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[転載]尖閣諸島の領有をめぐる論点―日中両国の見解を中心に―

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尖閣諸島の領有をめぐる論点―日中両国の見解を中心に―

はじめに
Ⅰ 領土の帰属に関する国際法
 1 先占の理論
 2 判例における権原維持の重視
 3 決定的期日(critical date)
Ⅱ 領土編入以前
 1 「海上防衛区域」
 2 「中国の台湾の付属島嶼」
 3 琉球と中国との境界
Ⅲ 日本への領土編入
 1 領土編入の閣議決定
 2 下関条約との関係
 3 編入以降の実効的支配
Ⅳ 第二次世界大戦後の地位
 1 戦後の領土処理
 2 関係国の態度
おわりに


 1971(昭和46)年以降、中国政府は、尖閣諸島は明代より中国の領土であった、
などとして、同諸島に対する領有権を主張している。他方、日本政府は、同諸島
の領有権問題の存在自体を認めていない。

 本稿は、尖閣諸島の領有権をめぐる両国の見解を比較し、検討を加えたもので
ある。主な論点は、
①1895(明治28)年に日本の領土に編入されるまで、同諸島は無主の地であったのか、それとも中国の領土であったのか、
②閣議決定による日本の領土編入は有効に行なわれたのか、
③領土編入以降、日本は同諸島に対して継続的かつ平穏に主権を行使しているか、に大別される。
 特に、継続的かつ平穏な主権の行使の有無は、領土の帰属をめぐる過去の国際裁判においても、重視されている。

Ⅱ 領土編入以前
 中国は、「はやくも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域のなかに含まれており、それは・・・中国の台湾の付属島嶼であった。中国と琉球とのこの地区における境界線は、赤尾嶼と久米島とのあいだにある」と主張する10。以下では、尖閣諸島が歴史的に
中国の領土であったことの根拠とされる文献を挙げ、その妥当性を検討したい。

1 「海上防衛区域」
 1560 年代、華中・華南地方沿岸を中心に倭寇が猛威をふるい、明朝に対する重大な脅威となっていた11。このため、海上防衛区域が設定されていたようであり、中国は、当該区域に尖閣諸島が含まれていたという。
 その根拠としてよく挙げられるのが『籌海図編(ちゅうかいずへん)』(1562 年刊と推定12)である。
 同書の巻一「沿海山沙図(えんかいさんさず)」福七、福八には、福建省羅源県・寧徳県の沿海の島々が描かれ、それには、雞籠山、彭化山、釣魚嶼、化瓶山、黄毛山、橄欖山、赤嶼など、尖閣諸島に連なる島嶼が含まれている、というのである13。
 しかし、同じ『籌海図編』でも、巻四の中の「福建沿海総図」には、尖閣諸島はおろか、台湾や基隆嶼、彭佳嶼すら描かれていない。
 『籌海図編』が編纂された時期、明は本土沿岸の防衛にも汲々とする有様で、その防衛力は澎湖島にさえ及んでいなかった。よって、「沿海山沙図」に尖閣諸島が描かれた意図は、これらの島嶼が、倭寇が襲来する際の進路にあたり、本土防衛上注意すべき区域であることを示すにとどまる、との指摘がなされている14。

2 「中国の台湾の付属島嶼」
(1)明代
 次に、尖閣諸島は「中国の台湾の付属島嶼」であろうか。
 尖閣諸島が台湾の付属島嶼であるとの説は、『日本一鑑』(1556 年)の中の、魚釣島についての記述、「小東(台湾を指すとされる。)小嶼也」が根拠の一つとなっている。

 しかし、当時の中国は、台湾を統治しておらず、統治の意思もなかった。例えば、明の正史である『明史』では、台湾は東蕃として「外国列伝」に入れられ、台湾北部の雞籠山も「外国列伝」に含められている15。
 仮に、尖閣諸島が台湾の付属島嶼であったとしても、
台湾が中国の領土でなければ、同諸島が中国に属することの証明にはならない。これに加えて、『日本一鑑』が著された時代、台湾に統一的な政府が存在していなかったことを鑑みれば、「小東小嶼也」は、魚釣島が、政治的にではなく、地理的に台湾付近にあるとの意味であったと考えられる16。

(2)清代
 台湾は、1684 年に清の領土に編入された17。このとき、尖閣諸島も台湾の付属島嶼として、清に組み込まれたのであろうか。
 清朝政府が編集した『福建通志』(1684 年)、『重纂福建通志』(1838 年)を見ると、尖閣諸島が当時の福建省の行政範囲に含まれていなかったことは明らかなようである。
 いずれの通志においても、尖閣諸島に関する記述や地図上の描写は発見されない18。
 また、中国編入以降の台湾府志でも、台湾府の北端は雞籠嶼とされ、花瓶嶼、棉花嶼、彭佳嶼すら、台湾の行政範囲には含まれていない。とすれば、これら3 島よりも、台湾から遠方に位置する尖閣諸島が、清朝統治下の台湾省の範囲に含められていなかったことは当然である、とされる19。

(3)林子平の『三国通覧図説』
 江戸時代の経世家、林子平が著した『三国通覧図説』(1786(天明6)年)の付図「琉球三省并三十六島之図」は、色刷りの地図である。ここで、九州などが緑色、琉球王国領は薄茶色であるのに対し、尖閣諸島が中国と同じ桜色で塗られていることが、尖閣諸島が中国領であることを、日本人も認めていた証拠として挙げられることがある20。
 しかし、この地図は、台湾が正式に中国に編入されて以降に作成されたにもかかわらず、台湾を中国とは異なる黄色に塗り、その大きさを沖縄本島の3 分の1 に描くなど、不正確な点も多い。そもそも『三国通覧図説』は、林子平が私人の立場で書いたもので、日本の政府の意思を反映したものではない。
 このような理由から、同書を尖閣諸島が中国領であることの法的証拠として採用することはできない、といわれる21。


3 琉球と中国との境界
(1)『冊封使録』
 1372 年から1879 年まで、琉球国と中国は、朝貢・冊封関係にあり、琉球と福州との間で、朝貢船、冊封船が往来していた。冊封使は帰国後、自らの見聞・体験等を通して、その航海の事情から一切の儀礼及び琉球国の国情等についても記録し、その使録とし、後世の封使等の指標に供するのを慣例とした22。
 中国と琉球との境界線は、赤尾嶼と久米島との間にあるという主張の根拠として、冊封使録の記述がしばしば援用される。

 例えば、久米島について、『使琉球録』(1534 年渡琉)では、「乃チ琉球ニ属スル者ナリ」、『中山伝信録』(1719 年渡琉)では、「琉球西南方界上鎮山」23と述べられている24。
 また、『重編使琉球録』(1561 年渡琉)には「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山リ」、『使琉球雑録』(1683年渡琉)には、赤尾嶼と久米島との間にある「郊」の意味について「中外ノ界ナリ」との説明もある25。

 しかし、これらの記述から明確に読み取れるのは、久米島が琉球に属することのみであり、赤尾嶼の帰属については何ら述べられていない。尖閣諸島は、福州と那覇のほぼ中間地点に位置し、航路目標として有用であったことなどから、冊封使は、尖閣諸島を中国の領土と意識して、久米島からは琉球領に属すると記述したのではなく、同諸島を航路の目標として記述したと解すべきであると反論される26。

 また、『使琉球雑録』の「郊」や「中外の界」とは、冊封船の航路を横切って流れる黒潮の存在や当時の海上信仰を考えれば、国の内外の堺という意味ではなく、水域あるいは海流の内外の意に解した方が、より妥当であるとの指摘もある27。

(2)琉球36 島
 中国は、1879 年の琉球の帰属に関する日清交渉において、琉球国の版図、いわゆる琉球36 島に尖閣諸島が含まれていないことを、日清双方が認めているという28。
 琉球36 島は、人居の地であることと、首里王庁への貢納義務を負っていることが条件であり、これらの条件を満たした島嶼のみが王府領と明記された29。確かに、このような条件を満たしていない尖閣諸島は、琉球36 島に含まれていなかった。しかし、同諸島が、明・清代の福建省、あるいは台湾省の行政範囲にも含まれていなかったのは、先述の通りであって、琉球36 島に含まれていないことが、直ちに尖閣諸島の中国への帰属を意味するものではない。

Ⅲ 日本への領土編入
 日本は、「尖閣諸島は、1885 年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認の上、1895 年1 月14 日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」30。
 他方、中国は、中日甲午戦争(日清戦争)を通じて、日本が尖閣諸島をかすめとり、さらに清朝政府に圧力をかけて、1895 年4 月に馬関条約(下関条約)に調印させ、台湾とそのすべての付属島嶼及び澎湖列島を割譲させたと主張している31。

 以下では、日本が行った閣議決定に基づく尖閣諸島の領土編入の有効性、尖閣諸島の領土編入と日清戦争・下関条約との関係を検討する。

1 領土編入の閣議決定
(1)領有意思
 日本が尖閣諸島に対して領有の意思を持ち始めたのは、1879(明治12)年の琉球処分の頃と思われる。この年に発行された『大日本全図』、及び同年発行の英文の『大日本全図』で、尖閣諸島は琉球諸島に含められている。これら2 つの地図は、いずれも私人が作成し、内務省の版権免許を得て刊行された。
 内務省地理局によって刊行されたものでは、1879(明治12)年の『大日本府県管轄図』が、尖閣諸島を琉球諸島の中に含め、1881(明治14)年の『大日本府県分割図』が、「沖縄県図」の中に、島の名は記さず、その形だけで、尖閣諸島を示している。内務省作成の地図において、尖閣諸島が日本の版図に含まれていることは、同諸島に対する日本の領有
意思を示すものと言えよう32。

(2)国標設置に関する井上馨外務卿の見解
 1885(明治18)年、沖縄県令は、尖閣諸島の実地調査にあたり、国標建立について指揮を仰ぎたいとの上申書を山県有朋内務卿に提出した。内務卿は、これらの諸島が清国に属している証拠が見当たらず、沖縄県が所轄する宮古島や八重山島に接近した無人島嶼であるので、国標の建立は差し支えないとして、「無人島久米赤島他外二島ニ国標建立ノ件」を太政官会議に提出するための上申案をまとめた。
 続いて同年10 月9 日には、井上馨外務卿と協議し、その意見を求めた。10 月21 日の外務卿の回答は次のような内容である。

 これらの島嶼は、清国国境にも近い小島嶼である。また、清国はその島名もつけていて、清国の新聞に、我が政府が台湾付近の清国領の島嶼を占拠したなどの風説を掲載して、我が政府に猜疑を抱き、しきりに清国政府の注意を促す者もいる。
 ついては、「公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ、清国ノ疑惑ヲ招キ候間、…(中略)…国標ヲ建テ開拓ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方可然存候。」
この回答を受けた内務卿は、国標建設の件を太政官会議に上申するのを見送った。
上記の井上外務卿の見解は、尖閣諸島が清国に属することを認める趣旨であろうか。 
 これについては、当時小国であった日本の、大国清に対する外交上の配慮33であり、朝鮮問題及び琉球処分という重大問題が介在する中、このような小さな問題で、今清国と事を構えるのは得策ではないという、外務省としては当然の発想であると指摘されている34。

(3)国標設置許可の閣議決定
 1885(明治18)年以降、古賀辰四郎氏が尖閣諸島に渡航し、鳥毛の採取や漁業に従事していたが、他にも、尖閣諸島に渡航し、漁業その他を行う者が現れるようになった。
 そこで沖縄県知事は、水産業の取締りのため、1890(明治23)年1 月13 日に内務大臣宛に、無人島魚釣島ほか2 島を八重山島役所の所轄にしてほしいとの伺いを出し、さらに1893(明治26)年11 月26 日にも、内務、外務両大臣宛に同様の上申をした。
 しかし、政府はいずれにも回答を示さなかった。また、1894(明治27)年には、古賀氏が内務、農商務両大臣に尖閣諸島開拓の許可を願い出たが、認められなかった35。

 1894(明治27)年8 月1 日、日清戦争が開戦し、その年末には勝敗がほぼ決定していた。そのような情勢下にあった12 月27 日、野村靖内務大臣は、1885(明治18)年当時とは事情が異なるとして、「久場島及び魚釣島へ所轄標杭建設の件」の閣議提出について、陸奥宗光外務大臣の意見を求めた。

 翌1895(明治28)年1 月11 日、外務大臣は、外務省としては別段異議がない旨回答した。
 かくして本件は、1895(明治28)年1 月14 日の閣議に提出され、沖縄県知事の上申通り、「久場島及び魚釣島」を同県所轄とし、標杭建設を許可する閣議決定がなされた36。

 1月21 日には、内務、外務両大臣連名で、沖縄県知事に上申中の標杭建設を聞き届けるとの指令を出した。


2 下関条約との関係
 1895 年4 月17 日、日清両政府は「日清両国講和条約」(明治28 年5 月13 日勅令。以下「下関条約」という。)に調印した。下関条約第2 条は、「清国ハ左記ノ土地ノ主権並ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本国ニ割与ス」と規定し、「左記の土地」の一つに、「二 台湾全島及其ノ附属諸島嶼」を挙げている。
 尖閣諸島は、ここでいう台湾の付属島嶼として日本に割譲されたものであろうか。尖閣諸島が台湾の附属諸島嶼に含まれるのならば、日本は、第二次世界大戦後の領土処理の過程で、尖閣諸島を放棄したことになる37。

(1)講和会議
 講和条約締結に向けた談判中、清国は、日本からの台湾、澎湖諸島の割譲要求に対しては、強く反対の立場を主張していたが、尖閣諸島の地位については何ら問題にしなかった38。
 もし、清国が尖閣諸島を自国領と認識していたならば、台湾や澎湖諸島と同様、尖閣諸島の割譲についても異を唱えていたのではないだろうか。この点、中国側の主張を支持する立場には、敗戦国である清国に、けし粒のような小島の領有権を、いちいち日本と交渉して確定するゆとりはなかったのであろう、との見解もある39。
 しかし、これに対しては、国際法的な抗議は、戦争の勝敗とは無関係であり、戦争中でも、日清講和条約の交渉過程においても、また、その後でも、中国が同諸島を自国領土として認識していたならば、当然に抗議その他何らかの措置をとるべきであった、と反論される40。

(2)「台湾受け渡しに関する公文」
 また、下関条約第5 条に従い、1895 年6 月2 日に「台湾受け渡しに関する公文」に署名する際、日本の水野弁理公使と清国の李経方全権委員との間で、台湾の附属諸島嶼の範囲について、次のようなやり取りがなされた。
 李は、日本が後日、福建省付近に散在する島嶼を台湾附属島嶼と主張することを懸念し、台湾所属島嶼に含まれる島嶼の名を目録に挙げる必要はないかと尋ねた。水野は、島嶼名を列挙すれば、脱漏したものや、無名の島があった場合、日中いずれにも属さないことになり不都合である。台湾の所属島嶼は海図や地図などにおいて公認されており、台湾と福建との間には澎湖列島の「横はり」があることから、日本政府が福建省付近の島嶼を台湾所属島嶼と主張することは決してない、と応答し、李も肯諾した41。

 これに関して、1895(明治28)年までに日本で発行された台湾に関する地図・海図の類は、例外なく台湾の範囲を彭佳嶼までとしていて、地図や海図で公認された台湾附属島嶼に尖閣諸島が含まれないことは、日清双方が認識していた42。
 以上のことから、尖閣諸島は、下関条約第2 条に基づき接受された「台湾及其ノ附属諸島嶼」には、含まれていなかったと考えられる。


3 編入以降の実効的支配
 ある地域の帰属決定に際して、国際法上、領域主権の継続的かつ平穏な行使が重視されることは、第Ⅰ章で述べた通りである。1895(明治28)年の領土編入以降、第二次世界大戦の終了まで、日本はいかに尖閣諸島を支配していたのであろうか。
 1896(明治29)年に沖縄に郡制が施行されると、魚釣島と久場島は、まもなく八重山郡に編入され、南小島、北小島と共に国有地に指定された後、地番が設定された43。
 同年9月、政府は、魚釣島、黄尾嶼、南小島、北小島を30 年間無料で古賀辰四郎氏に貸与することとし、無料貸与期間終了後は、1 年契約の有料貸与に改めた。1932(昭和7)年には、同諸島を古賀善次氏(古賀辰四郎氏の子息)に払い下げて、4 島は同氏の私有地となった。

 古賀氏は、同諸島でアホウ鳥の羽毛の採取、グァノ(海鳥糞)の採掘、その他水産加工等に従事して、4 島の払下げ以後は、毎年地租を収納した。古賀氏による同諸島の経営は、太平洋戦争直前まで続いた44。
 また、国の各機関や沖縄県がたびたび尖閣諸島の実地測量を行い、その成果は地図や海図に反映された。さらに、資源調査、地形調査、気象測候所設立のための下調査といった、各種調査を実施した。沖縄県の統計書や県勢要覧といった官庁文書には、同諸島に関する記述が見られるようになった45。
 以上のように、尖閣諸島に対する日本の統治権は、領土編入以降太平洋戦争終了まで、一貫して及んでいた。その間、日本の主権行使について、どこの国からも一度たりとも抗議はなかった46。

Ⅳ 第二次世界大戦後の地位
1 戦後の領土処理
 第二次世界大戦中の1943(昭和18)年、英・米・華の3 主要連合国は、「同盟国の目的は…満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある」との内容を含むカイロ宣言を発表した。日本も、1945(昭和20)年8 月15 日、ポツダム宣言を受諾し、9 月2 日降伏文書に署名したことにより、カイロ宣言の方針を承認するところとなった。

 以上の方針を受けて、1951 年の日本国との平和条約(昭和27 年条約第5 号。以下「対日平和条約」という。)には、終戦以前の日本の領土のうち、日本が放棄する地域と、日本に残される地域とが具体的に規定された。本稿に関連するところでは、第2 条で、日本が台湾及び澎湖諸島を放棄すること、第3 条で、北緯29 度以南の南西諸島等については、日本に主権が残されること、米国が国連に信託統治を提案するまでの間、米国が同地域及びその住民に対して、三権を行使できることなどが定められた。43

2 関係国の態度
 対日平和条約において、尖閣諸島は、日本が放棄した地域と日本に主権が残され地域の、どちらに含められていたのであろうか。第二次世界大戦終了後の関係国の対応から考察する。

(1)米国軍政府の立法措置
 戦後、米国は、沖縄の占領を展開するに際し、旧沖縄県の範囲をそのまま引き継いでいる。
 例えば、1946 年1 月29 日連合国最高司令官総司令部の「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」に対して、外務省が非公式にGHQ に提出した「南西諸島観」の南西諸島一覧表には、赤尾嶼、黄尾嶼、北島、南島、魚釣島の島名を挙げて、尖閣諸島を沖縄県に含めていた47。
 また、「群島政府組織法(米国軍政府布令第22号)」、琉球政府樹立の根拠法である「琉球政府章典(米国民政府布令第68 号)」、奄美諸島の返還に伴い、米国統治下の琉球列島の地理的境界を再指定する「琉球列島の地理的境界(米国民政府布告第27 号)」は、琉球列島米国民政府、琉球政府等の管轄区域を緯度、経度で示しており、尖閣諸島をその区域内に含めていた48。
 このように、米国は沖縄統治期間中、尖閣諸島を一貫して沖縄の一部として扱った。

1972 年の「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(昭和47 年条約第2 号。以下「沖縄返還協定」という。)においても、それは同様である。同協定の合意された議事録は、「同協定によって日本に返還される領域とは、対日平和条約第3 条に基づき米国施政下にある領土であって、米国民政府布告第27 号に指定される地域である」として、尖閣諸島を日本への返還領域に含めていた。

(2)占領下の日本の実効支配
 日本は、米国施政権下においても、琉球列島米国民政府あるいは琉球政府の行為という形で、以下のような実効的な支配を継続した。

【諸島の使用と徴税】
 1951(昭和26)年、久場島と大正島に米海軍の爆撃演習海域が設定され、久場島は特別演習地域に指定された。
 大正島は1956(昭和31)年4 月に演習地域に指定されたが、久場島は、古賀善次氏の私有地であったことから、米国民政府は、1958(昭和33)年7 月、琉球政府を代理人として、同氏との間に基本賃貸借契約を結び、賃借料を支払った。
 琉球政府は、これ以前から、古賀氏の所有する魚釣島他4 島について固定資産税を徴収しており、新たに、久場島の賃借料から得られる収入についても、源泉徴収を行った49。

【学術調査】
 1950(昭和25)年から1971(昭和46)年までの間に、尖閣諸島において、地質、資源、生物相に関する学術調査が計10 回行われた50。

【不法入域の取締り】
 1968(昭和43)年、琉球政府法務局出入管理庁係官は、数十名の台湾人が南小島に上陸し、座礁した船舶の解体作業に従事していたのを発見した。係官は、これらの労務者が入域許可証等を持っていなかったため、退去を命令し、入域を希望する
場合は、その許可証を取得するよう指導した。労務者は、いったん南小島から退去し、琉球列島高等弁務官の許可を得たのち、再び同島に上陸した51。

【領域表示板、標柱の建立】
 1970(昭和45)年、琉球政府は、魚釣島、北小島、南小島、久場島及び大正島の5 島に、琉球列島以外の居住者が高等弁務官の許可なくこれらの島嶼に入域することを禁じる領域表示板を建立した。また、これとは別に、1969(昭和44)年、石垣市が上記5 島に地籍表示のための標柱を建立した52。

(3)中国の対応
 中国は、ポツダム宣言が規定する台湾及び澎湖島の中国への返還を実現すべく、1945 年8 月29 日に台湾省行政長官兼警備総司令を任命し、9 月20 日には台湾省行政長官公署組織条例を公布した。そして10 月25 日に「受降典礼」なる正式の接収手続きを行って、台湾及び澎湖島を正式に自国領として回復した、とする53。
 しかし、中国は尖閣諸島について、1945 年以降1970 年まで、全く領有主張もせず、何ら有効な抗議もしてこなかった54。このことは、台湾及び澎湖島に、尖閣諸島が含まれていないことを、中国自身も認めていたことをうかがわせる。
 よって、尖閣諸島は、対日平和条約第3 条にいう日本に主権が残される地域に含まれ、沖縄返還協定に基づいて、米国から日本に返還されたと言えよう。

おわりに
 以上、尖閣諸島の領有権をめぐる主要な論点を整理した。この他、尖閣諸島の島名は中国語であり、それは同諸島が歴史的に中国領であったことの証拠である、という主張の妥当性などの論点があるが、領域の帰属を国際法的に判断する際の決定的要素とはみなされていないため、本稿では取り上げなかった55。また、西太后が魚釣島を下賜した勅書という、信憑性が疑問視される資料など、紙面の制約上、言及に至らなかった問題もある。

 尖閣諸島をめぐる近年の動きとしては、まず、1992 年の中国のいわゆる「領海法56」制定が挙げられよう。同法第2 条は、尖閣諸島を中国の領土と明記した。2004 年3 月には、中国人の活動家が尖閣諸島に不法上陸し、日本の警察に逮捕され、強制送還されるという事件が発生した。また、2005 年2 月、魚釣島の灯台を民間の所有者が放棄したため、日本政府がこれを国有化すると、中国政府は「違法で無効」とコメントした。
 さらに、近年、尖閣諸島近海の、両国の境界が未画定である区域で、中国がガス田開発を進めていることが、日中間の懸案となっている。
決定的期日以降の国家行為は、法的には、領域帰属の判断に影響を与えない以上57、現
実に尖閣諸島を支配している日本としては、今後とも実効支配を維持し、中国に対して日
本の正当な権利を主張することになるであろう。






転載元: 沖縄県風土記等を読みませんか


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