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日本書紀の記述の信頼性

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日本書紀の記述の信頼性


『隋書』、『晋書』との対応

 中国の史書『晋書安帝には、266年倭国の関係記事があり、その後は5世紀の初めの413年東晋義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたと記載がある。この間は中国の史書に記述がなく、考古学的文字記録はないことから、「謎の4世紀」と呼ばれている(4世紀後半以前の皇室の成立過程についてはヤマト王権の項を参照)。
 倭王武の上表文や隅田八幡神社鏡銘、千葉県稲荷台1号古墳出土の鉄剣銘文埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。
 しかし、当時、朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。また『隋書』卷八十一・列傳第四十六 東夷には次のようにある。
「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」
文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬わば、百済に於いて仏経を求得し、初めて文字あり。

稲荷山古墳鉄剣銘文との対応

 稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、5世紀中頃の雄略天皇の実在を認めた上で、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承に一定の真実性を認めようとする意見も存在する。

 金錯銘鉄剣からは、5世紀中頃の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成していたことがわかる。その銘文には「意富比垝(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図が記されており、「意富比垝(オホヒコ)」を記紀の第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」(四道将軍の一人)と比定する説がある。また、川口勝康は「乎獲居(ヲワケ)」について、「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」とし、豐韓別命武渟川別の子と比定しているが、鉄剣銘文においては弖已加利獲居(テヨカリワケ)は多加利足尼の子であるとする。

『上宮記』『帝紀』『旧辞』『国記』『天皇記』との関連

 聖徳太子による国史の成立以前にも各種系図は存在した[22]。これらを基礎にして、継体天皇の系図を記した『上宮記』や、『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に、推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が崩御した継体天皇25年(531年)は当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀ごろの成立と考えられている。

 『日本書紀』には、推古天皇28年(620年)に、「是歲 皇太子、島大臣共議之 錄天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」(皇太子は厩戸皇子(聖徳太子)、島大臣は蘇我馬子)という記録がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が事実あったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、このとき、聖徳太子らが作った歴史書『国記』・『天皇記』は、蘇我蝦夷入鹿が滅ぼされたときに大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。

百済三書との対応

 現代では、継体天皇以前の記述、特に、編年は正確さを保証できないと考えられている。それは、例えば、継体天皇の没年が記紀で三説があげられるなどの記述の複層性、また、『書紀』編者が、『百済本記』(百済三書の一つ)に基づき、531年説を本文に採用したことからも推察できる。

 百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない逸書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。百済三書は、6世紀後半の威徳王の時代に、属国としての対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたとみられ、日本書紀の編者が参照したとみられてきた[23]。それゆえ、百済三書と日本書紀の記事の対照により、古代日朝関係の実像が客観的に復元できると信じられていた。三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く[24]、また、任那日本府に関する記述(「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす」)もその中に表れている。

 また、『神功紀』・『応神紀』の注釈に引用された『百済記』には、「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」など日本(倭国)を「貴国」と呼称する記述がある[25]山尾幸久は、これまでの日本史学ではこの「貴国」を二人称的称呼(あなたのおくに)と解釈してきたが、日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいるため、貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味で、「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と同期しており、それは天武の時代で、この神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかったとしている[26]

 現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている[27]山尾幸久は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして[28]、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている[29]。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある[30][31][32][33][34][35]

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