徐福ノ宮
波田須駅
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三重県熊野市波田須町713 | |
東海旅客鉄道(JR東海) | |
紀勢本線 | |
153.2km(亀山起点) | |
ハス | |
地上駅 | |
1面1線 | |
22人/日(降車客含まず) -2014年- | |
1961年(昭和36年)12月11日 | |
駅員無配置駅 |
駅周辺
波田須集落の南にある斜面の最下部に位置しており、斜面の上を通る国道311号からは細く曲がりくねった坂道を下らなければならない。
バス路線
国道311号に沿って熊野市自主運行バスが「潮風かほる熊野古道線」を運行しており、「波田須小学校前」バス停が最寄りとなる。
徐福
『史記』による記述
司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。
又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。— 司馬遷 「淮南衝山列伝」『史記』巻118。
東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる[3]。瀛州はのちに日本を指す名前となった[3]。「東瀛(とうえい)」ともいう。魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は、行政区分として制定される。
同じ『史記』の「秦始皇帝本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている[4]。現在一般に流布している徐福像は、ほとんどが「淮南衡山列伝」に基づいたものである。
出航地
出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、河北省秦皇島、浙江省寧波市慈渓市[5]が有力とされる。途中、現在の韓国済州道西帰浦市[6](ソギポ市)や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされる。
伝承
日本における伝承
青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名である[7]。
徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。ちなみに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。 丹後半島にある新井崎神社に伝わる『新大明神口碑記』という古文書に、徐福の事が記されている。
徐福が信濃の蓼科山に住んでいた時に双子が誕生した。双子が遊んだ場所に「双子池」や「双子山」がある[8]。
徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し[9]、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。『富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で、漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している。富士文献は徐福が編纂したという伝承があり[9]、また徐福の来日した年代が、『海東諸国記』の孝霊天皇の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが指摘される。
中国における伝承
北宋の政治家・詩人である欧陽脩の『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する。