郡上一揆 - Wikipedia
郡上一揆(ぐじょういっき)は、江戸時代に美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)で宝暦年間に発生した大規模な一揆のことである。郡上藩では延宝年間にも年貢引き上げに藩内部の路線対立が絡んだ一揆が発生したが、一般的には郡上藩主金森氏が改易され、老中、若年寄といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦期の一揆を指す。
概要
郡上一揆は、郡上藩がこれまでの年貢徴収法であった定免法から検見法に改め、更に農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を行うことにより増税を行うことを決定し、それをきっかけとして発生した[1]。極度の財政難に悩まされていた郡上藩では、一揆開始前から各種の賦課が増大しており、一揆開始当初は豪農層や庄屋など豊かな農民や、郡上郡内でも比較的豊かであった、郡上八幡中心部よりも長良川の下流域にあった村々が一揆を主導していた[2]。
農民らの激しい抵抗に直面した郡上藩側はいったん検見法採用を引っ込めたものの、藩主金森頼錦の縁戚関係を頼るなどして、幕領である美濃郡代の代官から改めて郡上藩の検見法採用を命じたことにより一揆が再燃した[3]。
しかし藩側の弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層の多くは一揆から脱落し、その後は中農、貧農が運動の主体となる[4]。一揆勢は藩主への請願を行い、更には藩主の弟にとりなしを依頼するが、郡上藩側からは弾圧された[5]。また一揆本体にも厳しい弾圧が加えられたこともあって一揆勢は弱体化し、郡上郡内は寝者と呼ばれる反一揆派が多くなった。このような困難な情勢下、一揆勢は老中への駕籠訴を決行するに至る[6]。
老中への駕籠訴が受理されたことによって郡上一揆は幕府の法廷で審理されることになり、一揆勢は勢いを盛り返した[7]。しかし当初進められていた審理は中断し、問題は解決の方向性が見られないまま長期化する[8]。そのような中、一揆勢は組織を固め、藩の弾圧を避けるために郡上郡外の関に拠点を設け、闘争費用を地域ごとに分担し、献金によって賄うシステムを作りあげるなど、優れた組織を構築していく[9]。
また郡上一揆と同時期に郡上藩の預地であった越前国大野郡石徹白で、野心家の神主石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとしたことが主因である石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った[10]。
最終的に郡上一揆と石徹白騒動はともに目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が幕府中枢部関与の疑いを抱いたことにより、老中の指揮の下、寺社奉行を筆頭とする5名の御詮議懸りによって幕府評定所で裁判が行われることになった[11]。
一揆の発生
年貢徴収法改正の申し渡しと一揆の発生
宝暦4年7月20日(1754年9月6日)、郡上郡全域の庄屋を郡上藩庁に呼び出した上で、代官猪子庄九郎、別府弥格の名で年貢の徴収法を元禄12年(1699年)に定めた定免法から検見法に変えることを申し渡した。
申し渡しの趣旨としては、現行の年貢徴収法である定免法は元禄12年(1699年)に定められたもので、幕領ではすでに年貢徴収法が改正されており、現在の年貢徴収法は定法と異なっているため改正が必要であり[† 3]、豊作年には多くの年貢を納め、凶作時には減免を行う検見法によって年貢を納めることは農民にとっても利益になるという内容であった[52]。
申し渡しを受けた庄屋らは、その内容が重大であるため農民たちと相談の上で回答する旨を回答した。庄屋が郡上藩庁に呼び出された時点で、危機感を強めていた農民らは八幡榎河原に集結し始めていた。このような情勢下で帰村した庄屋は、各村で行われた寄合で農民の年貢徴収法改正への激しい反発に直面することになる[53]。
各村はそれぞれ惣代を選び、宝暦4年8月2日(1754年9月18日)、郡上郡内の約120名の庄屋ら各村の惣代が郡上南宮神社に集まって惣代寄合を行い、神社の神前で一味同心の誓いを立てた上で傘連判状を作成し、年貢徴収法改正お断りの嘆願書を作成した[54]。
しかし嘆願書は藩側に手渡されたものの、藩側からきちんとした年貢徴収法改正断念の返事はなかった、結局、庄屋たち中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決は断念され、農民らが直接藩に嘆願する方針に変更された[55]。
郡上郡内の庄屋の代官所呼び出し
宝暦5年7月16日(1755年8月23日)、郡上郡内36ヵ村[† 6]の庄屋、組頭が郡上藩側から呼び出され、笠松陣屋に出頭するように命じられた。庄屋らは郡上藩の役人らに引率され笠松陣屋へ向かった。宝暦5年7月21日(1755年8月28日)、笠松陣屋で庄屋らは美濃郡代代官の青木次郎九郎から、昨年、領主から検見法の採用を言い渡されたが、検見法は土地の善し悪し、収穫の多少によって年貢高の変更がなされるため、農民にとって不都合な点はない。
また郡上藩領でいまだに定免法が採用されているのは地方役人の怠慢と言え、幕府の定めた年貢徴収法である検見法を説明し、受け入れるように言い渡すものである。また十六か条の願書は検見法の受け入れ反対に乗じて強訴を行ったものであるため認め難いものではあるが、検見法を受け入れるのならば十六か条で取り上げられた課税について考慮することにするとの内容の申し渡しがなされた[68]。
その上で昨年手渡された農民たちの訴えを聞き届ける旨の三家老の免許状も提出せよと命じられ、もし承知しなければ重い罪科に問われると脅された。また笠松陣屋の元締めからは郡上藩主の金森頼錦が昨年は病気であったこともあって、美濃郡代に検見法の言い渡しを頼まれたものであるとの説明があった[69]。
庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設
宝暦5年10月1日(1755年11月4日)、郡上藩の役人らが郡上藩境の母野で庄屋の帰還阻止活動をしている農民たちのところに現れ、農民らに宗門改めを行わねばならぬ時期に、宗門改めの実務を行う庄屋の帰還を阻止しているのは不届きであると通告した。
同日、郡上藩の寺社奉行である根尾甚左衛門からも母野に集結していた農民らに騒動を止めるよう書状が送られたが、農民たちは那留村丹右衛門家来文六を使いに出して書状を寺社奉行に送り返した。使いとなった文六は縄手錠をかけられ、那留村丹右衛門家預けの処分となった[87]。
宝暦5年10月7日(1755年11月10日)、寺社奉行根尾甚左衛門は各村に宗門改めの実施を正式に通知した。そして根尾寺社奉行は各村の寺院に対し、宗門改めの実施のため農民らに庄屋帰還阻止運動を止めるように説得するよう伝えた。
宝暦5年10月15日(1755年11月18日)、庄屋約120名が母野にやって来て、宗門改め実施のために郡上郡内に戻れるよう、農民らに説得を行ったが、この時は3000人と伝えられる農民らが庄屋たちの郡上帰還を阻止した。
翌16、17日も5、6000人と伝えられる農民が母野に集結して庄屋帰還を阻止しようとしたが、宝暦5年10月23日(1755年11月26日)には、郡上郡の南部である下川筋の庄屋はひそかに帰還して宗門改めを行った。その後母野の農民たちの間で、庄屋の不在によって宗門改めを実施できないのはやはりまずいとの判断がなされ、約2ヵ月半に及んだ庄屋帰還阻止運動は終結した[88]。
駕籠訴決行[ソースを編集]
宝暦5年11月26日(1755年12月28日)、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の願主5名に高原村弁次郎を加えた6名は、駕籠訴を決行するために老中酒井忠寄の江戸城登城の行列を待った。酒井老中の行列が現れると、訴状を提出しようと老中が乗った駕籠に駆け寄った。供の侍らに蹴散らされながらも、大声で泣きながら訴える声を聞きつけた酒井老中から声を掛けられたため、「美濃国郡上の百姓で、御訴訟願い奉る」と訴状を差し出した。酒井老中は駕籠訴人らの宿所を尋ね、自らの邸に連れて行くよう命じた[100]。
老中酒井忠寄の邸で帰宅を待っていた駕籠訴人は、夕刻の老中帰宅後に訴状が受理され、明日宿の主人とともに出頭するように伝えられた。宝暦5年11月27日(1755年12月29日)、宿の主人である秩父屋半七とともに出頭した駕籠訴人は、老中酒井忠寄から事情聴取を受けたあと、遠いところからやってきたので宿でしばらく休息するようにとの言葉をかけられた[101]。
歩岐島騒動
郡上藩用人の大野舎人は、駕籠訴人5名と30名の村方三役代表を対決させて、駕籠訴が受理されたとの駕籠訴人の主張を覆すもくろみが失敗した後も、一揆勢の弱体化を狙った画策を続けていた。大野は一揆勢の組織を切り崩すために資金と帳面を押収することとした。そこで一揆勢の司令塔である帳元について郡上郡内を徹底的に捜索した結果、宝暦8年(1758年)2月上旬には歩岐島村四郎左衛門が帳元の中核であると判明した[158]。藩側はまず歩岐島村四郎左衛門を呼び出してみたが呼び出しに応じなかったため、四郎左衛門と同じ歩岐島村に住む寝者である歩岐島村久右衛門を呼び出し、四郎左衛門の様子について尋ねてみると、家に隠れて外出していないことが報告された。そこで藩側は久右衛門に対し、四郎左衛門宅から帳面と金銭を奪い取るよう指示した[159]。
castle.gujohachiman.com/archives/tag/宝暦騒動 - キャッシュ
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roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-hourekigujyo.html - キャッシュ
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