古書店や骨董市で見つける、1930年代頃の主に日中戦争状況を描いた写真(時代の新技術)を使用した写真集や雑誌は、朝日、讀賣、東京日日、同盟、電通などの通信社などにから多くが出版された。10数年前、電通の資料写真はないか、と同社に聞いたが、電通の多量の陸軍系写真は共同か時事に委譲してしまったとのことだった。
(日露戦争のものは欧米の資料に頼らざるを得ない。写真の品質が悪すぎるからだ。)
各社は記者、カメラマン、映画スタッフを戦場におくり、かなり真追した写真を得てそれらを編集した資料が多く存在し、一部は中国や米国の合成写真の元になったりした。
しかし日本の武器、兵器、軍装の研究者には貴重なる資料であることは疑う余地はない。
この「上海事変記念大写真集」は出版社不明であるが、良い写真が数多く収納されている。
横版で横26cm、縦18cm、写真ページ88ページ(ページ数字がないので数えた)戦闘写真はかなり多い。紐とじである。「日本の機関銃」には同書から、整備の写真を借用した。
第一次上海事変は1932年の1月末から、上海の日本租界(条約により日本が清国から租借した地域)を国民政府第19路軍3万人が取り囲み、撤兵要求に応じなかったことにより発生した衝突である。
戦争に近い大規模な衝突で、3月初頭の停戦までに日本軍は769名が戦死し、2322名の負傷者を出した。
日本帝国と中国国民政府に次の1937年7月の衝突までのしこりを残した歴史上重要な紛争だった。
日本の上海警備は海軍陸戦隊が担当していたが、事変の拡大とともに各艦艇の陸戦隊が応援上陸し、さらに2月初頭帝国陸軍が派遣され、国民政府軍の背後に回ったので、停戦となり、欧米諸国もこの協定に署名した。
写真集の表紙は日本の砲艦であり、最初の画像は中国軍(支那軍)兵士の戦闘風景である。
陸海軍の兵力、航空機、艦船、車両は元より、在留の日本人の写真も多くある。三年式機関銃の航空機搭載の形式、弾倉なども貴重な記録だ。
画像は表紙と、後方に搬送される日本軍戦死者、そして支那軍の戦闘の様子である。日本軍が戦死者の
写真を公開したのはとても珍しい。
国民政府軍の写真は後に中国人から入手したのであろう。
国民政府軍は諸外国から多種多量の兵器を購入しその装備は近代的だったとこの資料も記していた。
この写真にもあるとおり、対空機銃としてビッカース13.2mmを使用してた。
説明文にも中国軍は近代兵器を多量に装備していたとある。