日本書紀
『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻。系図1巻が付属したが失われた[1]。
成立過程
日本書紀成立の経緯
- 「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
とある。その意味は
- 「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
ということである(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。
また、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる[2]。
記紀編纂の要因
『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。
天智天皇は白村江の戦いの敗北で唐と新羅連合に敗北し、記紀編纂の余裕はなかった。既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。
そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。
原資料
『日本書紀』の資料は、記事内容の典拠となった史料と、修辞の典拠となった漢籍類(『三国志』、『漢書』、『後漢書』、『淮南子』など)にわけられ、さらに、史料には以下のようなものが含まれると考えられている[3]。
- 帝紀[4]
- 旧辞
- 古事記
- 諸氏に伝えられた先祖の記録(墓記)
- 地方に伝えられた物語(風土記)
- 政府の記録
- 個人の手記(『伊吉連博徳書』、『難波吉士男人書』、『高麗沙門道顯日本世記』、(釈日本紀に挙げられている『安斗宿禰智徳日記』、『調連淡海日記』))
- 寺院の縁起
- 日本国外(特に、百済の記録(『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』))
- その他
なお『日本書紀』によれば、推古天皇28年(620年)に聖徳太子や蘇我馬子に編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年(645年)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。
『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は、異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すといわれている[5]。また『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には、次に掲げるように、書名を明らかにしているものがあるが、いずれの書も現存しない。
- 『日本旧記』(雄略天皇21年〈477年〉3月)
- 『高麗沙門道顯日本世記』(斉明天皇6年〈660年〉5月、斉明天皇7年〈661年〉4月、11月、天智天皇9年〈669年〉10月)
- 『伊吉連博徳書』(斉明天皇5年〈659年〉7月、斉明天皇7年〈661年〉5月)
- 『難波吉士男人書』(斉明天皇5年〈659年〉7月)
- 『百済記』(神功皇后摂政47年〈247年〉4月、神功皇后摂政62年〈250年〉2月、応神天皇8年〈277年〉3月、応神天皇25年〈294年〉、雄略天皇20年〈476年〉)
- 『百済新撰』(雄略天皇2年〈458年〉7月、雄略天皇5年〈461年〉7月、武烈天皇4年〈502年〉)
- 『百済本記』(継体天皇3年〈509年〉2月、継体天皇7年〈513年〉6月、継体天皇9年〈515年〉2月、継体天皇25年〈531年〉12月、欽明天皇5年〈544年〉3月)
- 『譜第』(顕宗天皇即位前紀)
- 『晋起居注』(神功皇后摂政66年〈267年〉)
編纂方針
文体・用語
『日本書紀』の文体・用語など文章上のさまざまな特徴を分類した研究・調査の結果によると、全三十巻のうち、巻第一・巻第二の神代紀と巻第二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の25巻は、大別してふたつにわけられるとされる。
その一は、巻第三の神武紀から巻第十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻第十四の雄略紀から巻第二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻第二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻第二十四の皇極紀から巻第二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻第十三と巻第十四の間、つまり、雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
倭習による分類
『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が多くみられ、加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文のα群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言と薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文であるβ群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している[6]。
またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、乙巳の変・大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もいる。
『日本書紀』は欽明13年10月(552年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずるとしている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は欽明天皇の戊午年10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため538年(宣化3年)と推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように、『日本書紀』には改変したと推測される箇所があることがいまや研究者の間では常識となっている。
紀年・暦年の構成
詳細は「神武天皇即位紀元」および「干支#干支による紀年」を参照
那珂通世の紀年論
古い時代の天皇の寿命が異常に長いことから、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。明治時代に那珂通世が、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てているのは、中国の讖緯(陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づくという説を提唱した。三善清行による「革命勘文」[7]で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想[8]によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされる。この那珂による紀年論は、定説となっている[9][10]。
詳細は「紀年論」を参照
元嘉暦と儀鳳暦
小川清彦の暦学研究によれば、『日本書紀』は完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、干支による紀年で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいて、その記事が月の何日に当たるかを計算できる[13]。
また、小川清彦は中国の元嘉暦[14]と儀鳳暦[15]の2つが用いられていることを明らかにした。神武即位前紀の甲寅年十一月丙戌朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、儀鳳暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい儀鳳暦を古い時代に、古い元嘉暦を新しい時代に採用している。これは、二組で撰述したためと推測され、また日本書紀における日付が後代の捏造であることの証拠である。詳細は、小川清彦 (天文学者)#暦学研究を参照のこと。
応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると『三国史記』と年次が一致する。したがって、このあたりで年次は120年古くに設定されているとされる。しかし、これも『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するもので、前後の日本伝承による記事には必ずしも適用されないし、その前の神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない。
古事記の崩御年干支
一方、『古事記』は年次を持たないが文注の形で一部の天皇について崩御年干支が記される。『日本書紀』の天皇崩御年干支と、古い時代は一致しないが、
- 第27代 - 安閑天皇(乙卯、安閑天皇4年〈535年〉)
- 第31代 - 用明天皇(丁未、用明天皇2年〈587年〉)
- 第32代 - 崇峻天皇(壬子、崇俊天皇5年〈592年〉)
- 第33代 - 推古天皇(戊子、推古天皇36年〈628年〉)
は一致する。
本文と一書(あるふみ)[編集]
本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。中国では清の時代まで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時としては世界にも類をみない画期的な歴史書だったといえる。あるいは、それゆえに、現存するものは作成年代が古事記などよりもずっと新しいものであるという論拠ともなっている。ただし、『釈日本紀』の開題部分には「一書一説」の引用を「裴松之三国志注の例なり」と記されており、晋の陳寿が著した『三国志』に対して宋(南朝)の裴松之が異説などを含めた注釈を付けた形式のものが日本に伝来され、『日本書紀』のモデルになった可能性はある[16]。
なお、日本書紀欽明天皇2年3月条には、分注において、皇妃・皇子について本文と異なる異伝を記した後、『帝王本紀』について「古字が多くてわかりにくいためにさまざまな異伝が存在するのでどれが正しいのか判別しがたい場合には一つを選んで記し、それ以外の異伝についても記せ」と命じられた事を記している。この記述がどの程度事実を反映しているのかは不明であるが、正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針が、現在みられる『日本書紀』全般の状況とよく合っていることはしばしば注目されている。