浜名湖
浜名湖 所在地 位置面積周囲長最大水深 平均水深貯水量水面の標高成因 淡水・汽水湖沼型透明度
衛星写真 | |
日本 静岡県浜松市、湖西市 | |
64.91[1]km2 | |
114 km | |
16.6 m | |
4.8 m | |
0.35 km3 | |
0 m | |
海跡湖 | |
汽水 | |
中栄養湖 | |
1.3 m | |
プロジェクト 地形 |
地理
静岡県西部に位置しており、南部は遠州灘に通じている。もとは砂州によって境される淡水湖が1498年の大地震と高潮により、砂州が決壊し外海と通じ、汽水湖となった。汽水湖には海水と淡水の栄養素が集まるため、魚などの生物が非常に豊富で魚類338種、甲殻類59種、軟体動物84種と全国一の生物が生息しているとの調査報告がある。湖の面積としては日本で10番目の大きさである[3]。形は複雑で、細江湖(引佐細江)、猪鼻湖、松見ヶ浦、庄内湖と4つの枝湾(水域)を持ち、これらの面積は湖全体の面積の4割に達する。このため、湖の周囲長は日本では3番目の長さとなる。また、汽水湖としては日本一長い。湖の北側と南側で水深は大きく異なり、北側は深く、南側は比較的浅い。
近くに存在する佐鳴湖とは、1つの川(新川)を通して繋がっている。なお、河川法上は、浜名湖は二級河川都田川水系都田川として河川指定がなされており、浜名湖に注ぐ全ての河川も、水系では都田川水系として扱われる。
歴史
浜名湖の歴史はおおよそ、40~50万年前の海侵期、天竜川の堆積により台地が形成される。次の海退期に現浜名湖付近に、谷を形成、38万年前、第二海侵期に入り江となる。このとき三方原台地が堆積する。この海退期には天竜川は三方原、磐田台地に分裂させ、第三海侵期に浜名湖付近の沈降と海面上昇で、現浜名湖に近い入り江が出来る。第四海退期(約2万年前)それに続く沖積世の海面上昇により沿岸流が運ぶ土砂で入口をふさがれ、現在の浜名湖を形成した[5]。
沖積世の海面上昇は縄文海侵(海進)とよばれ、このあと+3mから-2mほどに渡る海侵・海退が数度おとずれた。これにより低地には海岸線に平行な砂堤を複数残している。その最大は雄踏で高さ10mである。縄文中期~後期以降、浜名湖は庄内半島から日ノ岡より北にあり、その南は平野となっていて川として現在の弁天島駅付近で海に注いでいた。その後この大平野が消滅、平安時代には浜名湖の出口は現在の湖西市新居町大倉戸に流れていて橋が掛けられた。この川を浜名川と呼び、ここを東海道が通っていた。
一般的に古名は遠津淡海(とおつあわうみ)と呼ばれており、遠江の語源となったとも言われる。ただし、国府のある磐田湖(大之浦)を指すとする説もある。この時代は、(琵琶湖より)遠い淡海つまり淡水湖として認識されていた。浜名湖は海に近い湖であったが、湖面の方が海面より高く、浜名湖より流れ出る川を海水が逆流するようなことは無かった。
しかし、明応7年(1498年)に起きた明応地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。この大災害は舞阪から弁天島を分け、その津波により村全体が引っ越したことから村櫛(現在の浜松市西区村櫛町)という地名が付くほどであった。また気賀の地震の神社の様が流れ着いた(元は新居の神様)など、記録や伝承が残る。
この時に決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、その後は渡し船で往来するようになった。今切は文字通り「今切れた」という意味である。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで、佐久間信盛が武田信玄率いる武田軍団に恐怖感を抱いて、戦わずしてこの今切まで撤退している。
近代での今切の渡し(いまぎれのわたし)は東西交通の難所として広く知られたが、現在では鉄橋や道路なども通り安全に往来できるようになっている。
観光地・施設
- 舘山寺温泉 - 湖の東岸にある庄内半島の付根に位置する温泉。
- 舘山寺 - 湖の北岸にある寺院。周辺は同名の地名となっており湖周辺観光の拠点となっている。
- 弁天島 - 湖の南部に位置する島。湖水浴場としての位置付けが強いが、温泉地でもある。
- 浜名湖競艇場
- 浜名湖ガーデンパーク - 浜名湖花博が開催され、その後無料供用。
- 浜名湖パルパル - 舘山寺温泉近くの遊園地。
- 新居関所
- 気賀関所 - 姫街道(本坂通)の関所。
- 東急リゾートタウン浜名湖 - 東急不動産グループが開発、販売、運営を行うリゾートエリア。会員制リゾートホテル「東急ハーヴェストクラブ・浜名湖」も同エリア内にある。
- 遠江八景 - 浜名湖周辺の八ヶ所の景勝地。
- 浜名湖オルゴールミュージアム - 屋上に大草山展望台がある。