マレーシアってどんな国?
マレーシア
- マレーシア
- مليسيا
Malaysia (国旗) (国章) - 国の標語:Bersekutu Bertambah Mutu
Unity Is Strength
(マレー語: 団結は力なり) - 国歌:ヌガラク(Negaraku) (我が国)
- 公用語首都最大の都市通貨時間帯ISO 3166-1ccTLD国際電話番号
マレーシア語注1、英語 クアラルンプール注2 クアラルンプール リンギット (MYR) UTC+8(DST:なし) MY / MYS .my 60 - 注1: 2007年よりマレー語 (Bahasa Melayu) からマレーシア語 (Bahasa Malaysia) に変更された。
注2: 連邦政府各庁舎および連邦裁判所はプトラジャヤへ移転。連邦議会議事堂は移転せず、法律上の首都はクアラルンプールのままである。
歴史[ソースを編集]
詳細は「マレーシアの歴史」を参照
- 13世紀 アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わった。
- 1400年 マラッカ王国成立
- 1511年 ポルトガル、マラッカを占領(ポルトガル領マラッカ、1511年 - 1641年)
- 1542年 マラッカからポルトガルの鉄砲が日本に伝来した。(鉄砲伝来)
- 1549年 イエズス会のフランシスコ・ザビエルがマラッカを出発し、日本到着。
- 1641年 オランダ、マラッカを占領(オランダ領マラッカ、1641年 - 1825年)
- 1777年 隣国シャム(現在のタイ)のソンクラー国主に福建省漳州府海澄県出身の華僑・呉譲が就任。以後、ソンクラー国を拠点としてシャム軍がパタニ王国、クダ・スルタン国への侵略の動きを見せ始める。
- 1786年 シャムの攻撃を恐れたクダ・スルタン国は、非常時におけるイギリスによる兵力援助の約束と引き換えに、イギリス東インド会社にペナン島を賃貸した。イギリス東インド会社は、中国やインドからの移民増加政策を行った。
- 1791年5月1日 シャムが隣国のパタニ王国(現在のタイ深南部三県)まで攻めて来たため、イギリスに派兵を要求したが断わられた。ここにクダ・スルタン国はフランシス・ライトに5年間騙されていた事が発覚した。クダ・スルタン国は10000人からなる大軍によるペナン島回復戦を計画したが、事前にフランシス・ライトに察知され、ペナンを取り返すどころか対岸の拠点セベラン・ペライを奪われてしまい、ペナンを正式にイギリスに明け渡した(ペナンの歴史)。
- 1795年 イギリス、マラッカを獲得。
- 1805年 トーマス・ラッフルズがペナンに派遣され、ペナンで積んだ経験が後のシンガポール建設の参考となった。
- 1819年 トーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。
- 1821年 クダ・スルタン国はシャムに征服され、統治された。
- 1824年 イギリス・オランダ両国にて、マレー半島(マラッカ海峡)を中心とする地区の勢力範囲を定めた英蘭協約を締結(イギリスはスマトラ島西海岸のベンクーレン(ブンクル)とオランダのマラッカを交換し、ペナン・シンガポール・マラッカのマレー半島に英領植民地を得る。)
- 1826年 イギリスとシャムがバーニー条約を締結し、イギリス領マラッカ海峡植民地成立
- 1836年 フランシス・ライトの息子でペナン出身のウィリアム・ライトが南オーストラリアのアデレード建設を開始
- 1840年 ジェームズ・ブレマー率いる英国極東艦隊が海峡植民地シンガポールから阿片戦争へ出撃。ジェームズ・ブルックがサラワクの反乱の鎮圧に協力
- 1841年 サラワク王国がブルネイ・スルタン国から独立
- 1842年 ジェームズ・ブルックがサラワク王国の国主となる
- 1855年 イギリスとシャムが通商貿易に関するボーリング条約(不平等条約)を締結。
- 1874年 イギリス領マラヤ成立。錫鉱床の開発が進む。
- 1882年 阿片戦争で有名なランスロット・デントのデント商会のデント兄弟がイギリス北ボルネオ会社による北ボルネオ(スールー王国とブルネイ王国)の統治を開始
- 1888年7月 イギリス北ボルネオ会社により統治されるイギリス保護国北ボルネオが成立
- 1909年 英泰条約によってクダ・スルタン国はイギリスに移譲されイギリス領マラヤになる。Unfederated Malay States
- 1941年 日本軍がコタバル近郊に上陸(マレー作戦)。太平洋戦争の開戦。
- 1942年 日本軍がマラヤ全域を占領(日本占領時期のマレーシア)。
- 1946年 マラヤ連合と改称。サラワク王国がイギリス領サラワクになる。
- 1947年 マラヤ連邦、イギリス領植民地の集合体として結成
- 1948年 戦後、イギリスに返還されていたクダ州がマラヤ連邦に加入。Malayan Emergency(1948年 – 1960年)。
- 1957年 マラヤ連邦(初代国王トゥアンク・アブドゥル・ラーマン、初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン)独立。
- 1962年 - 1966年 インドネシアとマレーシアの対立。
- 1963年 シンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシアが成立。
- 1965年 シンガポールがマレーシアから独立。
- 1968年 - 1989年 共産主義者の反乱。
- 1969年 5月10日、1969年総選挙実施。5月13日、マレーシア史上最悪の民族衝突であるマレー人と中国人の間の衝突5月13日事件が起きる。
- 1970年 7月緊急条例発布。9月、ラーマン首相辞任。第2代首相にアブドゥル・ラザク就任。
- 1974年 クアラルンプールを連邦の首都に定める。
- 1975年 ラザク首相、急死。フセイン・オン、首相に昇格。第3代首相に。
- 1981年 マハティール首相就任( - 2003年)
- 1984年 サバ州沖合のラブアン島が連邦直轄領になる。
- 1999年 首相官邸がクアラルンプール郊外の新行政都市プトラジャヤに移転。首都機能が2010年までに移転される。
- 2003年 アブドゥラ・ビン・アフマッド・バダウィ首相就任
- 2007年 国語表記を、マレー語からマレーシア語 (bahasa Malaysia) に定めた。
- 2008年2月13日、アブドラ首相は、連邦議会下院を解散すると発表した。憲法の規定により解散後60日以内に総選挙が行われる。同時にサラワク州を除く12州議会に解散するよう要請した。
- 2008年 3月の総選挙で国民戦線は3分の2議席を確保できなかった。
- 2009年前年の総選挙で与党連合が歴史的敗北を喫し、アブドラ首相が責任をとって二期目の任期4年を残し辞任。4月3日、マレーシア与党連合・国民戦線の中核政党の統一マレー国民組織 (UMNO) の新総裁ナジブが第6代首相に就任した。
- 2013年2月11日ラハダトゥの対立。
- 2015年7月2日国策投資会社1MDBからナジブ首相の個人口座へおよそ7億ドルが振り込まれた公文書記録をウォール・ストリート・ジャーナルが報じた。下旬、会社幹部が逮捕者を出す一方、内務省は経済紙に発禁命令を出した。
- 2015年10月11日 シンガポール金融管理局が、スイスのファルコン・プライベート・バンクとUBSのシンガポール支店、地場金融大手DBS銀行に対し、資金洗浄規制に違反したとして処分を下したと発表[7]。UBSとDBSは、1MDBの資金流用に関与した疑いで調査されていた。UBSは130万Sドル、DBSは100万Sドルの罰金を科された。