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大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した

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家康討死伝承

堺市にある南宗寺には「大坂夏の陣茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との異伝を伝えている(『南宗寺史』)。当地にはかつて東照宮もあり、元和9年(1623年)の将軍宣下の折に2代秀忠(7月10日)、3代家光(8月18日)が相次ぎ参詣している。戦災で失われ、現在の「東照宮 徳川家康墓」と銘のある墓標は、かつての水戸徳川家家老裔の三木啓次郎が昭和42年に(1967年)に再建したものだが、墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文も残る。[32]


家康は大坂夏の陣岡山の戦い)で戦死してその後の1年間は影武者であったとする説がある。この説によると、真田信繁(幸村)の奮戦により恐慌状態に陥った家康は、自害すると叫んで部下に誡められ、駕籠に乗せられて逃亡中に後藤基次が家康の駕籠を槍で突き刺し、重傷を負った家康は堺の寺に運ばれてそこで死亡したとするものである。堺市南宗寺に「家康の墓」と称されるものがあり[8]、その説を裏付けるものとして語り継がれている。南宗寺に徳川秀忠・家光が上洛した際に自ら参拝していることや、東照宮[9]が勧請されていたこともその傍証とされることがある[10]。家康の代役として小笠原秀政が選ばれ、その後、正史で家康が死んだ時期まで影武者として家康を名乗っていたと言われる[11]。作家の加賀淳子は、上記の諸事実を調査した上で小説「消えた矢惣次」(『有情無情』収録)を発表したが、小笠原秀政ではなく百姓の矢惣次としている[12]。この中で矢惣次は河内国吉田村出身で、榊原康政に見出されて関ヶ原以前から影武者を務めていたが、用無しとなり毒入り天ぷらで殺されたという。

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