タイの歴史
タイの歴史地方の歴史
先史時代 |
古代~中世 (BC3-1238) |
スコータイ王朝 (1238-1448) |
アユタヤ王朝 (1351-1767) |
トンブリー王朝 (1768-1782) |
チャクリー王朝 (1782- ) |
ハリプンチャイ王国 |
ラーンナー王朝 |
先史時代
東南アジアにおける人類(ホモ・エレクトス)の居住は、50万年以上遡る[1]。タイ北部のラムパーン県からは100万年-50万年前とされるホモ・エレクトスの痕跡が認められている[2]。現生の人々がタイの地域に住み始めたのは旧石器時代からである[3]。
タイ各地に点在した当時の人々は、移動しながら洞窟や岩陰などに住み、狩猟・採集・漁労で生活をしていた[4]。中石器時代となる約1万年前には世界的な気候の温暖化が進み、海面の上昇により地形は大きく変化したが、東南アジアは位置的環境より動植物相はあまり変化しなかったことから、この石器時代の生活形態は長く続いた[5]。
東北部
「イーサーンの歴史」も参照
新石器時代には様相が大きく変化し、稲作が認められる文化(新石器文化)が出現する[8]。北部イーサーン地方のバーンチエン遺跡などの研究によると、紀元前2千年紀には[注 1]、タイに初期の青銅器文化をもつ集落があったといわれる[9][10]。この発展に伴って、水稲の耕作が認められ[注 2][11]、同時に社会的な組織構成が進んだ[12]。これらの文化は、中国も含めてタイなど東南アジア全域に拡散していた。
紀元前1000年頃には、イーサーン地方のウボンラーチャターニー県の東端に位置するパーテム (Pha Taem、タイ語: ผาแต้ม) に岩絵が描かれた[13]。また、ウドーンターニー県のプープラバート (Phu Phra Bat、タイ語: ภูพระบาท) の岩絵は約6000年前のものともいわれる[14]。
民族
詳細は「タイの民族移動」および「タイ族#タイ族の南下」を参照
東南アジアのネグリトであるマニ族 (Maniq) はタイ南部の先住民としてマレー半島に住み、かつてはアンダマン諸語のような言語を話したとされるが、現在はモン・クメール語派のケンシウ語(マニ語)を話すことから、後に新しい言語を受容したと考えられている[16]。
次いで、東南アジアのモン・クメール語派の言語をもつモン族およびクメール族が到達していたとされる[17]。現在のタイに居住するタイ族は、中国の揚子江以南起源の民族であるとされ、6-7世紀に、中国南部から東南アジアへと移住した可能性が大きい[18]。タイ族はその1千年紀中期から13世紀中頃、メコン川北部上流(瀾滄江)に定住していた[19]。
古代国家
ドヴァーラヴァティー王国
詳細は「ドヴァーラヴァティー王国」を参照
紀元前3世紀頃、アショーカ王の遣わした伝道者による上座部仏教が、ドヴァーラヴァティー王国で信仰され始めたともいわれ、それは伝道の地名にあるインド古語(サンスクリット)のスヴァルナブーミ(タイ語: スワンナプーム、「黄金の国」)が、ドヴァーラヴァティーと同一の地であるとする説による[24]。
また、ナコーンパトム(「最初の町」の意)には、アショーカ王の時代の創建ともいわれるタイで最古のワット・プラパトムチェーディーがあるが[25]、考古学の証拠などによると、4世紀から6世紀の建設とされる[26]。
ラヴォ王国
モン族のドヴァーラヴァティー王国の時代の6世紀より[27]、ラヴォはロッブリーにあったが[28]、9世紀頃、クメール王朝の影響を受けてドヴァーラヴァティーから独立し、ラヴォ王国が建国された[29]。その後、クメールの王スーリヤヴァルマン1世(在位1002-1050年)により領有された[30]。スーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が死去した後、ラヴォ王国はクメールから離反する動きを見せ、1155年に中国に使節を送っているが[30]、クメールの支配は13世紀まで続いた。
13世紀中頃、タイ族によるスコータイ王朝の成立により[31]、ラヴォ王国のクメール支配は衰退した[29]。タイ族の勢力が強くなると13世紀末、1289年より1299年まで元に使節を送るなど、独立に動いた。その後、14世紀のアユタヤ王朝成立の頃には、同じくかつてドヴァーラヴァティーの都であったスパンブリーとともに重要な位置を占めた[27]。
ハリプンチャイ王国
詳細は「ハリプンチャイ王国」を参照