椎葉村に行こう!
椎葉村 - Wikipedia
椎葉村観光協会
椎葉村 : 「日本で最も美しい村」連合
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民俗芸能の専門博物館. 椎葉民俗芸能博物館は、椎葉村の民俗文化を保存・伝承する 施設として、平成9年4月にオープンしました。地上4階、地下1階で昔の村の民家風造り をしています。 椎葉村に受け継がれてきた儀礼、慣習、民俗文化や平家落人伝説など ...
椎葉民俗芸能博物館
-Yahoo!ロコ住所: 電話:
宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良1822-4 |
0982-68-7033 |
椎葉民俗芸能博物館では、椎葉村に受け継がれてきた儀礼、慣習、民俗文化や平家落人伝説などを写真や民具、祭礼具等の展示を通して紹介しています。また、広く九州・アジアの民俗芸能を取り上げる専門博物館として...
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評価(評価: 4.3)評価:4.3-3件のレビュー
椎葉民俗芸能博物館の観光情報 営業期間:公開:9:00~17:00、交通アクセス:(1) 日向市駅から車で90分。椎葉民俗芸能博物館周辺情報も充実しています。宮崎の観光 情報ならじゃらんnet 椎葉の自然と歴史,四季の暮らしと祈り,民俗芸能など.
www.vill.shiiba.miyazaki.jp/education/.../museum.php - キャッシュ
椎葉民俗芸能博物館. 施設の概要. 本館は本村の春の的射、秋の臼太鼓、冬の神楽 などの民俗芸能、ひえつき節をはじめとする多種多様な民俗音楽を、椎葉の四季折々の 暮らしぶりと共に紹介しています。臼太鼓踊の展示室では、九州各県及びアジアの太鼓 ...
民俗学発祥の地
弓の名手として有名な那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。
元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。また『椎葉山由来記』の記載によると、元久2年に椎葉に入り、3年間滞在したというが、椎葉を去ったとされる貞応元年は17年後であり、矛盾がある。
歴史
伝承では、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたとされる。1191年(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久が下向するが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め帰国。椎葉滞陣中に宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が、後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせたという。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来するという。
戦国時代には那須氏が支配しており、1559年(永禄2年)、獺野原の戦いでは東直政の求めに応じ肥後に出兵。大河内城主那須兵部大輔武宗、小崎城主那須下野武晴、向山城主那須左兵衛武綱ら130余人が敗死した[2]。1577年(天正5年)には伊東崩れにより日向を追われた伊東義祐が星原城に立ち寄り、城主奈須右近将監祐貞に伊東氏累代の系図と旗を預けた。1585年(天正13年)、小崎城主那須左近将監は島津氏より鷹の儀で扶持を与えられた。また、島津氏から本領安堵された那須領に対し阿蘇惟光が行った違乱に対し、島津氏が使者を送り停止させた。翌1586年(天正14年)、向山城主那須弾正忠は肥後八代に島津義弘の陣中見舞いに訪れ、鎧甲を献上した。
1616年(元和2年)、三人衆と他の那須氏(十二人衆)との間で対立が激化。十二人衆は向山城を攻め、弾正忠の子久太郎、左近将監の孫専千代が討たれた。1618年(元和4年)、専千代の父主膳は十二人衆を幕府に訴えた。
翌1619年(元和5年)、幕府は阿倍正之、大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。両名は人吉藩の兵を動員し住民1000人を捕らえ、うち140人を殺害。20人が自害。訴えを起こした主膳は高崎藩に預けられた(椎葉山騒動)。事件後、椎葉は天領となり阿蘇大宮司に支配が委ねられたが、1656年(明暦2年)、阿蘇氏は椎葉山管理を辞退。以降、人吉藩の預かり地となった。
人吉藩では代官を派遣するなどの直接統治はせず、向山、大河内、松尾、下福良の四名の庄屋と大河内、古枝尾の二名の横目に山中支配を担わせた。
江戸期の人口は1774年(安永3年)時点で4483人、うち郷士が3302人を占めている。石高は1753年(宝暦3年)時点で48石であったが、後に焼畑の本高入により1828年(文政11年)時点では590石と大幅に増加している。
日本民俗学の先駆けである柳田國男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』(明治42年、1909年)を記した。これには当時の椎葉村長中瀬淳の協力も大きかったという。