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[転載]隠岐郷土館で隠岐の歴史年表を学びましょう

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隠岐の歴史・文化に触れる=後鳥羽上皇ゆかりの地、由緒ある神社、竹島の記録


独自の生態系などが評価され2013年9月、国内では6件目となる世界ジオパークに認定された隠岐諸島。かつては山陰道に属した令制国、隠岐国(おきのくに)が置かれ、鎌倉時代には後鳥羽上皇が配流された歴史を持つ。同諸島の一つである竹島は、韓国が実効支配する前、隠岐漁師の豊かな漁場であった。数々の由緒ある神社、国の重要文化財などが存在し、この地特有の歴史や文化に各所で触れることができる。
 隠岐諸島で最大の島である島後の「水若酢神社」は、隠岐国で最も社格の高い一ノ宮。強い力を持つ神を祭る神社「名神大」とされている。国の重要文化財に指定されている本殿は隠岐地方独特の建築様式「隠岐造り」。入り口が屋根の棟と直角に面した妻入りで、正面にだけ設けられたひさしに特徴がある。同神社のそばには、明治時代の郡役所を移築し活用した博物館「隠岐郷土館」が設けられ、かつて使用されていた土器、農耕器具など県の民俗文化財が展示されている。郷土館には、隠岐諸島の一つ、竹島に関するコーナーも設置され、隠岐の漁師が海産物を取っていたころに撮影した島の写真や持ち帰った石など貴重な資料、記録が並んでいる。
 水若酢神社から車で20分ほど行くと、隠岐国の神々を祭る総社「玉若酢命神社」がある。境内には、樹齢二千年を超える「八百杉」がそびえ立つ。同神社に隣接する「億家住宅」は、隠岐地方の代表的な古民家で、国の重要文化財となっている。1801年に建てられ、今も億家の人が暮らし、一部は神社の社務所として使用。敷地内の宝物殿には、奈良時代の役人が身分を証明するために用いた「駅鈴」など数々の重要文化財が展示されている。
 配流の島として長い歴史を持つ隠岐諸島。承久の乱で敗北した後鳥羽上皇、元弘の乱で捕らえられた後醍醐天皇など、謀反人、政治犯などが明治の流刑が終わるまでに2000人以上が流されてきたという。島前・中ノ島の勝田山は、後鳥羽上皇が60歳で崩御するまで19年間過ごしたとされる源福寺の跡地、遺灰を納めた「後鳥羽上皇御火葬塚」、上皇を祭る「隠岐神社」などがあり、上皇ゆかり地となっている。

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隠岐の歴史

   
隠岐の歴史(おきのれきし)。日本海に浮かぶ隠岐諸島は古代には隠岐国として自立的な地域を形成し、また遠流の国としても知られた。近代には島根県隠岐郡となったが、戦後は過疎化が進んでいる。佐々木家住宅や隠岐郷土館には、隠岐の歴史に関する展示物を見ることができる。


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先史・古代

隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。紀元前5000年頃に縄文早期前期の遺跡が西郷町津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が[1]、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている。

サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約200基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長47メートル、長さ約8メートルの横穴式石室)がある。

大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。646年(大化2年)隠岐駅鈴2個及び隠岐国倉印が西郷町の玉若酢命神社におかれた[2]。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある。

 隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道7国のうち下国で、都からの行程は上り35日、下り18日と定められていた。億岐家宝物館には国の重要文化財に指定されている駅鈴が展示されている。

億岐家宝物館の駅鈴
日本海の離島隠岐は古代から渤海新羅との交渉も記録されている。763年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着し、825年には渤海国使高承祖ら103人、861年には渤海国使李居正ら105人が隠岐国に来着している。

日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、869年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、870年には出雲石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。888年には新羅国人35人が隠岐に漂着、943年には新羅船7隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた。

『和名類聚抄』の郡郷

和名類聚抄』によれば、隠岐国は4郡、12郷に分かれていた。
  • 知夫郡知夫里島及び西ノ島
    • 宇良(うら)郷、由良(ゆら)郷、三田(みた)郷
  • 海部郡 中ノ島
    • 布施郷、海部(あま)郷、佐作(さつくり)郷
  • 周吉郡 隠岐島後(どうご)南部
    • 賀茂郷、庵可(あむか)郷、新野(にいの)郷
  • 穏地郡 隠岐島後北部
    • 都麻(つま)郷、河内(かむち)郷、武良(むら)郷
の各郷である。穏地郡は古い時代には役道郡と呼ばれていた。

延喜式内社

延喜式神名帳』に見える隠岐国式内社は16座15社あり、名神大社は以下の4社。
僻遠の地にもかかわらず名神大社が多いのは新羅に近いため、国防上の見地から朝廷の尊崇を受けたためとされる。 このほか周吉郡(隠岐の島町西郷地区下西)の式内社玉若酢命神社は国府所在地にあり、隠岐惣社とされる。




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中世

建久4年(1193年)、隠岐一国地頭職に佐々木定綱が補任されたことが吾妻鏡に見える。承久3年(1221年)には後鳥羽上皇が海士郡に流され、19年間配所で過ごし、元弘2年(1332年)には後醍醐天皇が配流される。天皇の配流地は隠岐島後の国分寺説と島前黒木御所説があり、決着が付いていないが、天皇はやがて脱出する。

国府尾城
(甲ノ尾城、隠岐の島町)
室町時代の守護は京極氏で、隠岐守護代となったのは京極氏一門の隠岐氏で、東郷の宮田城、後に下西の甲ノ尾城を本拠地とした。これに対して在地勢力は隠岐氏に対立する毛利氏の支援を得て、両者間に戦いも起こったが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった。


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近世

慶長5年(1600年)、堀尾吉晴が出雲・隠岐の国主となるが、寛永11年(1634年)から室町時代の隠岐・出雲の守護家の子孫である京極忠高に替わる。寛永15年(1638年)には松平直政が出雲に入り、以後の隠岐は幕府の天領(松江藩の預かり地)となった。幕府から統治を委託された松江藩は西郷に陣屋を置き、郡代に総括させ、島前と島後にそれぞれ代官を派遣して行政に当たらせた。隠岐の総石高は1万8000石とされたが、実高は1万2000石ほどであった。

島後の西郷港は18世紀から北前船の風待ち、補給港として賑わうようになった。これは隠岐島後が能登から下関あるいは博多に直行する沖乗りのコースに当たったためである。西郷港には船宿を兼ねた問屋が置かれ、自ら回船業を営む者もあった。この頃、西ノ島の焼火神社が海上安全の神様として北前船の信仰を集めた。北前船は安来の鉄や米を日本海一帯に供給する機能があったため、その後も隠岐~美保関~安来間の航路が存在し、航路廃止になった現在でも安来市には北前船の流れを汲む隠岐汽船の支社が存在する。

1836年(天保7年)に建てられた代々庄屋職である佐々木家の住宅が、現隠岐の島町東郷に建てられた。

隠岐の佐々木家住宅

明治元年(1868年)、隠岐騒動が起こり、神官と庄屋の正義党が松江藩隠岐郡代を追放し、王政復古で隠岐は朝廷御料になったと宣言して自治を行った。松江藩は隠岐に出兵して一時隠岐を奪回するが、まもなく鳥取藩が仲介して松江藩兵は撤退、自治が復活した。明治新政府は一時隠岐を鳥取藩に預ける。




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隠岐騒動(おきそうどう)は、明治元年(1868年)に江戸幕府領で松江藩が実効支配していた隠岐国で起こった、松江藩と隠岐島住民の一連の騒動。雲藩騒動ともいわれる。

騒動までの経緯

寛永15年(1638年)の松平直政の松江への入部以来、隠岐は松江藩の預かり地となっていた。江戸時代中期以降、隠岐では食糧難が恒常化していたが、松江藩は有効な手立てを打つことなく、島民の間では藩に対する不信感が高まっていた。
嘉永5年(1853年)の黒船来航以来、黒船日本近海への出没が頻繁に発生し、松江藩は幕府から隠岐国の防御を命ぜられ、文久2年(1862年)にイギリスとアメリカから艦船を一隻ずつ購入している。さらに松江藩は文久3年(1863年)に、隠岐の軍備増強のため、当時全国的に導入されつつあった農兵制を隠岐で採用し、藩士・錦織録蔵がこれを指導した。元治元年(1864年)には、隠岐防御への協力を朝廷より命ぜられていた鳥取藩から、景山龍蔵も派遣された。しかし、隠岐国郡代の枝元喜左衛門は西郷港に入港した船に立ち入った際、帯刀を船内に置き忘れるという失態を犯した。これにより、島民の松江藩への信頼は大きく失墜した。慶応2年(1866年)、松江藩は農兵隊に加えて、島の有産家の子弟30人を選び、これに扶持を与えて「新農兵」として組織した。次いで翌年には武芸差留を布告し、事実上農兵は廃止された。

騒動の概要

隠岐の住民たちは、従来より尊王攘夷志向が強かった。同様に尊王志向の強い十津川では「文武館」(現、奈良県立十津川高等学校)が儒者中沼了三により設立されていた。これを知った中沼の弟子の中西毅男は、同名の学校設立の嘆願書を同士73名の連署を得て、新任の郡代である山郡宇右衛門に願い出たが、取り下げられた。慶応4年(1868年)2月、神官庄屋ら島民有志が徳川慶喜への直訴をしようと京都に向かうが、本州に上陸後に長州藩の取り調べを受け、王政復古がなったことを知り、退却した。また、山陰道鎮撫使総監の西園寺公望から隠岐国の庄屋方へ宛てられた書状を、山郡が庄屋らに渡る前に開封したことが露見する。これらを受けて3月15日、島後の庄屋職の会合が郡代追放でまとまると、島前の庄屋らにも参加を求めた。そして3月19日早朝、島後・島前の住民およそ3000人が隠岐郡代の陣屋を急襲し、山郡は隠岐から追放され、施政機関としての総会所が陣屋に設置され、島民による自治が開始された。

騒動のその後

4月1日、中西毅男は明治政府から、隠岐が天朝領であることの確認と自治の認定を受けようと京都へ向かったが、思うような回答がないまま時が過ぎた。
閏4月27日、太政官から隠岐支配の内示を受けた松江藩主松平定安が派遣した兵が隠岐に上陸、松江藩兵が陣屋を奪還したが、島民側に同情的な薩摩藩長州藩鳥取藩が仲介し、5月16日に松江藩兵は撤退し、島民による自治が一時復活したものの、明治元年11月に鳥取藩の管理下に置かれることとなり、自治は事実上終了し、翌年2月に民兵組織も解体された。
明治4年、島民と松江藩双方の騒動に関係した者が罰せられ、一連の騒動は収束した。



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明治2年(1869年)2月から8月まで隠岐国に隠岐県を設置して独立させるが、その後幕府の石見銀山領を前身とする大森県に統合された。新政府の方針は決まらず、隠岐地域の所属は島根県と鳥取県の間で移管を繰り返し、明治9年(1876年)ようやく島根県への所属に落ち着いた。


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近現代

島根県に編入された隠岐地域は古代以来の海士、知夫、周吉、穏地の4郡に分かれていたが、明治21年(1888年)になって島根県庁は郡を廃止して隠岐島庁を設置、島司が行政に当たった。明治37年(1904年)に西郷町、五箇村などの町村が設置されている。翌38年(1905年2月15日、竹島が日本の領土として確認され、後に五箇村の所属とされた。これは西郷町の中井養三郎がアザラシ・アシカ漁のためにリャンコ島の賃貸を政府に求め、政府が島の所属について確証がないことに気付いたためである。リャンコ島は竹島と名付けられ、隠岐島司の所管となった。隠岐島庁は大正14年(1925年)に隠岐支庁となっている。

第二次世界大戦中は軍事基地もなかったため戦災も受けず、かえって疎開者が来島し、終戦後は外地からの引揚者で人口が増えた。しかし、日本経済の高度成長が始まると、都会への移住者が増え、島では次第に過疎化が進行した。昭和28年(1953年)に離島振興法、昭和45年(1970年)には過疎地域対策緊急措置法などが適用され、基盤整備が進められた。昭和38年(1963年)には国立公園の指定を受けて隠岐空港も建設され、西郷町が隠岐観光の基地となった。現在は海洋レジャーの島として振興されている。平成16年(2004年10月1日、西郷町、布施村、五箇村、都万村が合併して隠岐島後全島をカバーする隠岐の島町が誕生した。



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昭和44年(1969年)に旧隠岐国の4郡は隠岐郡に統一されており、現在は隠岐郡の下に島後の隠岐の島町のほか、島前の海士町西ノ島町知夫村の自治体が存在している。島根県庁は現在でも隠岐の島町(西郷地区)港町に隠岐支庁を置き、県民局、農林局、水産局、県土整備局を設置し、西ノ島にも隠岐支庁島前集合庁舎を置いている。また島根県警も島後の旧西郷地区に隠岐の島警察署、島前の西ノ島に浦郷警察署を設置する。隠岐郡の住民は全部で約24,000人である。

なお、竹島は隠岐島の北西約157キロに位置する岩礁(総面積、230,967平方メートル)で、明治38年(1905年)2月22日閣議で島根県隠岐島司の所管とされ、同年5月17日に島根県の官有台帳に記載されている。戦時中は海軍用地として舞鶴鎮守府の所管となる。昭和28年(1953年)以来大韓民国実効支配下にあるが、日本政府の見解では日本国の国有財産として財務省理財局の所管となっている。海上保安庁は隠岐の島町に隠岐海上保安署を置いて周辺海域警備に当たっている。

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「歴史と自然」そして感動のロマン 隠岐の島町
隠岐の島町は歴史と自然の宝庫。島を、隠岐の島町役場観光商工係主幹上川清さんに案内していただきました。「壇鏡(だんきょう)の滝」、樹齢600年と言われる「かぶら杉」、「玉若酢命神社」や「白島海岸」とみて歩き、壮大な自然や歴史を堪能しました。
そしてお目当ての「八朔(はっさく)牛突き大会」。島内だけでなく出雲や松江、関西方面からのお客様で会場は熱気に溢れていました。
子供達の踊りや、牛を引く人たちの甚句の声が会場を盛り上げ、牛たちの闘いが始まりました。その迫力は凄い物でした。
そして夕刻にはローソク岩を遊覧するという贅沢なコース。揺れる船の上から見る奇岩は乗り合わせた観光客の間から大きなため息と歓声が聞こえ、しばしの間幻想的な世界に。
「隠岐は絵の島花の島。里にゃ人情の花が咲く」(しげさ節)まさにその通りの隠岐の島町でした。

転載元: 隠岐に豊かな生物多様性と、経済の発展を 竹島の住所隠岐です


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