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キューバの旅 Cuba Picutre by Masahiro

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Cuba Picutre by Masahiro




2018年 キューバで絶対外さない観光スポット 10選 【定番 …

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キューバ   

キューバ共和国
República de Cuba
キューバの国旗キューバの国章
国旗国章
国の標語:Patria y Libertad
(スペイン語:祖国と自由)
国歌バヤモの歌
キューバの位置
公用語首都最大の都市独立
 - 日付通貨時間帯ISO 3166-1ccTLD国際電話番号
スペイン語
ハバナ
ハバナ
政府
党第一書記国家評議会議長閣僚評議会議長評議会第一副議長国会議長
ラウル・カストロ
ラウル・カストロ
国家評議会議長が兼務
ミゲル・ディアス=カネル
エステバン・ラソ・エルナンデス
面積
総計 水面積率
110,860km2103位
極僅か
人口
総計(2009年人口密度
11,239,363人(75位
102人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(xxxx年
xxx,xxxキューバ・ペソ
GDP (MER)
合計(2008年
551億[1]ドル(69位
GDP (PPP)
合計(2008年) 1人あたり
1,082億[1]ドル(62位
9,500[1]ドル
アメリカ軍軍政より
1902年
キューバ・ペソ
UTC -5(DST:-4)
CU / CUB
.cu
53
キューバ共和国(キューバきょうわこく、西: República de Cuba)、カリブ海大アンティル諸島西インド諸島の一部)に位置する、ラテンアメリカ共和制国家である。首都はハバナ

キューバ本島とその周辺の島嶼からなる島国ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島ハイチドミニカ共和国が、南には英領ケイマン諸島ジャマイカが存在する。西はユカタン海峡を挟んでメキシコユカタン半島と、北はフロリダ海峡を隔てて北に145km先のアメリカ合衆国フロリダ州フロリダ半島)と向かい合う。北東にはバハマや英領タークス・カイコス諸島が存在する。

フィリピンルソン島ほどの面積を持つ島国で、地理的には北アメリカに含まれ、広義の中央アメリカにも含まれる。南北アメリカ大陸間、及びラテンアメリカとヨーロッパを結ぶ要路に位置している。アメリカ合衆国とは「アメリカ合衆国の裏庭」とも呼ばれるほど関りが深かったが、キューバ革命により、南北アメリカ大陸で初めて反米・親ソ連社会主義政権が1959年に成立。その後は「カリブに浮かぶ赤い島」と形容されることもある。

歴史

先コロンブス期

ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。

スペイン植民地時代

1591年のキューバとフロリダ半島の地図。

1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれた。インディオ達は、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。

スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバはスペイン中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、メキシコ市リマに続くスペイン領アメリカ植民地第三の都市となり、大学要塞が建設された。

19世紀初め、シモン・ボリーバルホセ・デ・サン・マルティンミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地は既に独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピンプエルトリコなどと共にわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留スペイン軍を強化した。

また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングハイチとして独立した後、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。こうしてこのような様々な事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。

その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入されて、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルドミニカ共和国にもあった)。

独立戦争(1868年 - 1902年)

「青銅の巨人」アントニオ・マセオ将軍。マセオ将軍はムラートだったが、巧みな戦術により白人も含めた多くのキューバ人の指導者となった
19世紀のラテンアメリカが生んだ人物の中で最も優れた人物の一人として知られる、キューバ独立の父ホセ・マルティ
キューバ独立の父ホセ・マルティ。

最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年余りにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦が成った。しかし、ムラートアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。

1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまで来た。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。

旧共和政時代(1902年 - 1959年)

1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピングアムプエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。 

1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法の制定に際して、アメリカ合衆国議会プラット修正条項(Platt Amendment)を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉権を認め、グァンタナモバイア・オンダの2カ所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、現在に至るまでグアンタナモにアメリカ海軍基地を置き続けている。

「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。そのため、アメリカもプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなど、キューバの秩序維持に努めざるを得なかった。



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