トルデシリャス条約
トルデシリャス条約(トルデシリャスじょうやく、ポルトガル語: Tratado de Tordesilhas, スペイン語: Tratado de Tordesillas)は、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた条約。当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めた。
本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の西370リーグ(1770km)の海上において子午線にそった線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。名称の由来は、条約が批准されたカスティージャのトルデシリャスの地名からとられている。条約調書の原本は2007年にスペインとポルトガルの共同申請で、ユネスコの記憶遺産に登録された[1]。
トルデシリャス条約
1492年、クリストファー・コロンブスが「インド」(実際には西インド諸島)に到達し、帰還したことによって、ポルトガル・スペイン両国において「新世界」への冒険的航海がブームとなった。しかしコロンブス以前から、船団の到達先において両国はしばしば争い、抜本的な解決策が求められていた。
すでに1481年に布告された教皇シクストゥス4世の回勅『エテルニ・レギス』(永遠の王)で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていた。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうとし、カーボベルデの西わずか100リーグの地点を通過する子午線を境界線(教皇子午線)に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするという回勅『インテル・チェテラ』を布告した。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くなかった。[独自研究?]
そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉してこの決定をくつがえし、境界線をさらに西側(結果的には教皇子午線よりさらに270リーグ西側)に移動させようとした。それによって「アジア」におけるスペインの影響力を抑えようとしたのである。こうしてスペイン・トルデシリャスで改めて結ばれたのがトルデシリャス条約であり、この条約を教皇が承認することで1493年の回勅を無効化することができた。トルデシリャス条約は1506年にユリウス2世によって廃止されるまで有効であった。
スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられた。この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのかよくわからず、再度の論争が起こることになった。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも過度にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認している。[要出典]
フランス、イギリス、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている。
サラゴサ条約
サラゴサ条約(サラゴサじょうやく、英語: Treaty of Zaragoza)は1529年4月22日にポルトガル王ジョアン3世と神聖ローマ皇帝カール5世の間でサラゴサにて締結された、スペイン帝国とポルトガル海上帝国の間の平和条約。
条約はカスティーリャ(スペイン)とポルトガルのアジアにおける勢力圏を分け、両国が同時に1494年のトルデシリャス条約を根拠にモルッカ諸島の領有を主張したためにおこった「モルッカ問題」を解決する試みとなった。
背景
モルッカ問題
1494年、カスティーリャ王国とポルトガル王国はトルデシリャス条約を締結し、世界を探索と植民地化のために両国の間で二分した。条約は大西洋に子午線を定め、線の西はカスティーリャに、東はポルトガルに帰属するとした。
1511年、当時アジアでの貿易の中心地だったマラッカがポルトガルのアフォンソ・デ・アルブケルケにより征服された。アルブケルケは続いて、当時秘密とされた香料諸島(モルッカ諸島のうちのバンダ諸島はニクズクとクローブといった香辛料の唯一の産地だったため、インド洋での航海の主目的である)の位置を知ろうとして、アントニオ・デ・アブレウにそれを探すよう命じた。1512年の初め、遠征隊は小スンダ列島を通ってバンダ諸島に到着、諸島に上陸したはじめてのヨーロッパ人となった[1]。
バンダ島に着く前にはブル島、アンボン島、セラム島も訪れた。その後、船の難破によりフランシスコ・セランはアブレウと別れて北上した。セランの船もテルナテ島で難破したが、彼はそこで当局から交易所の建設許可をもらい、フォルテ・デ・サン・ジョアン・バプティスタ・デ・テルナテを建てた。
セランは友人のフェルディナンド・マゼラン(二人が親族だった可能性もある)に手紙を書き、香料諸島について記述した。マゼランはこの記述でスペイン王を説得し、世界初の世界周航への出資を勝ち取った[2][3]。1521年11月6日、マゼランの艦隊(マゼランは4月のマクタン島の戦いで死去したため艦隊はフアン・セバスティアン・エルカーノが率いていた)は東からモルッカ諸島に到着した。セランも同じころにテルナテ島で死去しており、マゼランとはついぞ会えなかった[4]。
マゼランとエルカーノの1519年から1522年にかけての世界周航の後、カール5世はトルデシリャス条約により香料諸島はカスティーリャに帰属するとして、ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ率いるロアイサ遠征隊を派遣、諸島の植民地化を命じた。マゼランの航海に参加したエルカーノはロアイサの遠征にも参加、遠征中に命を落とした。また若いアンドレス・デ・ウルダネータもロアイサの遠征に参加している。1525年から1526年までの困難に満ちた航海の後、遠征隊はティドレ島に着き、そこで港を建設した。これにより、すでにテルナテ島にて交易地を持ったポルトガルとの紛争が生じた。1年間の戦闘の後、スペインは敗北したが、諸島の帰属をめぐる小競り合いはその後10年近く続いた。
バダホス=エルヴァス会議
1524年、スペインとポルトガルはフンタ・デ・バダホス=エルヴァス(Junta de Badajoz-Elvas)を開催、紛争を解決しようとした。両国はそれぞれ天文学者、地図学者、航海家、数学者を3名ずつ任命し、トルデシリャス条約の子午線の逆側にある子午線の精確な位置を計算し、世界を2つの半球に分けようとした。
ポルトガル王ジョアン3世は全権大使アントニオ・デ・アゼヴェード・コウチーニョ(António de Azevedo Coutinho)、ディオゴ・ロペス・デ・セケイラ、地図学者と宇宙誌の学者ロポ・オメン、シモン・フェルナンデスを会議に派遣した。スペインはメルクリオ・ガティヌ伯爵(Mercurio Gâtine)、オスマ司教フアン・ガルシア・デ・ロアイサ・イ・メンドーサ、カラトラバ騎士団団長ガルシア・デ・パディーヤ(García de Padilla)を派遣した。ポルトガルの地図学者ディオゴ・リベイロはスペイン代表として会議に出席した。
会議はバダホスとエルヴァスで何度か開かれたが、合意には至らなかった。というのも、当時の地理の知識は極めて限られたものであり、経度を精確に計算することが難しく、両国の代表はそれぞれ諸島を自国領とした地図で計算を行った。一例としてはカール5世の助言者であったジャン2世・カロンデレはフランキスクス・モナクスが制作した地球儀を所持しており、その地球儀では諸島がスペイン領となっている。ジョアン3世とカール5世はモルッカ諸島の位置が確定するまで、両国とも諸島に遠征隊を派遣しないことに同意した。
1525年から1528年まで、ポルトガルはモルッカ諸島の周辺に遠征隊を派遣した。テルナテ島の総督ジョルジェ・デ・メネゼスはゴメス・デ・セケイラとディオゴ・ダ・ロシャをシモン・デ・アブレウが1523年に一度訪れたセレベス島に派遣した。
このときの遠征隊はカロリン諸島に訪れた初のヨーロッパ人であり、このときは諸島を「セケイラ諸島」と名付けた[5]。上陸こそしなかったが、マルティン・アフォンソ・デ・メロ(Martim Afonso de Melo)の1522年から1524年までの遠征、ゴメス・デ・セケイラの1526年から1527年までの遠征ではアルー諸島とタニンバル諸島を発見した[6]。また1526年にはジョルジェ・デ・メネゼスがパプアニューギニア北西部に着き、スハウテン諸島のビアク島に上陸した。彼はそこからドベライ半島にあるワイゲオ島へ向かった。
カスティーリャは1525年から1526年までのロアイサの遠征隊のほか、1528年にはアルバロ・デ・サーベドラ・セロン率いる(メキシコにいるエルナン・コルテスが準備した)遠征隊を派遣、ポルトガルと競争した。アルバロ・デ・サーベドラ・セロンはマーシャル諸島に着いた。しかし、この遠征隊はポルトガルに囚われ、西回りの航路でヨーロッパへ送還された。遠征隊はモルッカ諸島から東周りで太平洋を通って帰ることを2度試み、いずれも失敗したが、途中でニューギニア島の西部と北部の一部を探検、スハウテン諸島に到着、ヤーペン島、アドミラルティ諸島、カロリン諸島を発見した(上陸はしなかった)。
1525年2月10日、ジョアン3世はカール5世の妹カタリナと結婚した。翌年3月11日に今度はカール5世がジョアン3世の妹イサベルと結婚した。この二重結婚により両国は緊密な関係となり、モルッカ諸島に関する協議を促進した。カール5世も紛争を避けてヨーロッパでの政策の実施に専念したい上、スペインはモルッカ諸島からの香辛料を東回りでヨーロッパに持ち帰る航路を知らなかったことも条約締結の一因となった。東回り航路は1565年にアンドレス・デ・ウルダネータ(Andrés de Urdaneta)がマニラ=アカプルコ航路を確立するまでついぞ見つからなかった。
条約
サラゴサ条約は東方における両国の境界をモルッカ諸島から東へ297.5リーグ(または17度)進んだところに定めた[7]。また、セーフガード条項として、皇帝はポルトガルに賠償金を支払えばいつでも条約を無効化することができるとした。しかし、皇帝はポルトガルの資金で対フランス王フランソワ1世のコニャック同盟戦争を戦わなければならなかったため、この条項が使われることはなかった。
条約はトルデシリャス条約で定められた境界を明確化することも、変更することもせず、またスペインからの両国の半球を同じ大きさにする要求も満たさなかった。ポルトガルの半球は約191度でスペインの半球は約169度だった。この2つの数値はトルデシリャス条約での境界が不明確だったため、正負約4度の誤差がある。