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なび夫が行く!!「仙台市博物館・仙台国際センター」  

仙台市

   
せんだいし
仙台市 国 地方 都道府県団体コード法人番号面積 総人口人口密度隣接自治体 市の木 市の花 市の鳥
市の虫仙台市役所所在地 外部リンク 特記事項
SendaiTop.png
仙台市旗仙台市章
仙台市旗仙台市章
日本の旗日本
東北地方
宮城県
04100-9
8000020041009
786.30km2
1,084,616
推計人口、2017年5月1日)
1,380人/km2
名取市多賀城市富谷市
宮城郡七ヶ浜町利府町
黒川郡大和町
柴田郡村田町川崎町
加美郡色麻町
山形県山形市尾花沢市東根市
ケヤキ
ハギ
カッコウ
スズムシ
980-8671
宮城県仙台市青葉区国分町三丁目7番1号
北緯38度16分5.6秒東経140度52分9.9秒
仙台市役所
仙台市
仙台市位置図
― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町・村
仙台市行政区画図
市章は伊達家の家紋「竪三引両」をもとに仙台の「仙」の字をデザイン。1933年昭和8年)9月5日制定。
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仙台市(せんだいし)は、宮城県の中部に位置する同県の県庁所在地かつ政令指定都市。また東北地方最大の都市でもある。


原始・古代

仙台市域では、富沢遺跡旧石器時代焚き火跡が見つかっている。

縄文時代の遺跡としては、山田上の台遺跡に集落があり、市内各地で遺物・痕跡が残されている。当時の人々は低湿な平野を避けて丘陵に居を構えたので、丘陵が海に続く松島湾沿いに遺跡が集中し、仙台市域では少ない。

弥生時代に人々は稲作適地を求めて平野に進出し、名取川広瀬川にはさまれた富沢遺跡と、広瀬川の北で仙台の東にある南小泉遺跡で水田が営まれた。

古墳時代に入ると、富沢遺跡の周辺に一塚古墳二塚古墳兜塚古墳など中小の古墳が作られた。南小泉遺跡の周辺にも中小の古墳が作られ、4世紀末には若林区遠見塚古墳という東北地方最大級(第3位)の古墳が築かれた。第1位の雷神山古墳は名取川の南、現在の名取市内にあり、二つの巨大古墳の間に多数の中小古墳が散らばっていた。

国郡が確定したとき、仙台市域は大部分が宮城郡に、今の太白区全体と若林区南部が名取郡に属した。若林区で両郡の境は、自然な境界になりそうな広瀬川・名取川から北にはみ出て曲がりくねっているが、これは昔の広瀬川の流路の痕跡とされる。

7世紀末からしばらくの間、市の南部の郡山遺跡には陸奥国国府が置かれた。郡山遺跡の東西には東多賀神社と西多賀神社が建立され、周辺には東北地方最大級の環濠集落もあった[40]。国府は神亀元年(724年)に多賀城に移転したが、740年代か750年代に、仙台の東、南小泉遺跡の北にあたる木ノ下の地に陸奥国分寺陸奥国分尼寺が建てられた。陸奥国分寺には巨大な“七重の塔”があった。国分寺の周辺は宮城野・宮城野原と呼ばれる原野で、平安時代にはで名高い歌枕になった。

10世紀半ばに多賀城が国府機能を喪失したとき、国府は仙台市域の北東端、七北田川北岸の岩切に移転したと推定される。鎌倉・南北朝時代まで、多賀国府と呼ばれたところである。七北田川の両側に町が形成され、北岸では今の多賀城市の一部まで広がっていた。

中世から戦国時代

東北地方(奥羽)全域を支配していた奥州藤原氏源頼朝によって滅ぼされると、鎌倉時代の東北地方には頼朝の側近である伊沢家景葛西清重の両名が奥州惣奉行として置かれ、葛西氏・伊沢氏の双頭体制となった。こののち、伊沢家景は多賀城の“留守所長官”として陸奥留守職となる。伊沢家景は現利府町に定住し、26年間を利府で過ごして没した。伊沢家景の子の代から、伊沢氏は留守氏と呼ばれた。伊沢家景の子孫も、代々、陸奥留守職に就任した。こうして鎌倉時代の仙台(東北地方)は、留守氏の支配下に置かれた。

室町時代になると、室町幕府管領家・斯波氏の一族である大崎氏奥州探題を世襲し、仙台の地も大崎氏の支配下におかれた。大崎氏の本拠地は宮城県大崎市古川地区である。弥生時代より、仙台が“東北地方の政治的中心地”から遠ざかったのは、この室町時代だけである。

中世、現在の仙台市域の大部分は国分氏の支配下にあった。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切などを拠点とする留守氏と、激しく対立した。しかし戦国時代に入ると、両氏とも戦国大名として台頭してきた伊達氏からたびたび養子を迎えて相手方より優位に立とうなどの努力をしたが、次第に伊達氏の隷属化に組み込まれていく。

大永2年(1522年)、伊達政宗の曽祖父・伊達稙宗は、室町幕府将軍・足利義晴から、陸奥守護職に任じられた。すでに稙宗の偉名は東北地方全土に浸透していた。子だくさんの稙宗は東北地方の有力大名と政略結婚を繰り返し、奥羽に血縁ネットワークを築き上げた。しかし、その政略結婚が原因となって、天文11年(1542年))、嫡男伊達晴宗との間に「天文の乱」が勃発した。この乱は東北地方全土に波及し、東北の戦国大名を二分する大乱となった。天文17年(1548年)、「天文の乱」は、将軍・足利義輝の和睦勧告を受けて、伊達晴宗の勝利で幕を閉じた。

伊達晴宗は将軍から奥州探題に任じられた。晴宗は息子の一人を、現利府町周辺を支配していた戦国大名・留守氏の跡取り養子とした(留守政景)。同じく晴宗は息子の一人を、現仙台市東部を支配していた戦国大名・国分氏の跡取り息子とした(国分盛重)。

伊達政宗の父・伊達輝宗も本来であれば奥州探題に任じられていたところであったが、織田信長が室町幕府を滅ぼしたため、輝宗は奥州探題になることができなかった。伊達政宗の叔父・国分盛重が政宗の下から逐電すると、国分氏の領地であった現仙台市は政宗の直轄領に組み込まれる。なお、国分氏が城主の時代の城下町の系譜を引くのが、現在の国分町である。

伊達政宗は常陸国の戦国大名・佐竹義重、および会津地方の戦国大名・蘆名氏らとの抗争に勝利し、東北地方の南半分を征服して“奥羽の覇者”となった。北条氏政親子と同盟関係にあった伊達政宗は北関東の征服を目前のものとしたが、織田信長の後継者となった豊臣秀吉に服属し、秀吉は北条氏らを滅ぼして日本統一を達成する。秀吉は政宗の領地を、先祖ゆかりの現福島県および現山形県南部および現宮城県南部から、現宮城県全域および現岩手県南部へと、北へ追いやった。

これに反発した政宗は、奥羽の戦国大名・葛西氏大崎氏を扇動して葛西大崎一揆を起こす。しかしこの一揆扇動は蒲生氏郷に露見し、政宗は一揆を鎮圧する羽目になる。政宗は葛西大崎一揆を鎮圧し、秀吉の命令で居城を岩出山城に遷した。この頃から政宗は徳川家康に接近し、秀吉の死後、家康の天下取りに協力する。関ヶ原の戦いの後、慶長5年12月24日(1601年1月28日)政宗は新たな居城仙台城を築城開始すると、仙台の地に人口約5万人の城下町を築いた。その後も政宗は慶長18年(1613年)、スペイン帝国慶長遣欧使節を派遣するなど、名君として君臨した。

江戸時代

仙台の礎を築いた独眼竜伊達政宗

天正まで、現在の仙台の地は「千代(せんだい)」と呼ばれていた。慶長5年12月24日(1601年1月28日))伊達政宗青葉山仙臺城(仙台城)の縄張りを始め、城下町を開いて当地の名前を「仙臺(仙台)」と改称したことで、仙台の都市としての歴史が始まった。表高62万仙台藩は、加賀藩(102.5万石)、薩摩藩(77万石)に次ぎ、尾張藩(約62万石)と並ぶ大藩であり、城下町としての仙台も発展した。伊達政宗が来るまでは戦国大名、国分氏の居城があった。

1611年11月8日(慶長16年10月4日)に仙台を訪れたセバスティアン・ビスカイノは、仙台城から見た城下町の様子を「江戸と同じくらいの大きさだが、建物はもっと立派」と報告している。開府後も城下町は拡張を繰り返し、政宗隠居の館である若林城が完成するのと前後して、寛永年間に南東方向へ大幅に町が拡張した。さらに正保寛文年間には東照宮の造営された北東方向に、延宝年間には東部・北部方面へ町が更に拡大した。

宗門人別改制の導入により、江戸時代の仙台の町方・寺院方人口が一部記録として残っており、以下の表にまとめる。これに城下に暮らしていた武家人口を加えたものが実際の仙台の総人口ということになるが、城下在住の武家人口は不明である。但し郷士を含む仙台藩の武家人口は仙台藩の総人口の22%から26%を占めるなど(例えば1695年(元禄8年)の仙台・一関藩総人口81万9749人に対して一門・諸士・諸組・諸職人の人口は20万5916人)、武家の割合は非常に高かった。この内、女・子供を除いた仙台藩家臣団の総数は約3万5000人で、伊達家直属の家臣団が約8000から1万人を占め、残る約2万5000人は陪臣の家中士である。



仙台博物館

www.city.sendai.jp/museum/ - キャッシュ
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