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[転載]アイヌとアテルイ

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 日本の特に東北地方には、古来アイヌ民族が住んでいた。狩猟を中心とするアニミズム信仰の人々で、部族単位の集団生活をしていたと言われている。そしてアイヌの居住地は、今の日本つまり東北や北海道に限らずに、もちろん方言程度の違いはあるものの、樺太や千島、さらには樺太や沿海州にも分布していて、そちらの方で靺鞨(まつかつ)や粛慎(みしはせ)と言ったツングース系の人々と接して、交易もしていたと言われている。
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アイヌの人々は従来から、主として形質学的分類に依り、むしろ九州の熊襲(くまそ)等の人々と近いのではないかと言われていた。一種のスプロール現象である。この点は、最近のDNA分析でも裏付けられつつある。DNA分析によると、アイヌや熊襲等の人々は「古モンゴロイド系」に分類され、まだ日本が大陸と陸続きであった2万年くらい前に日本に移住してきた民族だと言われている。

 

そしてその薄く広い分布の上に、4千年くらい前から「新モンゴロイド」と言われる人々が、稲作と鉄器と馬術と言う近代文明を携えて渡って来て、その高度な文明に依り支配階級となり数も増えていった。ちなみに古モンゴロイドとしては、チベット人とも親近性が高いことが知られている。なぜ彼らが共通かと言うと、彼らは狩猟や牧畜を主とするために山谷のような「辺境」の地に居住していたために、農耕を主とし平野を好む新モンゴロイドにとって代わられなかった点が挙げられる。

 

古モンゴロイドと新モンゴロイドのプロトタイプは下図のようで、古モンゴロイドの方が丸顔で毛深く、新モンゴロイドの方が面長で毛が薄いと言われている。ただし現在では混血が進んでいて、このようなプロトタイプでは見分けができず、究極的には「自分のことをアイヌだと認識している人々がアイヌ人」とするのが適切である。ただ、旧貴族階級に弥生人型の顔つきの人が多いのは目に付く。

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ではそのアイヌの人々はなぜ段々に北方に追いやられていったのか。そう言う行為が始まったのは大和朝廷が中央集権化した5~6世紀ごろに始まり、奈良時代から平安時代初期に著しい。このころは文献が少ない時代であるが、日本書記の最後の部分に多少の記述が見え始め、多くの記述は続日本紀や風土記等に残されている。但しあくまでもヤマト側から見た記述である。そして平安初期の征夷大将軍の坂上田村麻呂が特に突出して知られているために、あたかも「和人はアイヌを一撃で撃滅させた」かに見えてしまう。
 
だが実際は交易に始まり、稲作の伝播や仏教の伝播もあり、また平和裏の定住と和民化も多く、戦闘中心と言う訳でもなければ和人が連戦連勝だった訳でもなかった。また当時の東北は、「この線から先はアイヌの地」と単純に仕切られるものでなく、和人とアイヌがさもフラクタルのように交互しながらあるいは飛び地的に領地を占めていた。この辺の経緯は、米国の原住民いわゆるインデアンと征服民である欧州系とのやりとりと似ているところもある。
 
ただ結果として、和人とアイヌは拮抗並行していた訳ではなく、全般的に和人が支配地を広げていく歴史であった。そしてここには2つの要因が見て取れる。第1に文化の落差である。どうしても文明の高い方が攻めても勝ちやすいし、そう言う高い文化へのあこがれから自ら和人化する傾向もあった。そして第2に大和朝廷の拡張的性格である。大和朝廷が近畿地方に出来て以来、周辺民族は次々と彼らに従っていったが、それはアイヌだけでなく、出雲の国譲りもあるし関東東海地方も豪族がいつの間にか大和化して古墳を誇るようになっていった歴史がある。また、文化の高低であるが、本来は「アニミズムだから低い」と言うことは無いのであるが、ここは生産性や武器の強さの意味で言及している。
 
ではなぜヤマトがこれほどに拡張的であったのだろうか。そもそも拡張的性格があったからひたすら支配地域を広げていったのであり、もしなければより拡張性の高い民族に吸収されていたのであろうが、ここはやはり文化の差が大きいであろう。ヤマトには記紀神話と言う精巧な民族神話と、稲作や鉄器と言った固有文化、それに当時先進だった中国の諸制度や文化を取り入れようとする先取の精神があった。これらが全体としてヤマトを、拡大に意欲的な、好戦的征服的な民族としたのであろう。
 
ところで奈良時代に最も高揚して平安初期にほぼ目的を達成した、ヤマトによるアイヌの臣民化であるが、先ず、寒冷の地である東北地方をヤマトはなぜ執拗に欲したのであろうか。接触の最初はおそらく船による交易だっただろう。このころでも陸地よりは海上交通の方が普遍的であったのは、ヤマトタケルが進んだ古東海道が今と違って相模から安房に船で抜ける道であったことにも如実に表れている。船による交易で和人はアイヌから、昆布や海産物等を始めとする山海珍味を得ていた。だがその内に金鉱と砂鉄が見つかり更に良い馬を生産することが分かり、その現世利益は決定的になった。また、当時のヤマト朝廷は、現在の沿海州に勃興した渤海と定期的交流を持っており、東北はその渤海への窓口でもあった。
 
奈良時代にヤマトのアイヌに対する姿勢は、交易から次第に攻撃に移っていく。と言っても最初のうちはヤマトの連戦連敗であった。ヤマトは大人数の農民の徴用による大軍で攻めたが、所詮は寄せ集め部隊であり、地の利を知るアイヌの人々の遊撃戦に勝てなかった。ただアイヌの方も部族単位で民族全体としてのまとまりは薄いと言う弱点はあった。こうして奈良時代は終わり平安遷都になると、桓武天皇は平安京の威信を内外に示すためにも、アイヌ攻略に力を入れることとなり、猛将の坂上田村麻呂に大軍をつけて送った。
 
そしてそれ以前からヤマトを駆逐し最後に田村麻呂と対峙したのが、アイヌの英雄のアテルイである。アテルイについては高橋克彦さんの小説もあり、この小説を元にして2年前に大沢たかおさん主演でNHKの連続番組として放映されたので、知っている人も多いと思う。アイヌ部族をまとめて大連合を作り、ヤマトの理不尽な征服戦略に立ち向かった懐の深い人物である。ただアイヌは文字を持たなかったので、アテルイに関する記述は少ない上に、すべてヤマト側からの視点である。ここに素朴に暮らす人々の現代の世界標準における構造的不利がある。なお高橋さんの小説も、史実よりも多分に当時の文化を元にしたエピソードを挿入してある。
 
ただアテルイで不思議なのは、20年にもわたってヤマトと対峙してきたアテルイが、どうも田村麻呂とはあまり戦わずに、余裕のあるうちに投降していることだ。この点には色々な説があって、アイヌが長い戦いで相当に消耗していたとか、裏切り者が居て調略されたとか、果ては田村麻呂の人物に感じ入ったとの説もある。いずれにしろこの2英雄の対峙は、従来史では田村麻呂の圧勝のように書かれているが、実際は命を覚悟で投降したアテルイの方がよっぽど器が大きいと思う。そしてアテルイは都に移送され、田村麻呂は朝廷に彼の命乞いを上奏したが、受け入れられずにアテルイ達は斬刑に処せられてしまう。ヤマト中央の政争に巻き込まれた形である。
 
アイヌと和人の交流、これには難しい過去があるが、我々は一方的な皇国史観にイデオロギー的に流されることなく、自らの立場に於いて雄々しく立ちあがったアテルイやシャクシャインと言った人々を、敵ながらあっぱれと誉める余裕を持ちたいものだ。ちなみに帰朝後田村麻呂は清水寺を勧請したが、その敷地内にはアテルイの顕彰碑が立っている。
 

(注:新野直吉著「田村麻呂と阿弖流為」も参照しました)

 

転載元: アナログでいこうよ


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