身を挺して命を助けたといわれる[74]。この戦いでは、アユタヤの王チャクラパットも防衛にポルトガル人の傭兵を雇用して侵攻を阻んでいる[75]。
1551年、タウングー王朝の王となったバインナウン(在位1551-1581年)は、現在のシャン州となっている東部のシャン族を制圧すると、1558年にラーンナーに侵攻して征服した[76][77]。第二次緬泰戦争(1563-1564年)では、占領したラーンナーの軍を率いたバインナウンがアユタヤ王朝のピッサヌロークを制圧した後、1568年、再びアユタヤに侵攻し[78]、翌年、ビルマに占領された[79]。
後期
1581年にタウングー王朝のバインナウンが死去した後、タウングー王朝が混乱状態をきたすと、1584年にナレースワン(在位1590-1605年)は機が熟したと見て、アユタヤ王朝の独立を宣言する[80][81]。1590年に王位を継いだナレースワンは[82]、1594年にタウングー王朝へ侵攻した[83](緬泰戦争〈1594-1605年〉)。1595年、ペグーの戦いに勝利し、要衝のマルタバンを奪い返した[84]。1598年にラーンナーを属国とすると、1599年には再びペグーからタウングーにかけて侵攻した[85]。
1605年にナレースワンが死去し[86]、弟のエーカートッサロット(在位1605-1610/1611年)の時代になると、いっそう対外交易を進展させた[87]。イギリス(イギリス東インド会社)は1605年にパタニ、1612年にはアユタヤでの商業活動を許可された[88]。
王ソンタム(在位1611-1628年)は、日本人約800人を傭兵として雇い、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた[88]。1612年頃アユタヤに渡来した山田長政が、津田又左右衛門を筆頭とする日本人義勇兵(クロム・アーサー・イープン[89]、Krom Asa Yipun[90])に入ると頭角を現わし、王ソンタムに殊遇されたが、ソンタム死去による王位継承争いの後プラーサートトーン(在位1629-1656年)が王位に就くと、1630年頃、王の命令で山田長政は暗殺され[91]、アユタヤ日本人町は一時焼き払われた[90]。
1663年11月から翌年2月にかけて、オランダ(オランダ東インド会社)が武装した2隻の船でチャオプラヤー川を封鎖し、中国人の船を捕獲するなどして一定の独占貿易を要求した。ナーラーイはこの要求を受け入れ、1664年8月に条約を締結した[94]。このことより王ナーラーイは、1665年、国に大事があった時のためにアユタヤより上流のロッブリーに副都を建設した[29]。1685年12月にはチャオプラヤー・コーサーパーンがフランスにアユタヤ大使として派遣され、1686年9月、ルイ14世に謁見し、翌年9月に帰国している[95]。1688年にシャム革命が勃発。最高顧問であったコンスタンティン・フォールコンが6月に処刑され、7月に王ナーラーイが死去するとペートラーチャー(在位1688-1703年)が即位し、フランス勢力を一掃した[96]。
アユタヤ王朝は、16世紀の1516年にポルトガルとの条約締結から始まって、ヨーロッパと接触をもったが[97][98]、中国との関係が最も重要であった[99]。1709年に王位に就いたプーミンタラーチャー(ターイサ〈池の端〉王、在位1709-1733年)の時代、中国を中心にタイ米の輸出が開始され[100][101]、オランダ領ジャワ(オランダ東インド会社)やイギリス領インド(イギリス東インド会社)にも輸出された[102]。また、ベトナムと手を結んだカンボジア内の勢力に対して1720年に派兵し、主権を維持した。しかし、次の王ボーロマコート(在位1733-1758年)の時代も、カンボジアの親タイ派と親ベトナム派の対立が続くと、1749年、再びカンボジアに派兵し属国とした[103]。
アユタヤ王朝は、400年間以上の繁栄の後、ビルマに興ったコンバウン王朝との泰緬戦争(1759-1760年)で、テナセリム(タニンダーリ)、マルタバン(モッタマ)、タヴォイ(ダウェイ)を失った[104]。1765年からの泰緬戦争(1765-1767年)で、ついにコンバウン王朝の侵入により、1767年4月、首都アユタヤは攻め落とされ、アユタヤ王朝は破滅した[105][106]。
トンブリー王朝
詳細は「トンブリー王朝」を参照
1766年から1769年にかけて清緬戦争が勃発し、1776年にはコンバウン王朝がタイ領から撤退して圧力が弱まったこともあり[107][108]、華僑の父とタイ人の母をもつタークシンは、華僑の支援のもとに要衝トンブリー(現在のバンコク・トンブリー区)を拠点として再統合することに成功し、1768年末にタークシン(在位1768-1782年)は王となった[109]。新首都トンブリーを拠点にトンブリー王朝はアユタヤを取り戻すとともに支配域を回復し、さらに拡大を図った[110]。また、カンボジアで始まった王座を巡る争いに介入し[111]、1771年からカンボジアに2度侵攻した[112][113]。
チャクリー王朝
詳細は「チャクリー王朝」および「ラッタナーコーシン王国」を参照
その後、精神的偏重性を示したとされる王タークシンは[114]、1782年初頭、クーデターで追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリーにより同年4月6日処刑された[109]。チャオプラヤー・チャクリーはラーマ1世(在位1782-1809年)として王を継ぎ、後にプラプッタヨートファーチュラーロークと呼ばれるチャクリー王朝(ラッタナーコーシン王朝)の最初の王となった[115]。ラーマ1世は、右岸のトンブリーからチャオプラヤー川を渡った左岸に新しい首都バンコクを建設し、現在に続くチャクリー王朝が始まった[116]。
ラーマ2世(在位1809-1824年)の時代になって、1821年にタイがナコーンシータンマラート王国によりケダ・スルタン国を征服し[117][118]、統治を開始するなどの対外拡張政策を推進した[119]。タイのラーマ1世以後の支配者がアジア地域におけるヨーロッパ列強の力を認識したのは、隣国のコンバウン王朝が1824年からの第一次英緬戦争によりイギリスに敗北し、一部領土を失うなど[120]、ヨーロッパ諸国の脅威に晒されたことによる[121]。ラーマ3世(在位1824-1851年)は、1826年、イギリスと通商条約(バーネイ条約)を締結し[122][123]、1833年にはアメリカとも外交上の条約を交わした[124]。