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[転載]波照間 燐

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グアノ

   
グアノ
ナウルのグアノ採掘跡地
グアノ (guano) とは、珊瑚礁に、海鳥死骸・エサのの殻などが長期間(数千年から数万年)堆積して化石化したものであり、肥料の資源として利用される。主要な産地は南米チリペルーエクアドル)やオセアニア諸国(ナウル等)である。グアノの語源はケチュア語の「糞」でスペイン語経由で英語に入った[1][2]

種類

グアノには「窒素質グアノ」と「燐酸質グアノ」の2種類がある。前者は降雨量・湿度の低い乾燥地帯に形成されたもので、多くの窒素鉱物を含有する。後者は熱帯亜熱帯など比較的降雨量・湿度の高い地域に形成され、長年の降雨によって窒素分が流出してリン酸分が濃縮されたものである。
いずれも近代化学工業(化学肥料)には欠かせぬものであり、領有する島嶼部に多量のグアノを有したペルーでは莫大な量が採掘されてヨーロッパに輸出された。この利益は一時的にペルーに好景気と社会インフラの発展をもたらしたが、資源の枯渇により経済の破綻を招いた。なお世界の窒素肥料の原料はその後チリ硝石、さらには20世紀初頭のドイツにおいて開発された化学的窒素固定へと変遷する。
燐酸質グアノはリン鉱石が発見されるまで、最も主要なリン資源であった。南洋の島々に多く、資源としては大量に存在するものではないため、かつての採掘地の多くはすでに掘り尽くされ、枯渇している。

歴史

かつては、グアノをめぐって戦争が起こった事(グアノ戦争、チリ対ボリビアの太平洋戦争)があった。

バット・グアノ

海鳥由来のグアノとは別に、洞窟内に生息するコウモリ・体毛、洞窟内の生物の死骸が堆積して化石化したものをバット・グアノと呼ぶ。量は大してないため観賞植物や自家菜園用の肥料として販売されている。

産出地(過去の産出地も含む)






波照間島の燐鉱採掘|波照間島コラムちゃんぷる~ - やいまねっと

jaima.net/modules/hateruma/index.php?content_id=3 - キャッシュ
燐鉱の島. 日本最南端の有人島で知られる波照間島だが、八重山では唯一、鉱石を 採掘した島でもある、鉱石の採掘は戦前の一時期、島の経済を潤し、地域活性化に 一役買った。 島の人たちは、「リンコウ」と言えば「燐鉱」を想起する。島の北部にある、 ...




採掘が本格化

 採掘許可は1933年(昭和8)11月に恒藤規隆氏が受け、1935年(昭和10)6月には塩谷栄二氏が受けて、両者による燐鉱採掘が始まった、採掘面積は塩谷氏の場合、16万坪と広大である。
 同氏に関しては試掘調査後の1934年(昭和9)4月以降、朝日化学肥料株式会社との間で採掘協定が締結され、朝日化学肥料(株)が採掘に乗り出すことになった。
 同社の佐古田政太郎社長は、1934年(同9)7月9日に波照間島を訪れ、採掘の状況を視察している。朝日化学肥料(株)と同様に採掘に着手することになった恒藤氏は、燐鉱の本格的な採掘に際し次のように語る。
 「波照間の燐鉱はとてもいい、含燐歩合からいふと質のよい硬度燐と中度燐、下等燐の3段に分かれているが、燐層も相当豊富らしく波照間の全面積30万坪の間に点々と埋蔵されている。今後、何年分の燐があるか、これからまだ掘り下げて調査してみなければ分からないが、質のいい燐が可なりあるといふことだけは言へる」と太鼓判を押す。




時代は大きく戻ります。波照間では戦前の一時期、2箇所で燐の採掘が行われていました。
東北部の鉱山は、港から製糖工場のほうに抜ける道の途中、一周道路との交差点の辺りにあったそうです。西北部の鉱山の跡は今でも見ることができます。「ぶりぶち公園」の入り口にある池に気付く人は結構多いでしょうが、その池の水が湧き出している崖を注意して見ている人は少ないのではないでしょうか。そこには半分以上を石積みで隠しているものの、ぽっかりと開いた坑道の入り口があります。
波照間で燐鉱山が発見されたのは1921年頃で、1933年から本格的な採掘事業が始まりました。島の東北部と西北部で2つの会社が採掘を行い、肥料や薬品製造の原料として尼崎方面に出荷されたそうです。採掘は1939年頃には最盛期を迎え、島内外から集まった200名ほどの作業員が働いていました。そして島はにわか景気に沸いた、といいます。
しかし、太平洋戦争が始まって輸送手段が無くなると、採掘は中止に追い込まれ、1943年には採掘会社は廃業。採掘された鉱石の半分は放置されたまま会社は引き揚げてしまいました。残った鉱石は島の道路に砂利として敷かれ、雨が降る度、その養分が土壌に溶け出し、農地の土壌を豊かにしたそうです。
八重山に行くと、よく、波照間産の黒糖が八重山で一番美味しいと聞きますが、訳はサトウキビが育つ島の土壌にあるといいます。波照間は島全体の土壌に燐の成分が含まれているため、養分が豊富であるというのです。それはおそらくこのことを指していたのだと思われます。
ぶりぶち公園の鉱山跡の湧水は島の簡易水道の水源としても使われていたようです。現在では波照間製糖の管轄下に置かれているということで、製糖工場の作業に使われているようです。
このように、「ぶりぶち公園」一帯は4000年の昔から現在に至るまで、島の歴史に深く係わり続けている地域なのです。
www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/.../detail.php?... - キャッシュ
波照間鑛發見:紙面画像. 1921/03/01 八重山新報 第4面 紙面画像 現代仮名遣い テキスト 旧仮名遣いテキスト. 波照間鑛發見 紙面画像. 波照間に燐鉱発見八重山 新報 大正十年三月一日 本郡波照間島字西留に燐鉱あるを発見し、東京市芝区内田眞  ...
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ameotoko.cocolog-nifty.com/note/2008/07/1_fed7.html
鉱石採掘事業の詳細とレールに関する写真は「八重山歴史読本」(南山舎)の「波照間島の燐鉱採掘」か、そのほぼ全文を掲載していると思われる以下のURLの記事を参照し ていただくとして、私の興味の焦点は、やはり当然の事ながら、この" ...



      ■島が一番賑わった頃
波照間島で島が一番賑わったのは、1935-1945年ごろである。燐鉱石の採掘の採掘がはじまり、カツオ漁が盛んになったころが一番島が豊であったと言われている。
そのころは、降雨量も何故だか多く、豊作に恵まれ、農産物も豊だったという。


■燐鉱石の採掘
1933年から燐鉱の採掘が栄えた。この頃、島は燐採掘でにぎわい、宮古、本島などから多くの人が出稼ぎ労働者として来島したという。
今まで、島の人たちは、農業や近隣の漁業でしか収入を得ていなかった。しかし、同時期に栄えたカツオ漁とともに、燐鉱の採掘業のおかげで、島は大変豊かになった。
島の若者たちは、夏はカツオ漁。カツオ漁の終わった冬は燐鉱採掘場で働いた。最盛期には作業員は200名ほどいた。
また、波照間島の人口は急増し、1931年に1283人であったのに対し、燐鉱採掘が最盛期を迎えた1939年には1422人を超えている。
何故、波照間島で燐鉱がとれたのか。それは、波照間島は鳥が多く、長い年月をかけ、鳥の糞尿が石灰岩石に堆積し変化して燐鉱石になったものといわれている。
燐鉱石の採掘は波照間島の北部と、北西部の2ヶ所で行われていた。


しかし、1941年。太平洋戦争が始まると、沖合には米軍の艦隊や潜水艦が現れるようになると、燐鉱の島外への搬送が難しくなった。掘り出された燐鉱が積み上げられたままになり、1943年採掘場は廃止となった。積み残された燐鉱石は、道路を補修するのに使われていたという。

転載元: 沖縄県風土記等を読みませんか


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