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[転載]ペルシャ断想

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2月ほど前に、「奈良時代の平城京跡からペルシャ人の役人が居たことを示す木簡が見つかった」とのニュースが流れた。ペルシャを意味する「破斯」(はし)の文字が確認されたという。これは日本古代史ファンとしては第一級の発見である。
 
平城京はそもそも唐の都の西安をモデルにして作られた都であり、特に聖武天皇はヤマトの国際化を目指していた。だから外国人の往来があってもおかしくないのだが、当時はどちらかと言うと遣唐使のように出かけるケースが多かった。だから外人それも中国より遠いペルシャの人が日本で役人として定住していたという事実は、なかなかの広大なロマンである。
 
ペルシャは今のイランにあった国で、文明としてはメディア王国、アケメネス朝、アルサケス朝、ササン朝と続いた。このうちアケメネス朝は現在世界遺産となっているペルセポリスを首都とし、マケドニアのアレキサンダー大王によって滅ぼされている。またササン朝は7世紀半ばに、アラブに勃興した異教徒のイスラム勢力によって滅ぼされた。この時に相当のペルシャ人が国外に逃亡したことは想像に難くなく、その子孫が約1世紀後に奈良にまで至ったのであろう。シルクロードを、三蔵玄奘とは逆の道ではるばる渡来したことになる。
 
ペルシャ人は本来インド・ヨーロッパ人の支族のインド・イラン人の内のイラン系で、実はその活動範囲は今一般に知られているより広い。そもそもシルクロードの担い手の一つでもあったし、古くは紀元前8~3世紀に南スラブに勃興したスキタイ人も、安禄山はじめ中国に多く居た商人に多いソグド人も、最近グルジア紛争を起こしたオセチア人も、さらに仏僧の高僧の鳩摩羅什(くまらじゅう)を出したキジ国も全部ペルシャ系である。楼蘭(ろうらん)から出土した女性ミーラも明らかにペルシャ系だ。
 
平安時代に源氏物語とほぼ同時代に書かれてかぐや姫伝承のひな型になったといわれる「宇津保物語」にも、主人公の先祖がペルシャからこの上なく良い響きのする琴を持ち帰ったというエピソードが入っている。また正倉院御物にもペルシャ起源のものが結構あり、瑠璃杯はとくに有名なほか螺鈿琵琶なども残っている。
 
だからおそらく渡来くらいはあったとは思うものの、あたかも遣唐使の阿倍仲麻呂が唐の皇帝に仕えて安南都護府の長官になった如くに、日本の官人として定住していたほどに深い交流があったことは特質すべきである。願わくは彼の肖像とか個人史などがあるともっと面白いのだが、さすがにこれらについては歴史のかなたに忘れられて永遠に掘り出せないだろう。
 
そもそもペルシャ人は世界宗教であったゾロアスター(ツァラツストラ)教と、その聖典であるゼント・アヴェスタを生み出した民族である。ゾロアスター教は世界史の展開を善神アフラ・マズダと悪神アーリマンの永遠の戦いと解釈した宗教で、マニ教やミトラ教さらにはキリスト教にも多大の影響を与えた、いわば知恵の原点であり宝庫である。ちなみに米国映画の「スターウォーズ」もそのテーマは善と悪の永遠の戦いであり、何やら影響を感じさせる。
 
このように誇り高いペルシャ人だが、イスラムによる征服以降は基本的に後発のイスラム教の影響下にあり、40年前にホメイニ革命があってイスラム原理主義国になったことは周知の通りだ。国民性は基本的に親日である。バブルのころは大量に違法労働で入国して、上野公園は彼らでいっぱいになったこともあった。
 
イスラムによる征服とセルジューク朝の成立からは時代が下るが、17世紀前半にロシア人コザックのステパン・ラージンはカスピ海を経由してペルシャに侵入して略奪を繰り返した。当時のペルシャを支配していたのは、やはりイスラム系のサファヴィー朝である。日本でも有名な歌の「ステンカ・ラージン」の歌詞によると、ラージンはペルシャの姫をさらったが部下たちの「俺たちの命で外国の女を買うのか」と言うつぶやきに押されてその姫を生きたまま川に投げ込んだという。今となってはこの姫の名前や系図等細かいことは、知る由もない。
 
話を日本古代史に戻すと、やはり数年前に歴史から忘れられていた日本人遣唐使で中国皇帝に仕えた井真成(いのまさなり、せいしんせい)なる人物の死を惜しむ碑文が中国で見つかり、その真偽も含めて大きな話題となったことがあった。日本側には裏付ける資料が存在しないが、碑文によるとその才能ある人物の若い死に当時の皇帝が嘆いたと書いてある。先のペルシャ人とは逆のケースだが、古代史の面白さはこういう意外な発見とその推測にある。
 
意外な発見と言えばやはり数年前の日本で、廃棄物処分場から焼却寸前の大黒屋光太夫の直筆文書が見つかったことがあった。光太夫は紀州の漁民で、難破してロシアにたどり着き当時のエカチェリーナ女帝と面会の上に帰国した人物である。その文書は廃棄されたふすまの間に挟まっていてその端が少し覗いている状態だったが、そこにたまたま光太夫の専門家が通りかかってすんでのところで救済したのだという。なんともレアな偶然でこれも歴史ファンとしては興奮に値するが、言い換えればこういうラッキーがなくて実は廃棄されている貴重文書がその何十倍もあるということだ。
 
本日はペルシャ人の発見から始めて、連想の行くままに色々を書き綴ってきた。これは学問的見地からは単に雑学であって価値は低いのだが、本人は書いていて面白かった。かつて私はウォーキングが趣味だった関係で、関東の色々な町や駅の特徴について多くの断片的な知識を持っている。これらも断片的である以上は価値の低い雑知識に過ぎないが、なぜか私はこれらを思い出して連想するのが楽しい。そして本日徒然なるままに書いてきて、その楽しい理由は町や駅等の特徴について自分なりに繋がりと言うかメロディを持っているというだと思えてきた。
 

転載元: アナログでいこうよ


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