中国軍第八七師二六一旅長の譚道平はその著『南京衛戌戦』(一九八七年、中国文史出版社)に、十二月十二日夕刻以後の情景をこう記している。
「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希簾麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、邑江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、邑江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、邑江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しょうとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、邑江門内は大惨事となった」
中国軍には戦闘に際して兵士を先頭に立たせ、後退する兵士がおれば背後から射殺する任務を帯びた「督戦隊」という独特の組織がある。邑江門の中国兵の死体は、この「督戦隊」によって殺されたものであった。
実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。十一月二十九日の様子を、ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。
「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った。」
十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。
支那軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
―――――――――
上海一九三七年十二月八日発「東京日日新開」は次のように報じている。
南京衛戌司令唐生智はどさくさに乗ずる市民の暴動を恐れて七日朝来市内警備を一層厳重にして少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺し、すでにその数、百名に及んでいると支那紙は報じている。
『南京戦史』二七三頁
十日頃には完全な無政府状能心に陥り、統制を失った中国兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスピー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」
南京アメリカ大使館通信、エスピー報告、三八年一月二十五日」より一部抜粋
表五
南京にあった中国側の「死体」の分類 殺害者 死亡の状態
日中両軍
(略)
上記17ケースのうち、日本軍の不法殺害(戦時国際法違反)による犠牲者にあたるのは、※印をつけた13~15の3つのケースだけである。ただし13については、中国兵が市民に偽装したため起きた事態であり、違法性は軽減されよう。また15のケースは、公式文書では一切確認されていない。
http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/alleged/chapter2-1.html#chapter2-1-3
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「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希簾麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、邑江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、邑江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、邑江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しょうとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、邑江門内は大惨事となった」
中国軍には戦闘に際して兵士を先頭に立たせ、後退する兵士がおれば背後から射殺する任務を帯びた「督戦隊」という独特の組織がある。邑江門の中国兵の死体は、この「督戦隊」によって殺されたものであった。
実は日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体が存在していた。十一月二十九日の様子を、ドイツのリリー・アベック記者はこう記している。
「もはやどこに行っても、規律の解体と無秩序が支配していた。南京駅に二千人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。看護兵も付き添っていなかった。負傷兵たちは二日間も放置された後、その二日間に死んだ者と一緒に降ろされ、駅のホームに並べられた。死骸が空気を汚染し、悪臭を放った。」
十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。
支那軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
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上海一九三七年十二月八日発「東京日日新開」は次のように報じている。
南京衛戌司令唐生智はどさくさに乗ずる市民の暴動を恐れて七日朝来市内警備を一層厳重にして少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺し、すでにその数、百名に及んでいると支那紙は報じている。
『南京戦史』二七三頁
十日頃には完全な無政府状能心に陥り、統制を失った中国兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスピー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」
南京アメリカ大使館通信、エスピー報告、三八年一月二十五日」より一部抜粋
表五
南京にあった中国側の「死体」の分類 殺害者 死亡の状態
日中両軍
(略)
上記17ケースのうち、日本軍の不法殺害(戦時国際法違反)による犠牲者にあたるのは、※印をつけた13~15の3つのケースだけである。ただし13については、中国兵が市民に偽装したため起きた事態であり、違法性は軽減されよう。また15のケースは、公式文書では一切確認されていない。
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