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椎葉村は宮崎県の北西、九州中央山地に位置し、農作業をお互いで助け合う「かてーり」という相互扶助の精神があり、こうした絆が田畑や森林、文化を守っている礎となっています。

椎葉村に行こう!


椎葉村 - Wikipedia

椎葉村章 村旗・村章、共に1973年(昭和48年)11月5日制定 国 日本 地方 九州地方 都道府県 宮崎県 郡 東臼杵郡 団体コード 45430-3 法人番号 5000020454303 面積 537.29 km² 総人口 2,704人 (推計人口 …

椎葉村観光協会

www.shiibakanko.jp
椎葉村の自然や伝統文化の紹介、レジャースポットやお買い物情報など、便利で椎葉がもっと楽しくなる情報が満載の観光パンフレットをご紹介します。椎葉村へおこしの際には是非ご活用ください! ≫

椎葉村 : 「日本で最も美しい村」連合

utsukushii-mura.jp/shiiba
椎葉村は宮崎県の北西、九州中央山地に位置し、人口 は3,130人、 537.35 という広大な面積を有し、その約96%が森林で占められる緑豊かな村です。四季の移ろいの中で見せる様々な自然の美し






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www.shiibakanko.jp > ホーム > 観る - キャッシュ
民俗芸能の専門博物館. 椎葉民俗芸能博物館は、椎葉村の民俗文化を保存・伝承する 施設として、平成9年4月にオープンしました。地上4階、地下1階で昔の村の民家風造り をしています。 椎葉村に受け継がれてきた儀礼、慣習、民俗文化や平家落人伝説など ...
住所: 電話:
宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良1822-4
0982-68-7033
椎葉民俗芸能博物館では、椎葉村に受け継がれてきた儀礼、慣習、民俗文化や平家落人伝説などを写真や民具、祭礼具等の展示を通して紹介しています。また、広く九州・アジアの民俗芸能を取り上げる専門博物館として...
www.jalan.net > ... > 椎葉村(東臼杵郡)の観光 - キャッシュ
評価(評価: 4.3)評価:4.3-3件のレビュー
椎葉民俗芸能博物館の観光情報 営業期間:公開:9:00~17:00、交通アクセス:(1) 日向市駅から車で90分。椎葉民俗芸能博物館周辺情報も充実しています。宮崎の観光 情報ならじゃらんnet 椎葉の自然と歴史,四季の暮らしと祈り,民俗芸能など.
www.vill.shiiba.miyazaki.jp/education/.../museum.php - キャッシュ
椎葉民俗芸能博物館. 施設の概要. 本館は本村の春の的射、秋の臼太鼓、冬の神楽 などの民俗芸能、ひえつき節をはじめとする多種多様な民俗音楽を、椎葉の四季折々の 暮らしぶりと共に紹介しています。臼太鼓踊の展示室では、九州各県及びアジアの太鼓  ...



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民俗学発祥の地




那須宗久(なす むねひさ)は鎌倉時代初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。通称は大八郎

弓の名手として有名な那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。
元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。また『椎葉山由来記』の記載によると、元久2年に椎葉に入り、3年間滞在したというが、椎葉を去ったとされる貞応元年は17年後であり、矛盾がある。

椎葉村下福良には、宗久が植えたものと伝えられている八村杉があり、国の天然記念物に指定されている。 椎葉という地名は、宗久が陣小屋を椎の葉で覆ったことに由来して名付けられたと言われる。 五ヶ瀬町鞍岡という地名は、宗久が行軍の際、山が険しく馬を乗り捨てたことから「鞍置」と呼ばれていたのが、転じて鞍岡と名付けられたと言われる。 椎葉村下福良には、江戸期に庄屋を務めた那須家住宅(国の重要文化財)がある。この住宅は鶴富屋敷と通称されるが、現存する建物は江戸時代後期、文政6年(1823年)頃の建立である[1]。 民謡「ひえつき節」では、宗久と鶴富姫の伝説を題材として「那須の大八鶴富置いて椎葉立つときゃ目に涙」などと歌われるが、この歌詞は元々あった労働歌に昭和15年(1940年)になってから加えられたものである。 現在でも椎葉村には「那須」姓が多い。




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歴史

伝承では、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたとされる。1191年(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久が下向するが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め帰国。椎葉滞陣中に宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が、後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせたという。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来するという。

戦国時代には那須氏が支配しており、1559年(永禄2年)、獺野原の戦いでは東直政の求めに応じ肥後に出兵。大河内城主那須兵部大輔武宗、小崎城主那須下野武晴、向山城主那須左兵衛武綱ら130余人が敗死した[2]1577年(天正5年)には伊東崩れにより日向を追われた伊東義祐が星原城に立ち寄り、城主奈須右近将監祐貞に伊東氏累代の系図と旗を預けた。1585年(天正13年)、小崎城主那須左近将監は島津氏より鷹の儀で扶持を与えられた。また、島津氏から本領安堵された那須領に対し阿蘇惟光が行った違乱に対し、島津氏が使者を送り停止させた。翌1586年(天正14年)、向山城主那須弾正忠は肥後八代に島津義弘の陣中見舞いに訪れ、鎧甲を献上した。

1601年(慶長6年)、椎葉山三人衆(小崎城主那須左近将監、向山城主那須弾正忠、大河内城主那須紀伊)は徳川家康より鷹巣山管理を認める朱印状を与えられた。

1616年(元和2年)、三人衆と他の那須氏(十二人衆)との間で対立が激化。十二人衆は向山城を攻め、弾正忠の子久太郎、左近将監の孫専千代が討たれた。1618年(元和4年)、専千代の父主膳は十二人衆を幕府に訴えた。

1619年(元和5年)、幕府は阿倍正之大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。両名は人吉藩の兵を動員し住民1000人を捕らえ、うち140人を殺害。20人が自害。訴えを起こした主膳は高崎藩に預けられた(椎葉山騒動)。事件後、椎葉は天領となり阿蘇大宮司に支配が委ねられたが、1656年(明暦2年)、阿蘇氏は椎葉山管理を辞退。以降、人吉藩の預かり地となった。

人吉藩では代官を派遣するなどの直接統治はせず、向山、大河内、松尾、下福良の四名の庄屋と大河内、古枝尾の二名の横目に山中支配を担わせた。

江戸期の人口は1774年(安永3年)時点で4483人、うち郷士が3302人を占めている。石高は1753年(宝暦3年)時点で48石であったが、後に焼畑の本高入により1828年(文政11年)時点では590石と大幅に増加している。

日本民俗学の先駆けである柳田國男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』(明治42年、1909年)を記した。これには当時の椎葉村長中瀬淳の協力も大きかったという。

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柳田國男(1951年):宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌『郷土研究』を創刊する。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。

『郷土生活の研究法』(1935年)において「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べている。
ここでは、文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決して見えてこないという認識が示されている。「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険が伴うのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じている。
また、柳田は『日本民俗学』(1942年)において「民俗学は微細な事実の考証から出発する」とし、随筆や紀行文等との差異からも確なる学的立脚を求め、計画調査を重要視した。



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中瀬淳(なかせすなお)1864(元治元)年〜1950(昭和25)年
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●「後狩詞記」の共著者
 柳田国男の『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』は、日本民俗学の黎明(れいめい)をつげた一著といえるだろう。本書には「日向奈須の山村において、今も行われる猪狩りの故実」とサブタイトルを付す。
 1908(明治41)年7月10日、郡会議事堂(現宮崎市)において農政経済講和を済ませた柳田は、旅館神田橋に宿泊。翌日、椎葉村へ出発、富高-神門を経て13日に村長中瀬淳に迎えられた。当夜は松尾の松岡宅に泊まり、中瀬の案内で18日までの“椎葉検証”の旅が始まる。柳田の本来の目的は、焼畑跡地に自生する山茶、シイタケやコンニャク栽培の可能性を探る調査であった。
 柳田のもう1つの関心事は、中瀬の話す“猪狩り”であった。15日に大河内椎葉徳蔵宅で『狩之巻』を見た柳田は、いよいよ猪狩りに心を寄せる。帰京した柳田は数度にわたり手紙を送って、中瀬はこれにこたえる。農政学者と山村の村長との心からなる交流であった。
 椎葉村を訪れた翌年、柳田は『後狩詞記』50部を自費出版、本書は「土地の名目」「狩ことば」「狩の作法」「いろいろの口伝」と付録の「狩之巻」から成る。柳田は序文に「記事の全部はことごとく椎葉村の村長中瀬淳氏から口または筆によって直接に伝えられたものである」と書いている。さらに彼は「今日ではこれが日本民俗学の出発点のようにいわれている」(「故郷七十年」)とも自負している。
 中瀬は25歳で村の助役となり、1893(明治26)年村長に選任され、柳田が訪れたときは4期目、村の状況に精通していた。『椎葉村是』をまとめあげるなど、村の発展に大いに貢献した。1998(平成10)年7月、柳田の椎葉村採訪以来90周年を迎えた。(山口 保明)
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メモ
◎民俗学発祥芝地碑
 『柳田国男全集』の編集に尽力した高藤武馬は、椎葉村を訪れ日隈惣七(ひぐまそうしち)(22代村長)に面談、碑の建立を懇望した。高藤は「耳川の源流椎葉の里に“後狩詞記”と刻んだ日本民俗学発祥の記念碑を建ててほしいのである。それがそこにあるというだけで椎葉は忘れ得ぬゆかしい土地となるだろう」(『旅つづれ』)と記している。
 待望の碑は、1985(昭和60)年8月開催の“民俗の原点・椎葉シンポジウム”を機に除幕。碑正面に民俗学発祥之地と刻み、柳田の「椎葉村を懐ふ」と題する歌。
 立ちかへり又みゝ川のみなかみに
   いほりせん日は夢ならでいつ
 の1首を紹介。大河内の竹ノ枝尾の旧中瀬宅前庭に設置、両人の友情を伝えている。1993(平成5)年には“柳田国男ゆかりサミット”を開催。さらに椎葉民俗芸能博物館がオープン。柳田来遊以来、90年を越えて山村文化発信の基点となっている。



近現代

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椎葉村役場旧庁舎(2008年撮影、大字下福良1747番地20)


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