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長崎県立奈留高等学 小さな子供にたずねられたら海の碧さをもう一度伝えるために 作詞・作曲 荒井由実(松任谷由実)

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長崎県立奈留高等学校 愛唱歌「瞳を閉じて」

作詞・作曲 荒井由実(松任谷由実)

  1. 風がやんだら 沖まで船を出そう
    手紙を入れた ガラスびんをもって
    遠いところへ行った友達に
    潮騒の音がもう一度届くように
    今 海に流そう

  2. 霧が晴れたら 小高い丘に立とう
    名もない島が 見えるかもしれない
    小さな子供にたずねられたら
    海の碧さをもう一度伝えるために
    今 瞳を閉じて
    今 瞳を閉じて

     
http://www.news.ed.jp/naru-h/kahi2.jpg

  • 愛唱歌「瞳を閉じて」について
     

 昭和40年、長崎県立五島高等学校奈留分校として発足した本校の校歌は五島高校のものであり、歌詞が奈留島との縁が薄く、なじみにくいものでした。
 昭和49年、当時在学中だった藤原あつみさんがラジオの深夜番組に「私たちの校歌を作ってください。」と投書しました。
 それに応えて荒井(松任谷)由実さんから、奈留島の海や山のイメージを詩に託した「瞳を閉じて」という曲が贈られたのです。島を離れて暮らす友を思って歌われるこの歌は、校歌としては採用されなかったものの、NHKテレビ「新日本紀行」で奈留島の風物・生活とともに紹介され“幻の校歌”として反響を呼びました。
 なお、現在の校歌は、この「新日本紀行」を見て感動した作詞家の石本美由起氏が作詞し、作曲においては長崎の音楽家深町一朗氏の協力を得て、本校に送ってくださったものです。
 昭和51年に本校は長崎県立奈留高等学校として独立し、「瞳を閉じて」は愛唱歌として今も歌い継がれています。
 昭和63年8月14日、荒井(松任谷)由実氏直筆の文字で刻まれた「瞳を閉じて」の歌碑が、同窓生の手により、奈留高校の庭園に建立されました。除幕式には荒井(松任谷)由実氏本人も参加し、感動的な除幕式となりました。
 就職や進学で卒業生が島を離れるとき、港では「蛍の光」とともに、この「瞳を閉じて」が卒業生を見送ります。今では「瞳を閉じて」は、奈留島の愛唱歌として定着しています。




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奈留島

   
奈留島座標面積最高標高 所在海域 所属諸島 所属国・地域 地図
奈留町船廻・教会前からの眺め - panoramio.jpg

23.82 km²
(鴨越)276 m
五島灘
五島列島
日本の旗日本長崎県五島市
Pfeil links unten rot.svg五島列島における奈留島の位置
Pfeil links unten rot.svg
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奈留港
奈留島(なるしま)は、長崎県の西に浮かぶ五島列島を構成するの一つである。五島列島内では久賀島若松島の間にあり、全島が長崎県五島市に属する。

概要

地理

五島列島のほぼ中央に位置し、海岸線が複雑に入り組み、天然の良港を形成している[1]五島列島を網羅する西海国立公園だが、奈留島だけは除外されている。

交通

奈留港ターミナル
長崎港長崎市)からフェリー福江港(五島市福江島)からフェリーと高速船が運航されているほか、博多港福岡市)からのフェリーもある。福江~奈留島間の所要時間はフェリーで40~45分、高速船で30分。
  • 長崎 → 福江 → 奈留島→ 奈良尾(新上五島町中通島)→ 長崎(九州商船フェリー)
    • 1日1便
  • 福江 - 奈留島 - 若松(新上五島町若松島)(五島旅客船フェリー)
    • 1日3往復(福江行き始発便と福江発最終便は福江~奈留島間のみ)
  • 福江 - 奈留島 - 土井ノ浦(若松島) - 郷ノ首(中通島)(五島旅客船高速船・奈留島折り返しの便もあり)
    • (福江発)1日2便、(奈留島発)1日3便
  • 博多 → 奈留島→ 福江(野母商船フェリー・博多~福江航路の下り便のみ寄港)
    • 1日1便

キリスト教史

奈留島を含む五島におけるキリスト教の伝来は、1566年永禄9年)にルイス・デ・アルメイダによって布教されたが、1612年慶長17年)の禁教令により一度断絶する。

1797年寛政9年)に西彼杵半島三重村樫山から長吉・正吉・北平という三名の隠れキリシタンが移住し、その後に多くのものが続き、密かに信仰が持ち込まれた。

1881年明治14年)にフランス人司祭のオーギュスト・ブレル神父江上集落で洗礼を授けカトリックに復帰させたが、その後も隠れキリシタンの信仰を継承した人々もおり、昭和40~50年代まで信仰を維持してきたとされる。

1989年平成元年)に刊行された『長崎の教会』(聖母の騎士社)では「奈留島の人口3500人のうち約6割が隠れキリシタン(の子孫)」としている。

水晶

日本式双晶
この島で産出する水晶のうち、ハートのような形をしているものは日本式双晶と呼ばれる。現在は島内での水晶の採集は禁止されている。

施設

行政

  • 五島市奈留支所

教育機関

名所・観光スポット

江上教会

オランダ東インド会社   

VOCアムステルダム本社のロゴ
現在使われていない歴史的な旗?オランダ東インド会社の旗
オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、正式には連合東インド会社オランダ語 : Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC)は、1602年3月20日オランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。
資本金約650万ギルダー重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれた。これには同国の銀行のホープ商会も参加した。本社はアムステルダムに設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、ジャワ長崎出島などに置かれた。
江戸時代の日本では「こんぱんにあ」「こんぱんや」と呼ばれた

歴史

設立までの背景

16世紀後半、スペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていたオランダは、スペインによる貿易制限、船舶拿捕など、経済的に打撃を受けていた。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルが、1580年にスペインに併合されていたことで、ポルトガルのリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていた。

こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペイン(と併合されていたポルトガル)に対抗する必要があった。1595年から1597年までの航海を通じてジャワ島バンテンとの往復に成功を収めると、いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させた。

しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったために現地(東南アジア)での香辛料購入価格が高騰した上、本国(オランダ)で商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落する一方であり、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で不安が残された。さらに、1600年イギリス東インド会社が発足したことは、この懸念を深めさせた。

こうした中、ホラント州の政治家オルデンバルネフェルトは、複数の商社をまとめてオランダ連合東インド会社を発足させ、諸外国に対抗しようとした。6つの支社から構成されており、それぞれはアムステルダムホールンエンクハイゼンデルフトロッテルダムミデルブルフに置かれた。

設立後

旧VOCアムステルダム本社

設立当初は東インド(インドネシア)における香辛料貿易を目的とし、マラッカを拠点とするポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦った。

1605年には、スラウェシ島に上陸。

1619年には、第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在任1619年-23年、再任1627年-29年)がジャワ島西部のジャカルタバタヴィア城を築いてアジアにおける会社の本拠地とした。

1623年にモルッカ諸島アンボイナ事件が勃発し、オランダ東インド会社が日本人の傭兵を含むイギリス商館のイギリス人を虐殺した。イギリスは東南アジアから撤退し、インドのムガル帝国攻略に向かう転換点となった。
1628年から1629年にかけて、ジャワ島でマタラム王国がバンテン王国への進出を目指し、2度に渡ってバタヴィアに侵攻したが撃退した。1646年に、マタラム王国と平和協定を締結し、ジャワ島でマタラム王国と独占貿易をすることになった。

また日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められなかったが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした。南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配した。

日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府に取り入りポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められた。

アジアにおけるポルトガル海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって没落した。イギリス東インド会社フランス東インド会社もオランダとの競合に勝てず、東アジアや東南アジアから撤退して、インド経営に専念することになる。

スペイン、ポルトガルでユダヤ人は改宗が強制され、異端審問などでひどい扱いを受けていた。そこから追放されたユダヤ人はアムステルダムなど各地に散在。ユダヤ人は商人などが多いので、東インド会社もユダヤ人が関係している。日本からのポルトガルの排斥はその意味からも非常に重要なポイントである。

1643年、オランダ東インド会社に所属するマルチン・ゲルリッツエン・フリースは、東インド総督の命を受けて日本の東方沖にあるとされた金銀島探検のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官として太平洋を北上し、ヨーロッパ人で初めて択捉島得撫島を発見した。そして、それぞれスターテン・ラント(オランダ国の土地)とコンパニース・ラント(オランダ東インド会社の土地)と命名して領土宣言をした[1]

1643年、カンボジアに留まっていた会社員たちが惨殺され、会社は短期間の戦争の後、1670年代までにカンボジアの交易地を放棄した(カンボジア・オランダ戦争)。

1660年よりオランダ東インド会社は、スラウェシ島のマカッサル西海岸でゴワ王国英語版との戦争に突入し、1669年にスペルマン英語版提督が、スルタンのハサヌディン英語版に、オランダ東インド会社のスラウェシ島支配に関するボンガヤ条約英語版を署名させた。1665年から1667年にかけての第二次英蘭戦争で、バンダ諸島東インド諸島モルッカ諸島)にあるラン島香辛料貿易)とニューアムステルダム毛皮貿易)の自治権と交換して獲得し、香辛料貿易(ナツメグクローブ等)の独占を図った。イギリスは既に種子を持ち出しており、1815年頃からモーリシャスグレナダなどでプランテーションを開始すると、香辛料はありふれた商品となってバンダ諸島の価値は相対的に下がっていくことになった。

18世紀には3度に渡るジャワ継承戦争(1703年・1719年・1749年)や華僑虐殺事件英語版によって、マタラム王国が四分割され、ジャワ島での支配体制も確固たるものとなった。

オランダ本国は、オランダ東インド会社が17世紀の成功によって黄金時代を迎えていた一方で、衰微の兆しが訪れていた。17世紀半ばの3次にわたる英蘭戦争絶対主義フランス王国との戦争で国力を消耗し、1689年にヴィレム3世がイギリス王に迎えられた後は、イギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡した。

以後イギリスが大英帝国として、海上覇権を確立する事になる。1795年にはフランス革命軍により本国を占領された。この混乱のなかで1799年12月31日、オランダ東インド会社は解散、海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収された。ナポレオン戦争後、オランダは無事にイギリスから返還された東インドの領域経営(インドネシア)に主として専念することになる。

主要年表


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