歴史
竹富島の出土品でもっとも古いものはカイジ浜遺跡の貝塚で紀元1000年頃と推定される。竹富町の史跡に指定されている島東北部の新里村遺跡からは陶磁器の破片や穀物の種子、石積みの跡が出土している。年代は竹富島最古の井戸といわれる花城井戸(ハナックンガー)を境に東側が12世紀頃、西側が14世紀から15世紀頃と推定される。
竹富島中世の遺構として石積の状態も良好とされている花城・久間原遺跡は15世紀から16世紀頃と推定される。現在は茂みに覆われてその遺構は見学することはできない。
オヤケアカハチ オープニング
竹富島では、1500年のオヤケアカハチ戦争の際、宮古軍の総大将であった仲宗根豊見親が東集落南東部にある小高い丘に城を築いたと伝えられている。その地はトゥールングックと呼ばれ、豊見親の掘り当てた井戸をトゥンナーカーと云われている。
また、そのオヤケアカハチ戦争の際に島の偉人として敬愛されている西塘は、首里王府軍の総大将であった大里親方に首里に連行されたと伝えられており、やがて西塘は石工として大成しその名を知られるようになった。首里城に建立されている園比屋武御嶽石門の扁額によると、園比屋武御嶽石門は1519年に竹富島の西塘が建立したとある。
西塘は、1524年頃に琉球王国第二尚氏王朝第3代国王である尚真王より八重山の頭職である竹富大首里大屋子(たけとみうーしゅりうーやく)の官位を授かり、竹富島のカイジ浜に蔵元(行政府)を置き、八重山を統治すると伝えられている。
オヤケアカハチの乱
遠弥計赤蜂の乱(オヤケアカハチの乱)は、1500年に八重山島大浜村[1](現在の石垣市大浜)の豪族オヤケアカハチ[2]と、琉球王国(尚真王代)との間で行われた戦争である。琉球が勝利し、赤蜂を殺害した。
原因
琉球の正史[3]は、攻撃の理由として2点を挙げている。曰く、八重山は洪武年間より毎年朝貢していたがこの2、3年間断った。おまけに宮古を攻めようとした。だからこっちから攻めた。そして諸史料は一致して、八重山の朝貢が断たれたのは、大浜の赤蜂が謀叛したせいだと述べている。八重山の誰が毎年朝貢していたのかは不明である。
当時の宮古の最有力豪族は空広(ソラビー。いわゆる仲宗根豊見親)であった。家譜に曰く、「宮古の民俗は争いを好んだ。空広は考えて、これは米粟が豊饒なためである。主国に賦税をお願いして年貢を納めよう。こうして命令を請うて役人を置き、諸村に人頭税[4]を定めたところ、農業を怠らなくなった。このとき空広は八重山に航し、八重山の酋長に諭して曰く、相共に附庸の職分を守り、年々貢物の員数を定め、琉球に朝見し、臣子の忠誠を尽くそうとする意志を述べよう[5]」この時、大浜のアカハチ兄弟は同意せず、かえって宮古島を襲おうとしたので、琉球に訴えたとする。
これは毎年朝貢していたという先の記述とは、さしあたって矛盾する。誰を指して八重山の酋長と述べているのかは不明である。
稲村賢敷は、以上の「空広が諸村に税制を定め、中山に年貢を納めるようにした」という記述と、「球陽(141号)」に尚真王の事績として載る「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ」を根拠として、八重山の何者かが朝貢していたのは認めつつ、これまでの朝貢関係が強化されて、八重山諸村に定租を課そうとした[6]とし、これがアカハチを挑発した、と説明している。
八重山の諸史料も一致して「アカハチホンカワラという二人[7][8]」などとアカハチホンカワラは二人いたとしている。さらに「長榮姓家譜大宗」は、「ホンカワラ及びアカハチという者二人、[9]」と明言し、ホンカワラと赤蜂は別人であるとの見解を示している。少なくとも宮古においては、かわらというのは人名として珍しくない[10]。空広の先祖には「祢間津のかわら[11]」という者がいる。
またこれら八重山の史料は、赤蜂に島民全部が同心した事も一致して記述している。
開戦前
赤蜂は急いで檄文を各所に発して、衆民を集めて曰く「中山の大兵が、来たって我が境を侵さんとしている。
汝ら、よく鋭気を奮い、速やかに出で迎戦せよ。もし、命令に違いて怠惰すれば、法に依りてただちに斬り、敢えて許さない」[12]先述の如く、島民全部がアカハチに同心し服従したが、次の5人は服従しなかった[13]。島の長者、石垣村の長田大主(ナータフーズ)、その弟二名、那礼当、那礼重利、川平村仲間丘の首領、仲間満慶山(ミツケーマ)、波照間住人明宇底獅子嘉殿(シシカトノ)である。那礼当、那礼重利、満慶山、シシカトノは殺された。
長田大主はあちこち逃げ隠れして度々危地を脱し、ようやく古見(西表島)まで逃亡して洞窟の中に隠れた[14]。
仲間満慶山の子孫を称するのが憲章姓一門である。その家譜は満慶山について「元祖の曽祖父は満慶山である」という事としか述べていない[15]。1950年代に調査を行った稲村賢敷は「アカハチは満慶山をケーラ坂で殺し、さらに仲間丘住人の井戸であった仲間井を埋めた。しかし、うるか屋まやまとが代わりの井戸を発見し、人々は彼にちなんでこれをうるか井と名付けた。その後転訛して、今ふがー(保嘉井)と称しているのがその井戸である[16]」という現地の伝説を紹介している。
また、1809年に憲章姓一門の者が作成した文書[17]では「アカハチ謀叛の際、アカハチと満慶山は、仲すみと申す所で寄合を持ったが、物別れに終わり、満慶山は帰る途中でアカハチが仕掛けた落とし穴に落ちて死んだ」とされている。
波照間のシシカトノに対し、赤蜂は平得村の嵩茶、大浜村の黒勢等を遣わして慰諭させようとした。嵩茶等が到着したとき、シシカトノはたまたま海辺で魚釣りをしており、逃げ隠れできなかった。シシカトノは従わなかったので、嵩茶はこれを刺殺して海中に遺棄した[18]。
先述の如く、赤蜂は第一に中山と我との間には境がある、第二に琉球がそれを侵そうとしているとの認識を示しているが、琉球は一貫して、赤蜂の行為は中山に対する「謀叛」「叛逆」であるとし、アカハチ攻撃の正当性を主張している。
また高良倉吉は、赤蜂が琉球の「侵」と定義する行為は、あくまで琉球による「地方統治の強化[19]」であるとの見解を示している。ちなみにこの高良倉吉は、逆に琉球が攻撃を受けた琉球征伐に関しては、「琉球側にとってはまぎれもなく侵入・侵寇・侵略の事件だった[20]」などと根拠も挙げずに力説している。
戦闘
琉球船団は空広が先導した[21]。ちなみに先述のごとく、琉球まで行って通報したのも空広である。空広なしに、八重山まで行く航海能力が、果たして中山にあったかどうかは不明である。以下、基本的に「蔡鐸本中山世譜」に依る。日付が最も詳しいため。
軍船大小46艘、3000人[24]で、弘治13年(1500年)庚申2月2日、那覇より出発した。
13日に八重山石垣に至る。長田大主は大喜びで、小舟で古見から出てきて、中山軍の道案内を務めた[25]。
19日その地界陣勢を見んと欲して、小船に乗って上岸した。之を見たところ、その陣、前に大海に向かいて、後に嶮岨があった。その地の婦女は、皆、草木の枝を持って、天に号し、地に呼んで官軍を呪罵していた。乗船が上岸したのに、ほとんど畏惧する様子は無かった。賊首の堀川原赤蜂は、真先に出てきて[26]戦を挑戦してきた。我が兵は、崖に近づいて、お互いに罵りあった。
しかし悪日を忌んだので戦わず、軍を引いて退いた。大里が言うには[27]賊奴の鋭気、軽がるしくは敵すべきではない。そこで20日甲辰、46艘を分けて両隊と為し、一隊は登野城を攻め、一隊は新川を攻め、その地で、両辺相戦った。アカハチは応じる事ができず、官軍はこれに乗じて攻めまくった[28]。終に官軍が勝った。
新川・登野城は現用されている地名で、石垣四箇字の左右の端にあたる。このように離れた場所で同時に攻撃をかけたので、赤蜂は対応できなかったと述べられている。
戦後処理
「球陽」162号によれば、琉球は初めて空広を宮古頭、二男マチリンガニ(真列金)を八重山頭に任命した。
ただし「忠導氏正統家譜」「球陽」109号は、この時はマチリンガニの八重山守護奉命のみを認めている。
この二者は、尚真王代の宮古頭云々は無視する一方、空広は尚円王に朝見した際に「宮古島主長」職を奉命した事を述べており、この職が一貫して継続しているとの見解を示している。
「家譜」によれば、マチリンガニは4年勤めた後、三男チリマラ(知利真良)と代えられた。「球陽」162号は、マチリンガニは人民を虐待したのでクビにしたと述べている[29]。空広は八重山平治慶賀のために朝見した際、宝剣治金丸一振、宝珠一個を献上し、中山は簪一個と白絹衣一領を下賜した。また彼は漲水御嶽に「逆徒を追討できたら御嶽の周囲に石垣を新築します」との願をかけていたので、帰島のときに実行した[30]、。
長田大主は古見大首里大屋子に抜擢された。これは後に改称されて石垣八重山頭職となった。これが八重山の頭の始まりとなった[31]。
ここでいう「八重山頭職」の始めと、先のマチリンガニの「八重山頭」奉職との整合性は不明である。当時の「八重山頭」にどこまで実態があったのかも不明である。
那礼当の幼子、保利久思は美良底首里大屋子となった。仲間満慶山の男子は、8人とも首里大屋子になった。シシカトノの男子三人は与人になった。女子三人は女頭職になった[32]。
長田大主には二妹あり、古市、真市[33]と言ったが、そのうち古市は赤蜂の妻だったので夫と共に殺害された。他方、真市はイラビンガニという神様の神人に任命された。姪の宇那利[34]は大阿母職に任命された。姪の方が高位であるが、これは真市が譲ったためである[35]。
真市が俸米を授かった経緯は以下の通り。ある日、官軍のところに真市がやって来て「永良比金の神の託宣があったのですが、今船に乗れば早く那覇に到るでしょう」などと言った。
しかし官軍は次のように答えた。「その神託はまだ深くは信じられない。兵船が一斉に国に着けば褒賞するが、託宣と違って前後して国に至ることが有れば、重く罪して恕さない」真市は答えた。「蒼天は定めがありません。風波は測り難いです」真市は美崎山に入り、日夜断食して祈願した。そうこうするうち、船は神様のおかげで一斉に国に到着した。
王は真市を抜擢して、大阿母にしようとしたが、真市は姪の遠那理に譲った。
そこで王は、真市は永良比金の神人にした。大阿母には俸米一石五斗を賜い、永良比金には俸米一石を賜うた。[36]
このように当時の中山兵は神託をあまり信じていなかった。神託全般を信じなかったのか、真市の神託だから信じなかったのかは不明である。そもそも神託を受けたと称する当人からして、神託の実現可能性に対する不信の念を表明している。しかしこのような不信心にも関わらず、イラビンガニは蒼天を定められ、神妙な御霊威を顕された事が述べられている。
君南風について
「球陽」163号によれば、久米島の巫女・君南風も従軍し、その功績によって代々世襲が認められた。きっかけは首里神なる神の「八重山の神と久米山の神とは、元々姉妹である。もし君南風が官軍に従って八重山にいって諭せば、必ずや信服するであろう」などというお告げであった。
言われたとおりにして八重山に行ったところ、賊衆が多くて上岸し難かった。しかし君南風に奇謀あり、竹筏を作って上に竹木を取り付け、焼いて放流させたところ、賊衆はこれにつられて移動し、官軍は上岸できた。さらに宇本嶽君真物神が君南風のところに来て信服した。賊衆もこれを見て服従した。こうして大将軍は人民を鎮撫する事ができた。帰還後、細疏の他、奇謀が聖聴に上達し、褒美を貰った。
奇謀云々と「蔡鐸本中山世譜」その他との整合性については一切不明である。あちらではとりあえず19日に上岸したと書かれているが、君南風は全編一貫して無視されている。また聖聴には奇謀だけが達し、宇本嶽君真物神が信服したという主張は無視されている。さらに、二柱の神と交信し、一柱を帰服までさせるなど瞠目すべき成果を収めているが、特に餓死寸前まで祈る必要も無かった点で、真乙姥との違いがみられる。
逸話
遠弥計赤蜂が討たれた結果、八重山は王府に恭順する仲宗根豊見親と赤蜂と対立していた石垣の豪族、長田大主の勢力圏に収められることとなった。敗れはしたものの、王国の侵攻から現地の民俗を守ろうとした遠弥計赤蜂は、地元の英雄として現在に伝わっているほか、イリキヤアマリ神を伝える御嶽が石垣島に残っている。なお、小浜島には、戦いに敗れた遠弥計赤蜂が逃げ込んだという伝説のある、遠弥計赤蜂の森がある。
一方、戦功をあげた君南風ノロは、王府より大阿母(一地方の最高位のノロ)に匹敵する格づけで、久米島ノロの最高位の地位を与えられた。加えて勾玉を授けられ、「おもろさうし」にも謡われる英雄となった。
この戦争から500年以上たった現在も、君南風ノロは久米島最高位のノロとして久米島の祭祀を司っている。またこの史実から、君南風は勝利の軍神とされ、久米島キャンプをしたプロ野球チームが君南風神殿に参拝することが知られている。
また、石垣からの王府軍の帰路の安全を祈り、安全な航海のための神託を与えた石垣の神女マイツバ(長田大主の姉)は、その後王府より褒賞として金のかんざしと現地のノロを統括する八重山初の大阿母職(高級神女職)に任命されるが、大阿母職を固辞し、代わりにイラビンガミ神職(イラビンガミ神に仕える神女)を拝命した。
彼女が王府軍の帰路の無事を願った場所は美崎御嶽となり、石垣島の重要な御嶽となった。また、彼女の墓地にはマイツバ御嶽が作られ、ともに現在も信仰を集めている。
この戦いで石垣島に遠征した将軍の大里親方は、竹富島の西塘(にしとう)なる人物を見出し、首里へ連れ帰った。西塘は首里で学問を修めて土木建築家となり、1519年に国王が首里城を出るたびに御願(うぐぁん:祈祷)を行う園比屋武御嶽の礼拝所となる石門を建築したことで知られる。
その後、八重山を統治する身分(竹富大首里大屋子)として竹富島に戻り、その後石垣島に移って八重山地方の蔵元(琉球王国の地方行政官庁)をおいた。
竹富島には園比屋武御嶽の神を勧請して国仲御嶽(フイナーオン)を造成した。この御嶽は八重山で唯一、王府の神につながる御嶽であり、竹富島の村御嶽として国の守り神とされている。彼の死後、竹富島の墓地には西塘御嶽が置かれ、その功績を讃えて現在も信仰されている。
琉球王朝時代には、八重山地方の政庁(蔵元)が置かれていた時期もある。旧八重山村が分村し、竹富村(1948年に町制施行)が発足した当初も本島に村役場が置かれていたが、1938年に村外の石垣島へ移転して以来、現在も町役場は石垣市に置かれている。
その頃に島全体が畑と化したため、古来から保たれている森林は御嶽の周辺だけである。
竹富町のあゆみ
概要
竹富町出身の西塘は首里王府(尚真王時代)において25年間も司法官につかえて、その忠勤(園比屋武御嶽の石門創造、首里城壁の設計などの功績)により1524年(大永4年)竹富大首里大屋子の頭職に(八重山人として初めて)命ぜられ蔵元を創設して20年間は竹富島で八重山の政治を統治したが該地は狭小にて良い港がないため石垣島の大川に移転するに至った。
明治30年(1897年)4月勅命第56号間切島吏員規定の発布により蔵元は間切役場と改称され、八重山は特例を設け一郡一間切として職務は島司これを行い各村の村頭は補助機関とした。西塘が蔵元を竹富島に創設してから373年という長い歴史をもって蔵元は廃庁となった訳である。
明治40年(1907年)勅命第45号をもって沖縄県間切島は各村と改正、勅命第46号をもって沖縄県島嶼町村制が施行され翌41年4月1日からこれを実施した。その結果従来の間切は村に、村は字に改称されたが本郡は特別に八重山村として一村となった。
一村では自治統治上不便であるとの理由から、大正3年(1914年)県令で八重山村は石垣、大浜、竹富、与那国の4ヶ村に分村。竹富村は、竹富、黒島、新城、小浜、鳩間、西表、波照間の7ヶ字が行政区画となった。
昭和23年(1948年)南部琉球軍政府の認可を得て町に昇格し、現在に至る。
前史(永正16年~大正元年)
年 内容1519年(永正16年) | ・竹富島出身の西塘、首里城の石門並びに石垣を築造する。 |
1524年(大永4年) | ・西塘、竹富大首里大屋子の頭職に命じられ竹富島に蔵元を設置、八重山を統治する(20年間) |
1543年(天文12年) | ・蔵元、石垣へ移転(竹富島は狭小にて良い港がないため)。 |
1550年(天文19年) | ・西塘天命を終わる(その墓が西塘お嶽である)。 |
1637年(寛永14年) | ・人頭税施行。 |
1640年(寛永17年) | ・西表島に南蛮船漂着。 |
1648年(慶安元年) | ・波照間島平田村の村民男女40人逃亡する(人頭税の重圧に堪えられず南波照間の楽園を目指して船出したと伝えられる)。 |
1700年(元禄13年) | ・黒島から鳩間島へ寄百姓60人。 |
1702年(元禄15年) | ・鳩間村、古見村より独立。 |
1703年(元禄16年) | ・黒島から鳩間島へ寄百姓500人。 |
1711年(正徳元年) | ・竹富、新城から伊原間、黒島から平久保へ移住。 |
1713年(正徳3年) | ・波照間から白保、桃里へ寄百姓300人余。 |
1715年(正徳5年) | ・古見村の三離橋、大枝橋の架橋竣工。 ・古見の勢田に造船所を創設。 |
1723年(享保8年) | ・上原村に会所(村学校)創立。 |
1726年(享保11年 | ・古見村に会所創立。 |
1728年(享保13年) | ・租納村に会所創立。 |
1732年(享保17年) | ・極道無慈悲な『道切り』強行、移民政策始まる。 ・高那村創立、小浜島より移民。 |
1734年(享保19年) | ・南風見村創立(波照間島から400人の寄百姓)。 ・竹富島から74人が移住し、屋良部村創立。 |
1738年(元文3年) | ・古見の造船所改築。 ・竹富島から150人桴海村へ移民。 |
1749年(寛延2年) | ・古見造船所を船浦へ移転。 |
1755年(宝暦5年) | ・崎山村創立、波照間島から280人、網取村から63人、鹿川村から93人、祖納村から10人、その他の村から13人の計459人が移民。 |
1768年(明和5年) | ・上原村創立、慶田城村を西表村に、西表村を上原村に改称。 |
1771年(明和8年) | ・明和大津波(津波襲来前の人口10,575人、津波襲来後9,701人)△874人。 |
1843年(天保14年) | ・英国軍艦サマラン号西表島調査。 ・黒島の多良間モーサ漂流、フカに助けられる。 |
1853年(嘉永6年) | ・ペルリー一行の地質技術師アール・ジー・ジョーンズ西表島の石炭を発見する。 ・西表島の石炭を異国人に紹介することを厳禁。 |
1857年(安政4年) | ・間切り改正される。黒島から桴海村へ50人、上原村へ150人移民。 |
1860年(万延元年) | ・小浜島から8人高那村へ移民。 |
1872年(明治5年) | ・琉球王朝琉球藩となる。 ・薩摩の伊地知小十郎(万年丸)西表の石炭調査で来島(八重山へ初の汽船入港)。 |
1873年(明治6年) | ・西表島南風見にルソン島人4人漂着。 |
1879年(明治12年) | ・琉球藩を廃して沖縄県誕生(廃藩置県)。 |
1885年(明治18年) | ・工部省西表島石炭調査。 ・三井物産、西表石炭採掘を開始。 |
1887年(明治20年) | ・軍艦金剛、八重山測量。 |
1890年(明治23年) | ・西表島に医師竹下態氏任命される。 ・西表島に分教場創立。 |
1892年(明治25年) | ・竹富島に分教場創立。 |
1893年(明治26年) | ・黒島に分教場創立。 ・浦内村廃村。 |
1894年(明治27年) | ・日清戦争ぼっ発する。 ・波照間島に分教場創立。 |
1895年(明治28年) | ・日清戦争終結する。 ・小浜島に分教場創立。 |
1896年(明治29年) | ・八重山に郡制施行。 ・鳩間、新城両島に分教場設立。 |
1900年(明治33年) | ・仲間村廃村。 |
1902年(明治35年) | ・人頭税廃止。 |
1904年(明治37年) | ・日露開戦。 ・鹿川部落廃村。 |
1906年(明治39年) | ・竹富、黒島、小浜、西表、波照間の各分教場は独立小学校となる。 ・高那村廃村。 |
1907年(明治40年) | ・新城・鳩間の分教場は独立小学校となる。 ・勅令第45号をもって沖縄県間切島は村に改正される。 |
1908年(明治41年) | ・沖縄県及嶼町村制に基づく、特別町村制に基づく、特別町村制で八重山村が誕生(勅令第46号)。 |
1909年(明治42年) | ・上原村廃村。 |
1911年(明治44年) | ・米国軍艦アルバーニ号、西表島西部の舟浮港に入港。 |
竹富町の沿革
年 内容1913年(大正2年) | ・八重山村より分村に関する申請書を沖縄県知事に提出。 |
1914年(大正3年) | ・2月、県令をもって八重山村は石垣、大浜、竹富、与那国の4ヶ所に分村布達された。 ・同年4月1日竹富404番地において竹富村の行政執行を開始(当時の総戸数1,057戸、人口5,662人で竹富・黒島・小浜・新城・西表・鳩間・波照間の7ヶ所に行政区画、職員5名)。 |
1916年(大正5年) | ・黒島口、黒島住民によって閉削。 ・古見、崎山が西表字より区画され区長制度を設けて村制の補助機関とした(第1次世界大戦ぼっ発)。 |
1917年(大正6年) | ・八重山マラリア撲滅期成会設立。 ・先島新聞創刊(新聞の始め)。 |
1919年(大正8年) | ・第1次世界大戦終わる。 |
1920年(大正9年) | ・特別町村制による特例撤廃、普通町村制適用。 ・11月8日、村役場の庁舎落成並びに自治執行記念式典。 ・南風見村廃村。 |
1925年(大正14年) | ・石垣島に村役場出張所を設ける。 |
1938年(昭和13年) | ・離島行政を円滑にするため石垣町字登野城に役場移転(分村してから25年目)。 ・新城島(上地島)の住民、西表島南風見に移住。 |
1939年(昭和14年) | ・消防団結成される。 ・南風見開墾視察のため県議団大挙来島。 |
1941年(昭和16年) | ・新城島(下地)より西表島南風見に移住、西表開発官民調査団来島(米英に対し宣戦布告)。 ・太平洋戦争ぼっ発する。 |
1945年(昭和20年) | ・村行政を一時小浜島に移し、同8年終戦とともに石垣町所在の役場に移した。 ・太平洋戦争(沖縄戦)終わる(6月)。 |
1947年(昭和22年) | ・黒島、竹富より移住し、由布部落を創設。 ・崎山部落廃村。 |
竹富町の沿革 ※1948年~
年 月日 内容1948年(昭和23年) | 7月2日 | ・南部琉球(米軍)郡政府の許可により、竹富村は町に昇格。(当時の戸数1,746戸、人口9,387人)(町長、助役、収入役、事業課長、書記11名、技手2名、使丁1名計18名) ・初代町長 与那国善三氏 |