Quantcast
Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

[転載]タイの歴史

$
0
0


タイの歴史

    
タイの歴史地方の歴史
タイの地勢図
タイの歴史(タイのれきし)では、タイ王国歴史を時代ごとに述べる。





先史時代

東南アジアにおける人類(ホモ・エレクトス)の居住は、50万年以上遡る[1]タイ北部ラムパーン県からは100万年-50万年前とされるホモ・エレクトスの痕跡が認められている[2]。現生の人々がタイの地域に住み始めたのは旧石器時代からである[3]

タイ各地に点在した当時の人々は、移動しながら洞窟や岩陰などに住み、狩猟・採集・漁労で生活をしていた[4]中石器時代となる約1万年前には世界的な気候の温暖化が進み、海面の上昇により地形は大きく変化したが、東南アジアは位置的環境より動植物相はあまり変化しなかったことから、この石器時代の生活形態は長く続いた[5]

1万1000年前から7500年前の年代とされるホアビニアン英語版の中石器文化(ホビアン文化)は東南アジア各地に広く認められ、タイにも分布が見られる[6][7]

東北部

新石器時代には様相が大きく変化し、稲作が認められる文化(新石器文化)が出現する[8]。北部イーサーン地方のバーンチエン遺跡などの研究によると、紀元前2千年紀には[注 1]、タイに初期の青銅器文化をもつ集落があったといわれる[9][10]。この発展に伴って、水稲の耕作が認められ[注 2][11]、同時に社会的な組織構成が進んだ[12]。これらの文化は、中国も含めてタイなど東南アジア全域に拡散していた。

紀元前1000年頃には、イーサーン地方のウボンラーチャターニー県の東端に位置するパーテム英語版 (Pha Taem、タイ語: ผาแต้ม) に岩絵が描かれた[13]。また、ウドーンターニー県プープラバート英語版 (Phu Phra Bat、タイ語: ภูพระบาท) の岩絵は約6000年前のものともいわれる[14]

このほかノーンブワラムプー県の岩絵などは、中国南部の岩絵(花山の岩絵など[注 3])との類似性が指摘される[15]。岩絵はタイ東北部のほか、北部、中部南部にも認められる[15]

民族


東南アジアのネグリトであるマニ族英語版 (Maniq) はタイ南部の先住民としてマレー半島に住み、かつてはアンダマン諸語のような言語を話したとされるが、現在はモン・クメール語派ケンシウ語英語版(マニ語)を話すことから、後に新しい言語を受容したと考えられている[16]

次いで、東南アジアのモン・クメール語派の言語をもつモン族およびクメール族が到達していたとされる[17]。現在のタイに居住するタイ族は、中国の揚子江以南起源の民族であるとされ、6-7世紀に、中国南部から東南アジアへと移住した可能性が大きい[18]。タイ族はその1千年紀中期から13世紀中頃、メコン川北部上流(瀾滄江)に定住していた[19]

古代国家

西暦900年頃の領域図
1000-1100年頃の領域図
  クメール
  ハリプンチャイ
  シュリーヴィジャヤ

ドヴァーラヴァティー王国

6-7世紀から[20][21]11世紀頃まで、モン族のナコーンパトムを中心とした広範囲な連合国家ドヴァーラヴァティー[注 4][22]が東南アジアで繁栄した[23]

紀元前3世紀頃、アショーカ王の遣わした伝道者による上座部仏教が、ドヴァーラヴァティー王国で信仰され始めたともいわれ、それは伝道の地名にあるインド古語サンスクリット)のスヴァルナブーミ(タイ語: スワンナプーム、「黄金の国」)が、ドヴァーラヴァティーと同一の地であるとする説による[24]

また、ナコーンパトム(「最初の町」の意)には、アショーカ王の時代の創建ともいわれるタイで最古のワット・プラパトムチェーディーがあるが[25]、考古学の証拠などによると、4世紀から6世紀の建設とされる[26]

ラヴォ王国

モン族のドヴァーラヴァティー王国の時代の6世紀より[27]ラヴォロッブリーにあったが[28]9世紀頃、クメール王朝の影響を受けてドヴァーラヴァティーから独立し、ラヴォ王国が建国された[29]。その後、クメールの王スーリヤヴァルマン1世英語版(在位1002-1050年)により領有された[30]スーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が死去した後、ラヴォ王国はクメールから離反する動きを見せ、1155年に中国に使節を送っているが[30]、クメールの支配は13世紀まで続いた。

13世紀中頃、タイ族によるスコータイ王朝の成立により[31]、ラヴォ王国のクメール支配は衰退した[29]。タイ族の勢力が強くなると13世紀末、1289年より1299年までに使節を送るなど、独立に動いた。その後、14世紀アユタヤ王朝成立の頃には、同じくかつてドヴァーラヴァティーの都であったスパンブリーとともに重要な位置を占めた[27]

ハリプンチャイ王国

伝説によれば、7世紀にドヴァーラヴァティー王国の支配下にあったラヴォの王が、王女チャマデヴィ英語版(チャーマテーウィー)をハリプンチャイ(ラムプーン)に送ったことによって成立した[28]。ただし11世紀以前の史料はなく[32]、ハリプンチャイの繁栄は11-13世紀とされる[28]12世紀にはクメール王朝のスーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が進出している[30]1292年、タイ族のラーンナーの侵入により壊滅した[33]

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

Trending Articles