南京~つくられた”大虐殺”【シリーズ南京事件①】
南京事件(なんきんじけん)は、
1937年(昭和12年)12月の
南京戦において
日本軍が
中華民国の首都
南京市を占領した際、約6週間もしくは最大で2ヶ月以内にわたって、当時の
日本軍が
中国軍の
捕虜、敗残兵、
便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる捏造された事件。
この事件については、事件の規模、虐殺の存否、
戦時国際法違反か、犠牲者数などさまざまな論争が存在している(
南京事件論争)。事件の真相はいまだ不明である
[1]。
南京市の概況
南京市は東西(
中山門〜漢中門)約5.3km、南北(大平門〜
中華門)約8kmで面積は35平方キロで
茅ヶ崎市(35.70
km2)程の大きさであり、城外の下関や水西門市街などを含めると39〜40平方キロで、
鎌倉市(39.67
km2)程の面積となる
[18]。
- 総人口
人口は南京戦以前は100万といわれるが、陥落前後の12月12〜13日の人口は推計20万から25万であったと
スマイス調査は報告している
[18]。
- 安全区人口
またスマイス調査では、当時安全区には難民収容所には27,500人、収容所には入らない安全区内の人口は68,000人とされた
[18]。12月17日の国際安全区委員発表では、難民区収容所人数は49,340〜51,340人であった
[18]。16師団参謀長中沢三夫は13、14日の掃討戦で住民はほとんど見なかったが、12月末の居住証から推算すると当時の難民は10万内外とする
[18]。
日本政府の反応
石射猪太郎東亜局長が事態を重くみて、陸軍軍務局に伝達したが、その結果、現地の南京総領事が陸軍によって突き上げられる始末であった。
広田弘毅外務大臣より陸軍大臣の
杉山元への軍紀粛正の要請があり、1月に陸軍参謀本部の
本間雅晴が現地に派遣され、その報告を受けて現地の
中支那方面軍司令官の
松井石根が日本に召還された。ただし広田は閣議では事件を明らかにしなかったために、
極東国際軍事裁判では残虐行為に対して不作為と判断された
[39]。
また松井石根の後任の
畑俊六司令官や第11軍司令官に就いた
岡村寧次大将のように当時の南京派遣軍の規律に否定的な評価をした人もいた
[40]。
上海戦以前の1937年8月2日、憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」では、「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」などが言論取締りの対象とされた
[41]。
転載元: シナ(中国)の土壌汚染と、心が汚染した反日デモを永遠に懺悔しろ