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[転載]南京事件の半年後、黄河決壊事件で活躍する日本軍

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 私は1937年(昭和12年、12月)南京で日本軍がおこなったのは虐殺や略奪、強姦ではなく南京市民の救出だったと思っている。(ただ、山田支隊の捕虜の殺害は5000人前後あったとは思う)

 日本人なのに旧日本軍が極悪人のあつまりのように思っている人達がいる。その人達には、その後に起きた黄河決壊事件で日本軍がなにをしたか中国軍が何をしてどんな発表をしたかを知って欲しいものです。行動だけみれば現在の自衛隊が過去にも存在していたように感じませんか?

1937年12月13日、南京陥落。
1938年6月9日、日本軍阻止の為、国民党軍によって黄河の堤防が決壊される。
水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある[

Wikiから抜粋。
 背景
国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」する案が程潜司令官に示され、蒋介石の承認を得た[4]

 堤防の破壊準備
 堤防破壊の準備作業は5月下旬から確認されており国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた

 洪水
 氾濫は河南省安徽省江蘇省にまたがる54,000平方km(ちなみに関東地方の面積は32,420 km²)の領域に及んだ。
水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われる[9][10]が被害の程度については諸説ある[

 日本軍の対応
 6月12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた[15]。この惨状の中で日本軍には犠牲者・被害共にほとんどなかった。
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被災地における日本軍の救助作業


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                日本軍に救助された避難民


 国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えた[5]ほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した(日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた中国軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった)[18]
 日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万であった。

中国側の虚偽発表
 中国国民党は当初から「黄河決壊事件は日本軍が引き起こしたものである」との発表を行っていた。6月11日午前、中国国民党の通信社であった中央社は「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。6月13日には全土の各メディアが「日本軍の暴挙」として喧伝した[19]
各国メディアはこの発表に対しては慎重な姿勢を示した[20][21]。また、日本側も中国側の発表を否定するコメントを出した

 中国側からは、最初は黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している中国軍を日本軍が砲撃及び爆撃した時になされたものであるとの説明がなされ[22]、後には事件は日本軍によって意図して行われたことであり、中牟と鄭州地区にある中国軍陣地への水攻めとし、かつ後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略であり、広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に中国民衆を威嚇する日本軍の作戦の一部とされた[24][21]
 
 さらに報告では日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は洪水の被害を受けた地区からの避難民を機関銃で銃撃していること[24]が説明された。

 日本側は「開封の堤防破壊は中国軍に強制された農民によるもの」との声明を出し[22]、日本軍は自軍の前進を妨げる洪水を引き起こすことはなく、また堤防の大きさを考慮すれば爆撃と砲撃によって堤防を破壊することは不可能だったと主張した[24]

ネコミ
>水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われる。氾濫は河南省安徽省江蘇省にまたがる54,000平方km(ちなみに日本の関東地方の面積は32,420 km²)

 南京大虐殺を問題にする人達はなぜ、黄河決壊の犯人を問題にしないのか?

 中国人を助ける日本軍、中国人を平気で殺す国民党軍。
 これが戦後、中国人やチベット、ウイグル人を平気で殺す中国共産党軍となるが、なぜ、旧日本軍を批判する人達は現在の中国共産党の批判はしないのか?

 黄河を決壊させた国民党軍はこの後。揚子江まで決壊させた。
 水の流れは大きく変わり、中国人民を苦しめることになった。
 こんどは黄河決壊から5年後、(1942年から1943年)。


他のブログから以下転載。
Wikipediaにはこう書かれている。
「劉震雲によれば1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、干ばつ、イナゴの発生、および湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した。…この状態が続けば河南省は全滅していたが、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り多くの軍糧を放出して多くの人々の命を救った。」

 そして、河南省の人々が中国軍に叛旗を翻し、日本軍に協力する者も少なくなかったという。
河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れない程だった
 
 1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行しはじめた。これは農民に耐え難いことであった。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取りあげはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した。推定では、河南の戦闘において数週間の内に、約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた。すべての農村において武装暴動が起きていた。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた。この結果30万の中国軍は全滅した。」

 なぜ、このことが教科書に載らないかというと戦勝国に都合が悪いからだってさ。

 では、音楽でもどうぞ。
 アランフェス協奏曲 Concierto de Aranjuez - Kaori Muraji 村治佳織  

転載元: あしたのネコミ


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