欠史八代
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欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
概要[編集]
これら古代の天皇達の実在を疑問視する説を提唱したのは、歴史学者・津田左右吉(1873年 - 1961年)である。津田が始めに主張した説では欠史八代の8人の天皇達と、それに次ぐ崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇・成務天皇・仲哀天皇及びその后である神功皇后も存在を否定されており、津田は「欠史十三代」を主張していた。津田のこの説は不敬罪に当たるとして提訴され、1942年に裁判で敗北するものの、第二次大戦後にGHQの指導によって(神道指令)津田説が古代史学の主流となり、以後学校教科書からも初代神武天皇から神功皇后までの記述が削除されることとなった。
しかしその後に津田説に次々と矛盾点が指摘され、崇神・垂仁・景行・成務・仲哀と神功皇后の非実在性が薄らぎ、現在の歴史学では2代から9代までの実在を疑う「欠史八代」説が歴史学の主流となっている。一方で反論意見も根強くあり、実在説を唱える学者も少なくない[注 1]。
欠史八代の天皇[編集]
- 綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
- 安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
- 懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
- 孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
- 孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
- 孝霊天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
- 孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
- 開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)
非実在説
欠史八代の天皇を非実在と考える代表的な根拠は以下の通り。
- 辛酉とは干支のひとつで中国では革命の年とされる。21回目の辛酉の年には大革命が起きる(讖緯説)とされ、日本では聖徳太子が政治を始めた601年(厳密には6世紀末とされるが、表立った活動の記録はない)が辛酉の大革命の年である。すると21×60=1260よりAD601-1260=BC660(西暦0年はない)が神武天皇即位年と算出される。
2~9代に限らず古代天皇達はその寿命が異常なほど長い。たとえば神武天皇は『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳まで生きたと記されており、このことは創生期の天皇達が皇室の存在を神秘的に見せるために創作されたことを示唆している。
『日本書紀』における初代神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、10代崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことから、本来は崇神が初代天皇であったが「帝紀」「旧辞」の編者らによって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと推測することができる。
また、神武の称号の「天下」という抽象的な語は、崇神の称号の「国」という具体的な語と違って形而上的な概念であり、やはり後代に創作された疑いが強いといえる。
1978年、埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に「意富比垝(オホヒコ)」という人物からの8代の系譜が刻まれていたことが確認された。この「意富比垝」は上述の崇神天皇が派遣した四道将軍の一人・大彦命と考えられる。大彦命は第8代孝元天皇の第一皇子のはずだが銘文には何ら記載がなく、鉄剣製作時(471年)までにはそのような天皇は存在しておらず、後の世になって創作された存在であることを暗に物語っている。
4代・6代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、記紀のより確実な史料による限り和風諡号の制度は6世紀半ば頃に始まったものであり、神武・綏靖のように伝えられる名が実名とするとそれに「神」がつくのも考え難く、やはりこれらの天皇は後世になって皇統に列せられたものと考える見方が妥当である。
系譜などの『帝紀』的記述のみで事跡などの『旧辞』的記述がなく、あっても綏靖天皇が手研耳命(たぎしみみのみこと)を討ち取ったという綏靖天皇即位の経緯ぐらいしかない。これらは伝えるべき史実の核がないまま系図だけが創作された場合に多く見られる例である。
総て父子相続となっており兄弟相続は否定されている。父子相続が兄弟相続に取って代わったのはかなり後世になるため、歴史的に逆行することにもなってしまう。
陵墓に関しても欠史八代の天皇には矛盾がある。第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳がある。だが第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかない。その上、当時(古墳時代前~中期頃)築造された可能性のある古墳もなければ、弥生時代の墳丘墓と見られるものもない。
実在説
欠史八代の天皇を実在と考える代表的な根拠は以下の通り。
記紀歴史書説
記紀を歴史書と想定し、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変とともに記紀以前の国記などの代表的な歴史書が火事で無くなったために記録が曖昧になってしまったと考える説。系図だけは稗田阿礼が記憶していたが、その他の業績の部分に関しては火事で焼失した歴史書と共に消え失せたと考える。
葛城王朝説
初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯)の地に比定する説。この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。
この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連させて考えることができ、この説を発展させて邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国とする説などもある。
プレ大和王権説
古くは賀茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であるあることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。また、四道将軍は吉備津彦命が孝霊天皇の後裔、大彦命と建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王が開化天皇の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。
古代天皇の異常な寿命について
2~9代に限らず古代天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは実在が有力視される21代雄略天皇にも見られ、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に従い日本史を遡らせるならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やせばよい。にもかかわらずそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであろう[1]。古代天皇達の不自然な寿命の長さが、かえって系譜自体には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる[注 2]。
また、『古事記』と『日本書紀』の年代のずれが未解決であるため、史書編纂時に意図的な年代操作はないとして原伝承や原資料の段階で既に古代天皇(大王)は長命とされていた可能性を指摘する説もある。さらに、先代天皇との親子合算による年数計算を考慮すべきとの説もある。
- 半年暦説[2]
- 日本の伝統行事や民間祭事には(大祓や霊迎えなど)一年に二回づつ行われるものが多いが、古代の日本では半年を一年と数えて一年を二回カウントしていたと考える『半年暦説』(一年二歳暦)もある。『魏志倭人伝』の裴松之注には「『魏略』に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」と記されており、古代の倭人が一年を耕作期(春・夏)と収穫期(秋・冬)の二つに分けて数えていた可能性が窺える。
- そのことを踏まえれば天皇達の異常な寿命にも不自然さがなくなり、『魏志倭人伝』の記述にある倭人が「百年、あるいは八、九十年」まで生きたという古代人としては異常な長寿についても説明がつく。皇室の存在を神秘的に見せるために長命な天皇を創作するのであれば旧約聖書の創世記に出てくるアダムのような(930歳まで生きたとされる)飛び抜けた長命にしてもよいのに二分の一に割って不自然な寿命になる天皇は一人も存在せず、このことも半年暦が使用されていたことを窺わせる。また、17代履中天皇以降から不自然な寿命が少なくなり、『古事記』と『日本書紀』の享年のずれがおおよそ二倍という天皇もおり(実在が有力な21代雄略天皇の享年は『古事記』では124歳、『日本書紀』では62歳と、ちょうど二倍。26代継体天皇も『古事記』43歳と『日本書紀』82歳で、ほぼ二倍)、この時期あたりが半年暦から標準的な暦へ移行する過渡期だったと推測することもできる。