マラッカ海峡
マラッカ海峡(マラッカかいきょう、英語: Strait of Malacca、マレー語: Selat Melaka)は、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡。南東端で接続しているシンガポール海峡とあわせて太平洋とインド洋を結ぶ海上交通上の要衝となっている[1]。2005年における年間の通過船舶数は9万隻を超え、タンカー、コンテナ船など経済的に重要な物資を運ぶ大型貨物船が海峡を行き交う[2]。経済的・戦略的にみて、世界のシーレーンの中でもスエズ運河、パナマ運河、ホルムズ海峡にならび重要な航路の一つである。
地理・地誌
全長は約900キロメートル、幅は65キロメートルないし70キロメートル(北西側の海峡入口付近では約250キロメートルに広がる)ほどの北西方向から南東方向へとつながる細長い海峡であり、スンダ陸棚上にあるために平均水深は約25メートルと浅く、岩礁や小さな島、浅瀬が多い[3]。このため、大型船舶の可航幅がわずか数キロメートルの箇所もある。
世界で最も船舶航行の多い海域の一つであり[4]、太平洋の付属海である南シナ海とインド洋の一部であるアンダマン海を最短距離で結ぶ主要航路となっている。通過する貨物で最も多いのは、中東産の石油および石油製品である[4]。しかし、シンガポール付近のフィリップス水路 (Phillips Channel) は幅が2.8キロメートルと非常に狭く、水深も23メートルしかないため、世界の航路のなかでも有数のボトルネックとなっている。この海峡を通過できる船の最大のサイズはマラッカマックス (Malaccamax) と呼ばれており、大型タンカーの巨大化を制限する要因の一つとなっている[注釈 1]。
ケッペンの気候区分では、海域と両岸のほぼ全域が熱帯雨林気候 (Af) に属する。海流は年間を通して南東から北西へ向かって流れる[3]。通常は波が穏やかであるが、北東季節風が発達する季節には海流が速度を増す[5]。マラッカ海峡に流れ出すおもな河川にはスマトラ島のカンパル川、アサハン川がある。
沿岸国は、インドネシア共和国、マレーシアおよびシンガポール共和国であり、タイ王国を沿岸国に含める場合もある。海運業界では、この海峡付近を「海峡地」と一括して呼称することがあり、主な貿易港にマレー半島側のペナン(ジョージタウン、ペナン州)、ムラカ(英名マラッカ、ムラカ州)、ポートケラン(旧名ポートスウェッテナム、セランゴール州)、シンガポール、スマトラ島側にドゥマイ(リアウ州)などがあり、現代における最大の港湾都市はシンガポールである[3]。
海峡の両岸では、天然ゴムの栽培がさかんであり、世界的な産地となっている[1]。海峡に臨むマレー半島側の主要都市として、上述の諸都市のほかペナン島のジョージタウン、ペラ州のタイピンなどがあり、インドネシア側にはスマトラ島最大の都市メダン(北スマトラ州)のほか、ドゥマイ、アチェ州のランサ、北スマトラ州のタンジュンバライなどの諸都市がある。また、マラッカ海峡を臨むタイのプーケット島、マレーシアのペナン島は世界的なリゾート地として知られる。
歴史
西暦166年の「大秦王安敦の使者」[注釈 2]や4世紀末から5世紀初頭にかけての東晋(中国南北朝時代)の法顕、7世紀後半の義浄、14世紀のイブン・バットゥータ、15世紀の明の鄭和の大遠征など、いずれもこの海峡を利用した。また、13世紀末の『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロもこの海峡を利用し、風待ちのためスマトラ北端のペルラクに5ヶ月間滞在している[7]。
シュリービジャヤ王国とマジャパヒト王国
ユーラシア大陸の東西をむすぶ「インド洋ネットワーク」は、当初マレー半島をクラ地峡で横断するルートが主流であったため、東南アジアの物産は扶南やチャンパ王国を最大の集散地としたが、その後、7世紀から8世紀にかけてムスリム商人が来航するようになると、マラッカ海峡を経由するルートに変わった。西アジアの船は広州や泉州など中国南部に訪れ、これらの港町にはアラブ人やペルシャ人の居留地があったという。
こうして、マラッカ海峡は太平洋とインド洋を結ぶ海上交通の要路となり、海峡沿岸に興った国家のなかには海峡の両側を領域支配することによって貿易を通じて富強をはかる勢力も、歴史上何度か現れた。7世紀にスマトラ島南部に興った港市国家[注釈 3]、シュリーヴィジャヤ王国もそのひとつである。唐の義浄は、インドへの留学の前に5ヶ月、留学を終えてインドからの帰途には10年もの間シュリーヴィジャヤに滞留し、サンスクリット語の仏典の筆写と漢訳を行った[8]。
帰国後に彼が著した『南海寄帰内法伝』には、シュリーヴィジャヤには1,000人余りの仏僧がいて、仏教学のレベルもインドのそれに劣らないと記している[8]。義浄は復路、クダ(マレーシア・クダ州)からシュリーヴィジャヤの首都に入ったが、首都は現在のパレンバン(インドネシア・南スマトラ州)の辺りにあった[8]。
唐が衰えると、陸上の「オアシスの道」「草原の道」の通行は決して安全なものとはいえなくなったが、そのことは逆に「海の道」への依存を飛躍的に増大させることとなり、シュリーヴィジャヤの隆盛に拍車をかけることとなった。五代十国を経て宋建国に至る10世紀の前半から中葉にかけては、イブヌル・ファキーフやアブー・ザイドなどアラブ人の書いた旅行記にはシュリーヴィジャヤの繁栄が記され、そこでは「ザーパク」と呼称されている[9]。
また、宋代には中国人もさかんに南海貿易に進出するようになり、周去非『嶺外代答』や趙汝适『諸蕃志』などのすぐれた書籍も現れた。これらによれば、東はジャワ島、西はアラビア半島や南インドなどの各地から来航する船舶でこの海峡を利用しない船はなく、もし、入港しないで通過しようとする商船があれば、シュリーヴィジャヤの王国は水軍を出して攻撃を加えたこと、またパレンバンの港には鉄鎖があり、海賊の来航には鎖を閉じ、商船の来航にはこれを開いて迎えたことなどを記している[9]。
シュリーヴィジャヤは、10世紀から11世紀にかけてジャワに本拠を置くクディリ王国やインド南部のチョーラ朝の攻撃を受けたが、これは、王国がマラッカ海峡の貿易を独占し、それによる富を集積していたためであった。14世紀には、ジャワ島に本拠を置くヒンドゥー教国、マジャパヒト王国からの征服を受けている。マジャパヒト王国は14世紀にガジャ・マダが現れて、一時、マレー半島からスマトラ・ジャワの両島、さらにカリマンタン島の南岸を支配する広大な海洋帝国を建設した。
その一方で、13世紀以降、スマトラ島北部やマレー半島の住民のムスリム化が進行している[7]。13世紀末に当地に滞留したマルコ・ポーロは、北スマトラの人々がさかんにイスラーム教に改宗していることを『東方見聞録』のなかに書き残している[7]。
アラブ人の来航やイスラーム教の伝来から数世紀経過した13世紀という時期にムスリム化が急速に進展した理由として、インドでの目覚ましいイスラーム化の進展がみられたのがやはり13世紀であり、インド文化の影響の受けやすい東南アジアへはインド系のムスリム商人がもたらしたと考えられること、また、この時代にさかんだったのはイスラームのなかでも布教に熱心だった神秘主義教団スーフィーだったことなどが挙げられる[7]。
そして、14世紀末から15世紀初頭にかけてムスリム政権としてマレー半島北西部にマラッカ王国が成立し、シュリーヴィジャヤとマジャパヒトの両勢力を抑えてマラッカ海峡の両岸を支配し、海洋国家を築いたのである[10]。