第一次日本侵攻までの経緯
モンゴル帝国の高麗併合
- 1260年、モンゴル帝国の第5代皇帝(大カアン)に即位した後の大元大モンゴル国の皇帝クビライ・カアンは、これまでの高麗への武力征圧策を懐柔策へと方針を変更する。高麗への懐柔策の採用は、日本侵攻に高麗を協力させるためだったとされる。
モンゴル帝国の樺太侵攻
詳細は「モンゴルの樺太侵攻」を参照
- 1264年、アムール川下流域から樺太にかけて居住し、すでにモンゴル帝国に服属していたギリヤーク(ニヴフ)族の吉里迷(ギレミ)がアイヌ族の骨嵬(クイ)の侵入をモンゴル帝国に訴えたため、モンゴル帝国が骨嵬(クイ)を攻撃している。
- 1284年、元朝は前回の侵攻から約20年を経て再び骨嵬(クイ)への攻撃を再開した[47]。元による樺太への渡海侵攻は数度に亘って行われ、1285年と1286年には約10,000の軍勢を骨嵬(クイ)に派遣している[48][49]。
以後、アイヌは樺太に散発的にしか侵入することが出来なくなった。なお、樺太最南端には、アイヌの施設であるチャシとは異なる方形土城として、土塁の遺構がある白主土城(しらぬしどじょう)があり、これが果夥(クオフオ)であったと思われる。
日本侵略の発端
「サパング(ジパング、日本国)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から1500マイル(約2,250㎞)離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。
島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も2ドワ(約4㎝)の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。
また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。
さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した。将軍の一人はアバタン(阿剌罕(アラカン))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」
また、南宋遺臣の鄭思肖も「元賊は、その豊かさを聞き、(使節を派遣したものの)倭の主が来臣しないのを怒り、土(南宋)の民力をつくし舟艦を用意して、往きて攻める」[56]と述べており、クビライが日本の豊かさを聞いたことを日本招諭の発端としている。
他方、クビライによる日本招諭は、対南宋攻略の一環であったという説もある。モンゴル帝国は海軍を十分に持っていなかったため、海上ルートを確保するためもあったという見解である。ただし、クビライは日本へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」と明言し、高麗の造船により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」と述べるなど、南宋征服と同様に日本征服を自らの悲願とする意志を表明している。
第一次日本侵攻計画
洪茶丘は監督造船軍民総管に任命され、造船の総指揮に当たり、工匠・人夫30,500人余りを動員した。洪茶丘の督促により高麗の民は「期限急迫して、疾(はや)きこと雷電の如し。民、甚(はなは)だ之に苦しむ」といった様相であったという。
・同年5月、元から派遣された日本侵攻の主力軍15,000人が高麗に到着した。
・同年同月、クビライは娘の公主・忽都魯掲里迷失(クトゥルクケルミシュ)を高麗国王・元宗の子の王世子・(しん、後の忠烈王)に嫁がせ、日本侵攻を前にして元と高麗の関係をより強固にする。その直後の7月には高麗国王・元宗が死去し、8月に王世子・が新たに第25代高麗国王・忠烈王として即位した。
・同年6月、高麗は元に使者を派遣し、戦艦300艘の造船を完了させ、軍船大小900艘を揃えて高麗の金州に回漕したことを報告する。
異国警固体制
詳細は「異国警固番役」を参照
- 1271年、北条時宗は鎮西に所領を持つ東国御家人に鎮西に赴いて、守護の指揮のもと蒙古襲来に備えさせ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた。当時の御家人は本拠地の所領を中心に遠隔地にも所領を持っている場合があり、そのため、モンゴル帝国が襲来すれば戦場となる鎮西に所領を持つ東国御家人に異国警固をさせることを目的として鎮西への下向を命じたのであった。これがきっかけとなり、鎮西に赴いた東国御家人は漸次九州に土着していくこととなる。九州に土着した東国御家人には肥前の小城に所領を持つ千葉氏などがおり、下向した千葉頼胤は肥前千葉氏の祖となっている。
- 同年7月、高麗の金州において、慶尚道安撫使・曹子一と諜報活動を行っていたと思われる日本船とが通じていた[123]。曹子一は元に発覚することを恐れて、密かに日本船を退去させたが、高麗軍民総管・洪茶丘はこれを聞き、直ちに曹子一を捕らえると、クビライに「高麗が日本と通じています」と奏上した。高麗国王・元宗は張暐を派遣してクビライに対して曹子一の無実を訴え解放を求めたものの、結局、曹子一は洪茶丘の厳しい取調べの末に処刑された。
- 1273年(文永10年・至元10年)11月、幕命を受けた少弐資能は、戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発した。
世界帝国を目指したモンゴル帝国皇帝の「新・世界計画」とは
─世界帝国・集団的自衛権・憲法9条を問う─
モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハーンの孫にして、日本の鎌倉時代に2度に渡って「元寇」を仕掛けたフビライ・ハーン。世界帝国を目指したその動きは、現在の中国の野心を彷彿とさせるものがある。
フビライの霊に、日中関係や日本の国防について尋ねたところ、恐るべき“世界計画"が明らかになった。
日本はすでに独立国ではない
招霊されたフビライの霊は、「日本は虫けら以下」「日本はすでに国ではない。アメリカか中国の一部に入るかどちらかしかない」と、元寇で返り討ちにあった悔しさからか、日本への敵意をむき出しにした。
自らを神と称するフビライは、「世界はもともと全部わしのもの」「中国もアメリカもわしのもの」と高圧的な態度で語った。2回の元寇で失敗した仕返しとして、先の大戦時にはルーズベルト大統領としてアメリカに生まれ、日本に原爆を2発落とす計画を立てたこともほのめかした。
現在日本を取り巻く状況は、元寇や第二次世界大戦時よりも緊迫している。中国は、南シナ海にあるフィリピンやベトナムが領有権を主張している離島を実効支配し、日本の領土である尖閣諸島や沖縄も狙っている。同盟国であるはずのアメリカも、国債を買い支えてもらっている中国にはハッキリとものが言えない状態だ。
こうした中、憲法9条改正や集団的自衛権の行使容認の決断は待ったなしだが、フビライ・ハーンの霊は、「中国、韓国、アメリカの三国で日本を降伏させる計画が進んでいる」として、日本の国防強化は、追い詰められたネズミが、猫の鼻を引っ掻くようなものだとあざ笑った。
フビライは現代の中国に生まれている
フビライの霊は、自らが旧約聖書に出てくるヤハウェと名乗り、恐怖によって人類を支配する存在だとした。さらにフビライは現代の中国に転生し、ポスト習近平を狙って準備を始めているという。
習氏はチンギス・ハーンの生まれ変わりであることが分かっている。歴史を踏まえれば、フビライの世代には、さらに中国が世界征服計画を拡大させることになるだろうし、米中が手を組むシナリオも十分考えられる。
日米関係は引き続き維持すべきだが、「アメリカに頼っていれば日本の安全が守れる」という考えは甘い。中国の覇権主義に対抗すべく、「自分の国は自分で守る」姿勢を早急に確立せねばならない。
※本霊言を踏まえ、「ポスト習近平」を狙う中国の指導者についてこちらで解説。