市域は令制国の河内国中部にあたる。古代にはこの一帯は河内湾と呼ばれる大阪湾の奥にある小さな湾であったが、次第に海から分離して湖となった。その湖が大和川を経て上流から運ばれてくる土砂が堆積したことによって徐々に陸地化したが、こうした経緯から湿地・深田が多く、また洪水に見舞われやすい土地であった。
古代には物部氏の本拠地があり、物部守屋の最期の地は衣摺(きずり、市西南部)であるなど、早くから開けた地域であった。飛鳥時代には中国大陸への玄関口であった難波津との街道筋にあたり街道筋には多くの集落ができた。奈良時代になると、平城京と難波津を結ぶ街道が整備され、その街道筋にも多くの集落ができた。
平安時代になり、熊野詣や高野山へ上皇や貴族が参詣に訪れるようになると、その街道として生駒山麓を辿る高野街道が利用された。この沿線にあたる市の東部には多くの集落が点在しており、今なお旧村として市内に静かなたたずまいを残している。平安時代には、枚岡神社の勢力が大きく、それを背景とする水走氏が有力な領主として市東部を中心に活動した。
室町時代初期、河内守護に任ぜられた畠山氏が若江城を築き、河内を統治する拠点とした。以後畠山氏の守護代の遊佐氏がこの城を治めるが、応仁の乱やその後も続いた家督争いによって衰え、城主は細川氏や遊佐河内守長教、三好氏など転々とする。最終的に城は織田信長の家臣となった三好義継の旧臣の若江三人衆が治め、石山本願寺攻めが始まると織田方の拠点とされ、織田信長もこの城で指揮を執るなどしたが、両者が和睦した後に廃城とされた。またこの付近は大坂夏の陣における若江の戦いの舞台としても知られ豊臣方の将木村重成の終焉の地でもあることで知られる。
東大阪市の中央部は長い間、北にある深野池や西にある新開池、そこに注いでいる付け替え前の大和川の為に長らく湿地帯で、東大阪市の市域で早くに開けたのは、確かにこれら大和川の流域と高野街道沿いの地域ではあるが、開発は遅れがちであった。室町時代以降、河内国の行政の中心であった若江城でさえ、四方を沼地に囲まれた難攻不落の平城として記録されている。
市成立後の沿革
- 1967年2月1日 : 布施市、河内市、枚岡市が合併し、大阪府下31番目の市として東大阪市が発足する。市役所は旧 河内市役所を使用したほか、旧 布施市役所に「西支所」を、旧 枚岡市役所「東支所」をそれぞれ設置し、2003年の新庁舎建設に伴う機能併合まで3庁舎ともに使用していた。
- 1998年4月23日 : 知人女性の健康保険証を、虚偽の住民登録を行い取得させたとして、当時の市長である清水行雄が逮捕される。
- 2003年5月6日 : 市役所が現在地に移転する。
- 2005年4月1日 : 大阪府下では、堺市(現在は政令指定都市)、高槻市に次ぐ中核市に移行する。
- 2010年2月 : 徴収した国民健康保険料について、介護保険料などが長期間に亘り過大徴収されていたことが明らかになる[1]。
- 2011年10月 : 国民健康保険証がカード化される[2]。