エルサレムの歴史12(オスマン朝トルコの台頭)
高校講座 世界史 エルサレムの歴史12(オスマン朝トルコの台頭)
エルサレム
十字軍
1099年にエルサレム王国を成立させた。ムスリムやユダヤ人はエルサレムへの居住を禁止され、エルサレムはキリスト教徒の町となった。しかし、12世紀後半にアイユーブ朝のスルタンサラーフッディーンがエルサレムを奪回し、再びイスラーム勢力の支配下に入った。このときカトリックは追放されたものの、正教会やユダヤ人の居住は許可された。
シオニズム
19世紀後半にはいるとヨーロッパでシオニズムが高まりを見せ、パレスチナへのユダヤ人の移住が急増した。中でも特に移住者が多かったのは聖都エルサレムであり、19世紀後半にはエルサレムではユダヤ人が多数派を占めるようになっていた。
1892年には海岸部より鉄道が開通し、人口はさらに増加した。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、この地方は国際連盟によってイギリス委任統治領パレスチナとなり、エルサレムにその首都が置かれた。このことでエルサレムの政治的重要性がさらに増す一方で、委任統治領政府はエルサレムの近代化に力を入れ、1925年にはヘブライ大学も開学した。
イスラエル建国
第二次世界大戦後の1947年に国際連合のパレスチナ分割決議において、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを永久信託統治とする案を決議した際に、この決議を元にイスラエルが独立宣言をするが、直後に第一次中東戦争が勃発。
1949年の休戦協定により西エルサレムはイスラエルが、旧市街を含め東エルサレムをヨルダンが統治することになり、エルサレムは東西に分断された。1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)を経て、ヨルダンが統治していた東エルサレムは現在イスラエルの実効支配にある。
イスラエルは東エルサレムの統合を主張しており、また、第三次中東戦争による「再統合」を祝う「エルサレムの日」を設けている(ユダヤ暦からの換算になるため、グレゴリオ暦では毎年変動がある。2010年は5月12日が「エルサレムの日」であった)。
イスラエルは東エルサレムの実効支配を既成事実化するため、ユダヤ人入植[3]を精力的に進めており、2010年現在で入植者は20万人を超える。アメリカ合衆国は二大政党である民主党と共和党が綱領でエルサレムをイスラエルの首都と認めているが、バイデン副大統領がパレスチナ・イスラエル問題でイスラエルを訪問中の2010年3月9日、新たに1600戸の入植を発表したことに反発し、クリントン米国務長官は「(米国にとって)侮辱的だ」と異例の厳しい表現で批判した[4]。
オスマン帝国の最盛期
詳細は「セリム1世」を参照
バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していた[51]セリムが、セリム1世として、1512年に即位した[52]。セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた。東部アナトリアでは白羊朝の後をサファヴィー朝が襲っていた。
1514年、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、1517年にはオスマン・マムルーク戦争 (1516年 - 1517年)でエジプトのマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した[53]。
このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである[54][55][56]。
詳細は「スレイマン1世」を参照
ペルシア湾・インド洋方面
ポルトガル・マムルーク海戦(1505年 - 1517年)では、1507年にポルトガル海上帝国がホルムズ占領に成功。1509年にディーウでインド洋の制海権を巡るディーウ沖海戦でグジャラート・スルターン朝、マムルーク朝、カリカット領主ザモリン、オスマン帝国の連合艦隊を破った。
ロバート・シャーリーに率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、1622年のホルムズ占領で、イングランド・ペルシア連合軍がホルムズ島を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。